聖書勉強資料 > マルコの福音書の勉強資料(第20講) > 問題紙
御言葉:マルコの福音書10章32節~52節 要節:マルコの福音書10章45節
- 賛美歌:321章 --
- 弟子たちは自己中心的な祈り、 --
- バルテマイは、神様の能力、力を考えていました。具体的な祈り課題を持っていました。 --
1. 32-34節を読んでみましょう。イエスさまの十字架の道に対する決意がどうですか。弟子たちと後についていく人たちは何で驚き、恐れていますか。イエスさまは驚き、恐れている人たちを呼び、どんな話をされますか。
- 10:32 さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められた。
10:33 「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。
10:34 すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」 --
- イエス様が弟子たちを引っ張っていかれた。 --
2. 35-41節を読んでみましょう。ヤコブとヨハネがイエスに何を求めましたか。彼らが求めていることを、イエスさまは何故、分かってないと言われますか。ヤコブとヨハネが求めているこ「右と左の座」と「杯」にはどんな関係がありますか。イエス様が教えた、弟子たちの求め方について話してみましょう。何で、弟子たちは腹を立てていますか。
- 10:35 さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」
10:36 イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」
10:37 彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」
10:38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」
10:39 彼らは「できます。」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。
10:40 しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」
10:41 十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。 --
- 祈りの姿 --> 弟子たちは何を求めていたのか。 --
- 1. 右と左を求めるのではなく、現在の十字架、杯、バプテスマを背負う力をくださるように祈るべきだ。 --
3. 42-45節を読んでみましょう。世の偉い人々や権力者はどのように人々を支配し、権力をふるまいますか。しかし、弟子たちはどのような姿を持つべきでしょうか。イエスさまはどのようにして、そのような信者としての姿を見せてくださいましたか。信者はどんな人々でしょうか。
- 10:42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
10:44 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。
10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」 --
- 主は彼らを呼び寄せ、こんこんと諭された。この世では、偉くなりたいと思う者は、人を押し退けてでも上に上がろうとする。生き馬の目を抜く競争社会で、ボヤボヤしていたら落ちこぼれになる。しかし、主の弟子たる者は違う。偉くなりたいと思う者は仕える人に、偉くなりたい者はしもべになるべきだ。この世の中でそんなことをしていたら取り残される。しかし主に従う者は、この世の法則ではなく、天国の法則で生きるのだ。 --
- 主ご自身が手本を示された。主は「人の子が来たのも、仕えられるためではなく…」(45節)と言われた。主は神の栄光を捨てて、我らと同じ人となって世に来られた。貧しい人を尋ね、友なき者の友になり、病人を癒し、不自由な人を解放し、ついに十字架にかかられた。多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えられた。主は命をかけて手本を示されたのだ。 --
- 弟子たちはこの生き方が、神により祝されることを信じる。--> イエスさまは弟子たちがそのような生き方を持って貫くことを願う。 --
- 我らも弟子たちのように、自己中心ではないか。十字架の主に無関心、無感動の冷ややかな心ではないか。その原因は自分を喜ばせたい肉だ。主の右と左に着座したいという弟子たちの思いは、主のみそば近く仕えたいというものではなく、自分が誇りたい、いい気分になりたいというものだった。結局は自分が一番可愛いというものだったのだ。 --
- 自分が何を求めているのかということが、わかっているつもりだけになっていないか。別に悪いもの、間違ったものを求めているのでなくても、的外れなものを求めていることに気が付かない。つまり自分の姿がわからないのだ。 --
4. 46-52節を読んでみましょう。バルテマイという盲人はイエス様に何を求めましたか。彼の願いはどれほど強かったのでしょうか。イエスさまは何故、「わたしに何をしてほしいのか。」と質問されたでしょうか。彼の願いと、その結果について話してみましょう。
- 10:46 彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。
10:47 ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。
10:48 そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。
10:49 すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」と言った。
10:50 すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。
10:51 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」
10:52 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。 --
- このあと、バルテマイの記事がある(46-52節)。彼は見えないことを自覚し、見えることを必死に求めた。求めていくとき、主が見せ給うものは、傲慢、わがまま、強情な自己の真相であり、さらにそういう自我が磔殺されている十字架だ。その十字架を信仰をもって見上げ、待ち望んだ魂に、キリストが内住し給う。そしてその恵みによって、真に謙った者になる。謙った、素直に従う心を持つ者に、主が変え給う。 --
- 本当に求めるべき謙った、素直な、従いやすい心は、内住のキリストによって形作られる。だから、我らが真に求めるべきは、キリスト内住の恵みだ。アドベントを迎えて、求めるべきものを求め、得るべきものを得て、贖われ甲斐のある者になりたい。 --