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2011年長崎UBF、ヨハネの福音書、その5 --> 問題紙

永遠のいのちへの泉

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御言葉:ヨハネの福音書 4章1節~26節
要 節:ヨハネの福音書 4章14節 「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

先週の金曜ロードショーはWill Smith主演の「幸せのちから、the Pursuit of Happiness」でした。なかなか感動的な物語でした。Smithさんは家を出ると告げられた妻の電話をもって、アメリカの独立宣言をしたトーマスジェパソンの「いのち、自由、そして幸せの追求」が一人一人が持っている権利であるとした内容を思い出し、なぜ、幸せのちからを「追求、Pursuit」としたのかと自問自答しています。これはきっと、追及はするものの、手には入らない理想の形だから、と自分なりに応えを出していますが、彼は最後、究極の幸せの形を手にして、感動的な幸せの形を体を持って表現してくれます。あの感動的な幸せの瞬間を「幸せのかたち」と表現していることでしょう。

今日の聖書の本文には、幸せのちからを追求した一人の女が登場します。彼女はどんな人だったのでしょうか。そして、彼女が手にしたのは何でしょうか。彼女はまるで、Will Smith主演の幸せのちからで表現されたような、あの感動的なシーンを演出します。 「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。」今日の御言葉を通して、聖書の物語の中の、幸せのちからを一つ、耳にすることができますように祈ります。

4章1節の御言葉をご覧ください。「イエスがヨハネよりも弟子を多くつくって、バプテスマを授けていることがパリサイ人の耳にはいりました。それを主が知られたとき、」3節を見ると、「主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれました。」実際のところ、イエスご自身はバプテスマを授けておられたのではなく、弟子たちであったが、パリサイ人の耳にはイエスがバプテスマを授けたかのように伝えられたようでした。パリサイ人たちの耳にこれらの事実が伝えられたことを聞いたイエスは、ユダヤを去ってガリラヤに行こうとされました。彼らと政治的なぶつかりを避けたかったようでした。当時、ユダヤを離れ、ガリラヤに行く道は何通りかありましたが、ユダヤ人たちはユダヤとガリラヤの間にある「サマリヤ」という地方を嫌っていたがために、サマリヤの地を踏まない、海岸通りや川沿いの道を選んで、サマリヤを通過していました。ユダヤの人々にとってサマリヤの人々はあまり相手したくない人種でした。昔、異邦人がユダヤ人を弾圧し、その文化や宗教を抹殺しようとした時、ユダヤ人たちは抵抗をし続けましたが、サマリヤの人々は異邦人たちを仲良くし、彼らの言いなりになっていた歴史的な背景がありました。サマリヤの人々は外国人と血も混ざっていて、混血児が生まれましたし、もう、ユダヤの文化や宗教的な習慣も無くしていました。彼らは変わったユダヤ人でした。彼らは選民ではなく、もはやユダヤ人ではありませんでした。

ユダヤ人たちはこのようなサマリヤの人々が大嫌いでした。関わりたくもありませんでした。話しかけられることすら気持ち悪いものでした。ユダヤ人たちはサマリヤの地を踏むことすら嫌っていました。4節を見ると、イエスさまもユダヤを去ってガリラヤに行こうとするとき、このサマリヤの地を通っていかなければなりませんでした。イエスさまはどうされましたか。5節をご覧ください。「それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。」とあります。イエスさまは海岸沿いや、川沿いの道を選ばず、内陸の地を選んでいました。イエスさまはサマリヤを通る道を選び、ガリラヤに行こうとしておられました。そして、聖書の中にあらわれるヤコブ、そしてその子・ヨセフが住んでいた町の、近いところ「スカル」を通っていました。イエスさまは何を考えていたのでしょう。神様が建てられたヤコブ、その子ヨセフが住んでいた町を歩きながら、神様のことを思い起こしたことでしょう。そして、そこに住んでいる人々も神様の関心と愛情注がれる対象であると思っていたことでしょう。

6節をご覧ください。「そこにはヤコブの井戸がありました。歴史的な町でした。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられました。時は六時ごろでありました。」今の時刻からすれば昼の12時のことを指します。普通、この地方で昼の12時は昼寝をする時間です。あまりにも熱いので、人々は日陰でお休みをする時刻です。しかし、7節を見ると、「ひとりのサマリヤの女が水をくみに来ていました。」この女はわけありの女でした。朝と昼、友たちと一緒に三々五々、人々と雑談しながら水を汲みに来ることができない、女でした。彼女は昼の12時、誰もいない井戸に、一人で水を汲みに来るしかないわけがありました。18節を見ると、彼女は5人の男と離別し、今は六人目の男と同居している女でした。誰にもこのようなプライベートな話をしてませんでした。誰もこのような話を聞きませんでした。いろいろあった人生の悩みを、人々は誤解したり、勝手に判断したり、裏話が流れたりしました。ふっと、道端で自分のことがうわさされていることを耳にした時、もう、井戸にはいかないと決めていました。水は飲まない、と。飲み水は要らないと、考えていました。しかし、飲まずにはいられない、井戸の水を汲みに、人々がいない、昼の12時、誰もいない井戸に彼女はこっそりあらわれては、飲み水を組んでいたのでした。

