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2009年長崎UBF、マルコの福音書、その3 --> 問題紙


寂しいところで祈られたイエス様

Messenger:MSN.David

御言葉:マルコ1:29-45
要 節:マルコ1:35「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」

今日の御言葉はイエス様が、弟子たちと福音電波の宣教活動開始の物語です。イエスさまは今日の御言葉で熱病を治し、悪霊を追い出され、らい病人をいやされました。わたしたち一人一人が病気から自由になり、体が本来の動きを取り戻すことを、イエスさまは心から願っておられます。このようなイエスさまのお気持ちを、34節と41節は次のように要約しています。「イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をお直しになり、また多くの悪霊を追い出された。」「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。『わたしの心だ。きよくなれ。』」イエスさまは朝から晩まで、自分の時間を持てず、神様との時間を作ることができませんでした。それで、イエスさまは朝早くまだ暗いうちに、神様との時間を設けられました。そして、祈りました。今日の御言葉を通して、イエスさまの祈りについて学びますように祈ります。

I. 朝早くまだ暗いうちに(28-38)

29節と30節の御言葉をご覧ください。イエスは会堂で教えておられました。そしてそこを出るとすぐに、ヤコブとヨハネを連れて、シモンとアンデレの家にはいられました。どんな目的があって、シモンとアンデレの家に、ヤコブとヨハネをお連れしたのか、分かりませんが、家に入ってみると、シモンのしゅうとめが熱病で床に着いていました。イエス様が来られたことを聞いて、人々はさっそく彼女のことをイエスに知らせました。

31節をご覧ください。お話を伺ったイエスは、彼女に近寄りました。イエス様は熱病で床についているシモンのしゅうとめの熱病に積極的にかかわりました。シモンとアンデレの家に入って、人々から知らされたしゅうとめの病気を知らされた時、イエス様はその病気に真剣に取り組まれました。近寄りました。人々の病気を知らされた時、近寄ることは、関心を持って、その病気に積極的にかかわろうとする表しです。その熱病について直接、聞いて、病状を確認したいからです。しかし、イエス様は近寄り、その病状を聞いたりすることにとどまりませんでした。病状を確認されたイエス様はしゅうとめの手を取りました。イエス様はその熱のひどさと大変さを自分の体で味わいました。また、ひどい熱を和らげるために、冷たいご自分の手で熱を吸収しました。それだけではありません。イエス様は彼女を起こされました。起こされたとは英語では、起き上がるのを助けられたと表現しています。イエス様は彼女の動きを積極的に手伝いました。イエス様はシモンとアンデレの家で、何かを計画していたのかもしれません。わざわざ、ヨハネとアンデレをお連れしたと記録されていることを見れば、たまたま訪れたものではありませんでした。しかし、その家で聞いた熱病の話に、イエス様は積極的でした。熱心にしゅうとめの病気にかかわり、しゅうとめを看護されました。

イエス様は私たちが熱病で本来の動きをすることができず床についていることを、喜びません。イエス様は私たちがその熱病から自由になり、体を動かし、本来の動きをもって仕事に取り組むことを熱心に願っておられます。熱病で苦しむ人に、すぐに近づきます。そしてその熱病と積極的に戦い始められます。熱病を、イエス様に知らせると、イエス様は近寄るだけでなく、手を取り、動きだされます。起き上がらせ、体の本来の動きを取り戻せられます。イエス様が熱病に係ると、その熱病はどうなりますか。31節の後半部をご覧ください。「すると熱がひき、彼女は彼らをもてなした。」とあります。イエス様が熱病に係ると、熱は下がります。彼女がやるべき本来の仕事に取り組めます。

わたしたちはささやかな熱病でも、ひどい熱病でも、イエス様に知らせるべきです。すると、イエス様は動き始めるからです。私たちが病気から癒され、本来の動きを取り戻すことはイエス様の熱心な願いであり、懇切な祈りです。イエス様に告げ知らせた病気はきっと、治ります。マルコはイエス様の、このような動きを詳細に記録しておいています。イエス様がかかわった熱病は治るのです。

その日の夕方になりました。しゅうとめの熱が引き、おもてなしをしていることを聞いた人々は、日が沈むと、イエス様の所に集まりました。人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのもとに連れて来ました。みな連れてきたと、記録していることを見ると、その数が半端でないことを意味します。33節はその事実を、「こうして町中の者が戸口に集まって来た。」と記録しています。日が沈み動物も自分の巣に戻るときに、町中のものがイエス様のおられる家の戸口に集まりました。彼らは病気の人で悪霊につかれたものでした。病気のため悲しみ、悪霊のため苦しむ人々でした。イエス様はお昼からシモンのしゅうとめの看護にあたり、積極的にかかわっていたがために疲れていたはずでした。戸口に集まった人々に、明日はどうかと相談したくなる、夕方でした。しかし、34節は私たちに、イエス様の彼らへの対応を、次のように記録しています。「イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をお直しになり、また多くの悪霊を追い出された。そして悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスをよく知っていたからである。」イエス様はその夜、多くの病人にかかわりました。多くの悪霊どもにかかわりました。悪霊どもがものを言うのを許されず、積極的に悪霊に向って指導しました。

著者・マルコは「イエス様の病気や悪霊に取りつかれた人々への関心と憐れみを」この34節の中に集約しています。疲れた体、休みをとるべき夕方でありましたが、イエス様の病人と悪霊につかれた人への対応は劣ることがありませんでした。イエス様の病気への積極性が、悪霊を追い出そうとする態度が弱りませんでした。その夕方から夜にかけて、イエス様は多くの病人、多くの悪霊につかれた人と相手とり、休む暇を取ることができませんでした。多くの病気をお直しになり、多くの悪霊を追い出されました。イエス様がどんなに疲れていても、休むべき夕方であっても、イエス様に告げ知らされる病気や悪霊は直され、追い出されます。これがマルコが伝えたいメッセージです。私たちが自分の細かい病気などを、イエス様の都合を考えることをやめて、積極的に告げ知らせ、お直しになる体験をすることができますように祈ります。

35節をご覧ください。「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」これはマルコが見た、イエス様の意外な行動でした。昨日、あれだけ仕事をされ、あれだけお疲れの日を迎えていたのに、イエス様は朝早く、まだ暗いうちに、起きておられました。なぜでしょうか。イエス様は朝が強かった、のでしょうか。イエス様は昨晩、早く寝ることも許されませんでしたし、疲れがたまった日だったはずでしたが、なぜ、朝早く、しかも、まだ暗いうちに起き上がったのでしょうか。「朝早くまだ暗いうち」は誰も活動をしないときです。人々はお布団の中で休みを楽しむ時間です。夢を見る時間です。イエス様はその時、起き上がりました。人々が起きないときに、起き上がりました。それはなぜでしょうか。さびしいところに行かれ、祈ることができるからでした。さびしいところとは、自分と神様だけが存在するところを意味します。イエス様は人々とのかかわりを積極的に持たれましたが、それ以上に、積極的に神様との関係を持とうとされました。昼間は、あるいは夕方は人々が活動し、彼らと係わらなければいけなかったので、人々が活動してない、人々が体を休む、朝早くまだ暗いうちに、神様との関係を持つために積極的に時間を作られました。イエス様は人々との関係以上に、それより積極的に、神様との関係を作るために働きました。人々が来ない、人々とかかわりのない、さびしいところを求められました。ただ一人、自分と神様との間に、二人でもって時間を過ごす、さびしい時間を作りました。さびしい時間を楽しみました。さびしいところでさびしい時間を持つことに積極的でした。それはイエス様のさびしいところでの祈りの時間でした。

マタイの福音書5章4節は次のように言っています。「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」イエス様はさびしいところで悲しみを持って祈られましたが、それは神様の慰めを得るためであり、その慰めがどんなに幸いなことであるのかを、良く理解しておられました。これを見ると、イエス様は積極的に神様の慰めを求め、人々との関係以上に、神様との関係を深めておられたことが分かります。イエス様は与えられた仕事を積極的にこなしながらも、時間がないからといって神様との関係をないがしろにせず、朝早く、まだ暗いうちに、積極的に時間を作り、人々が見えない、ひとりだけの立場になり、神様の前に立ち、さびしいところで神様との関係を持たれました。そこで味わう神様の慰めを、喜び、楽しまれました。

これを見ると、神様との関係は積極的に作るべきであり、赦された環境の中にこなすものではないことが分かります。積極的に神様との二人だけの時間を作るために、朝早くまだ暗いうちに起きられたイエス様のように、私たちは二人だけの時間を持つべきです。朝早いと疲れるから、とか、睡眠時間がないから困るとかの考えを乗り越えて、それ以上に大事な、神様との関係を持つために努力すべきであることを学びます。人生問題、友人関係、病気問題、将来問題や子育て問題など、私たちがかかわるべき仕事は山ほどあります。私たちはこれらの仕事から逃げてはいけません。しかし、それ以上に、神様との関係を大事にされたイエス様のように、人々が活動してない時間に、人々が見えない時間に、人々が見てないさびしいところを、持とうと努力すべきです。その時、神様は私たちに慰めと喜びを、霊的な力を注がれます。私たちは神様の時間を見図ることができ、神様の指示に従って人生を送ることができます。満足と喜びに満ちた人生を作り上げることができます。神様の栄光を阿波らす人生を迎えることができます。「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」