その時、イエスさまがこの井戸の傍らに腰をおろしておられたのでした。イエスは彼女のことをすでに知っておられました。彼女の人生がどんな道のりであったのも知っておられました。イエスさまはその彼女に声を掛けられました。7節の後半部をご覧ください。「イエスは『わたしに水を飲ませてください。』と言われました。」『わたしに水を飲ませてください。』

イエスさまは彼女に声を掛けられました。

誰も彼女に声をかける人はいませんでした。遠慮していました。迷惑だと思っていました。ある人たちは話しかけることを嫌っていました。彼女に近づく人々は少ないものでした。しかし、イエスさまは彼女に言われました。『わたしに水を飲ませてください。』イエスさまは彼女がイエス様に水を飲ませることのできる、女であると知っておられました。イエスさまは彼女の良さと彼女の持っていることを知っておられました。イエスさまは彼女の助けを求められました。イエスさまはのどが渇いていましたし、彼女なら、イエス様の渇いている喉を潤ってくれる水があると考えられました。イエスさまは彼女に言われました。『わたしに水を飲ませてください。』ノーベル平和賞に輝いているマザーテレサは、「愛は一人に声をかけられること」だ、と定義していたと、カンボジアの救援活動を続けている「石川洋」さんは証言しています。彼はその感動的な言葉に出会って、今、このような活動のもととなっていると、話しています。声をかけけること、しかも、私に助かることを求めて、声をかけること、は愛に表現です。

声をかけられた女の反応はどうでしたか。9節、「そこで、そのサマリヤの女は言いました。『あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。』」彼女はユダヤ人がサマリヤ人とつきあいをしないのに、声をかけられたことを不思議に思いました。イエス様の声掛けは、理由がありました。10節をご覧ください。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」イエスさまが彼女に声をかけられたのは、彼女から先に求めるべきものでした。しかし、いろんな壁があり、彼女からは勇気がないことを配慮し、イエスさまの方で先に、声をかけられたのでした。イエス様の声掛けは、多分に意識的なものでした。それは、生ける水を与えるためでした。「生ける水,Living Water」とは何を指しますか。これは生きている水を意味します。生きている水とは、生かす水、飲んでも飲んでも渇く水ではなく、一度飲めば、心の奥底から湧き出る水を指します。

11節で、女は「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。」女は普通の水を考えました。飲んでも飲んでも、まだ乾く水を生ける水と誤解していました。先祖ヤコブが与えた水が、生ける水だと思っていました。この井戸から吸い取る水、これが生ける水だと思っていました。しかし、イエスはいける水について次のように説明してくださっています。13節をご覧ください。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」イエスさまは、また渇くことのない生ける水を、彼女に与えたいがために、声を掛けられていました。意図的に、声を掛けられていました。だれも掛けてない声を、イエスさまは掛けていました。誰も近づきたくない彼女に、イエスさまは近づいて、声を掛けられていました。彼女に、生ける水を与えたがためでした。飲んでも飲んでも、また渇く、ヤコブの井戸からの水ではなく、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出る、その生ける水を与えるためでした。

そのような水、生ける水がありますか。どこにありますか。15節で、彼女は「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」とお願いしました。彼女は井戸水を汲みに来ることがつらいものでした。もう、ここまでくみに来なくても良いように、渇くことのない水を求めました。イエスさまは答えました。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」彼女の渇きは、夫から来るものでした。彼女の渇きは男でした。彼女にとって男は飲んでも飲んでも渇くものでした。五人の男と結婚し、離別しましたが、六人目の男を求めて、今新しい友人を作っている彼女は、男への渇きでのどが渇いていました。しかし、彼女の男への渇きは満足できませんでした。この渇きは止まりませんでした。彼女の男へ渇きは彼女をどんどん、人生のどん底に導くばかりでした。友たちを無くし、親戚からも批判され、両親からも口を利かなくなりました。彼女はもはや、渇きのどん底から抜け出ることができませんでした。しかし、イエスさまは彼女に言われました。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

「幸せのかたち」で表現されているWill Smithさんの、あの幸せな姿、彼が表現しているあの幸せのかたちは、イエス様を主人としている女性の幸せ、イエス様を主人としている信者の幸せを間接的に表現している、一番ふさわしいかたちのような気がします。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」イエス・キリストを主人とする人の幸せは、決して渇くことがありません。イエス・キリストが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。

私たちの人生は誰かを礼拝の主としています。勉強であったり、学問であったり、お金であったり、彼女出会ったり、彼氏であったり、家族であったり、子どもであったり、名誉であったり、知識であったり、その礼拝の対象は様々です。しかし、礼拝の対象は神様でなければなりません。天と地をおつくりになり、今もなお、私たちの主となられる方を礼拝しなければまりません。そして、その「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」神を礼拝するもの、イエス・キリストを礼拝するもの、霊とまことによって礼拝するもの、そのような人が、永遠の命への泉を手にします。


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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23