36節をご覧ください。「シモンとその仲間は、イエスをを追って来て、イエスを見つけ、「みんながあなたを捜しております。」と言いました。彼らの関心はイエス様を探してくる人々でした。イエス様を探してくる人々のために、彼らは生きがいがありました。彼らはイエス様を探しに来ている人々がいて、喜びがありました。イエス様もそのような人々に反応すべきだと思いました。いやむしろ、イエス様はそのような人々のことを喜ぶだろうと思いました。それでわざわざイエス様を追ってきて、イエス様を見つけては、「みんながあなたを捜しております。」と喜びをもって報告しました。しかし、お祈りをされたイエス様の反応はどうでしょうか。

38節、イエスは彼らに言われました。「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」イエス様の喜びは探してくる人々にあるのではなく、神様の方針と神様の時、神様の導きにありました。神様から来る慰めと神様の御言葉から来る喜びにありました。神様を喜ばすことはイエス様の喜びであり、生きがいでした。イエス様は言われました。「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」わたしたちは神様に頼り、別も村里へ行くべきです。わたしたちに好意をもって探してくる人々と仲良くすることを計画することも大事ですが、それ以上に、私たちは神様だけに頼る環境を自ら作り上げるべきです。イエス様のように積極的に、そのような環境に自分をさらけ出すべきです。そこはさびしいところであり、神様が必要であり、祈りを求めるところです。そこで、私たちは神様の慰めを体験することができます。神様の存在を体で体験することができます。39節をご覧ください。「こうしてイエスは、ガリラヤ全地にわたり、その会堂に行って、福音を告げ知らせ、悪霊を追い出された。」とあります。

II.ツァラアトに冒された人を直されたイエス様 (40-45)

40節をご覧ください。さて、ひとりのらい病人、ツァラアトに冒された人が、イエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言いました。「お心一つで、私はきよくしていただけます。」英語を見ると、"If you are willing, you can make me clean." とあります。イエス様がやろうとするならば、園心さえあれば、らい病なんかは軽い病気だ、という意味です。ここで私たちはらい病人の不思議な信仰の姿に気が付きます。それはしんどい自分の病気以上に、イエス様の意志や、イエス様の御心が、もっと権威があり、その病気の上に君臨する、支配する存在として認めていることです。

らい病、ツァラアトは当時、神様によって呪われた病気とされ、直らない、死を迎えるしかない運命的なものでした。しかも、目が見えなくなり、指が感覚を失い落とされ、鼻がつぶれてゆく、見る見る悲しく、恐ろしい病気でした。しかも、らい病は伝染病で、その病気にかかると、人々から隔離され、洞窟や町はずれのところに一人置かされました。島に集団で暮らすことを余儀なくされました。人々はらい病の治療を受けるために「島」に集まりました。1パーセントでも治る可能性があるのなら、人々は「島」に足を運びました。ライ病人の詩人・ハンハウンさんはその「ソロク島へ行く道」で、次のように心の悲しみと寂しさを歌いました。一部だけを紹介します。

「歩いても歩いても続く赤土の道端、息が止まりそうな熱い真夏の道のりを、足を引きづりながら歩き続ける道。靴を脱ぐと、木の下で包んでいたものを取り外すと、足の指がもう一本無くなった。残りの二本の指が無くなるまで、歩いても歩いても千里の道程、遠い・ソロク島へ行く道。」

本文のライ病人は運命的な病気の前で切望していたのでした。呪われた病気とされ、運命と悲しみに包まれていました。らい病は彼の人生を完全につぶし、人生の上に君臨していました。抵抗できない強力な力で、彼の人生を左右していました。彼は病気のため、死を待つ運命にさらされていました。しかし、彼はイエス様のお話を聞いて、ひとつ、確信を持ちました。それは「御心ひとつで、らい病がきよくなること」でした。彼は彼の人生の上に君臨していた病気よりも、イエス様の御心、御心、そのお気持、意思が、もっと強力であることに気づかされました。御心ひとつであれば、らい病もきっと治る確信を持ちました。病人は病気よりもイエス様の意志と心がもっと強力な力を持っており、そのお気持ひとつで、らい病からきれいに治ることを確信しました。病気の権威と力以上に、イエス様の御心と意思の権威と力が優先されることを、確信されました。

イエスは深くあわれみました。そして、手を伸ばして、彼にさわって言われました。「わたしの心だ。きよくなれ。」イエス様の御心が病気の上に動き出した瞬間、かれはすぐにらい病が消えました。清くなりました。彼を押しつぶしていた病気が、イエス様の御心ひとつで完璧に治療されました。

病気は強力な力があり、私たちの上に君臨します。わたしたちを支配します。わたしたちの人生をその権威と力で左右します。しかし、わたしたちは確信すべきです。そのすべての病気も、イエス様の権威の前では全く力を発揮することができないことを。。。イエス様の十字架の力の前で、すべての病気は気力を失ってしまっていることを。それが福音であり、イエス・キリストの行われた奇跡です。それを信頼し、信じる人々に、その奇跡が訪れます。主の恵みが現れます。イエス様の権威はすべての上に君臨されます。私たちの病気も、治れそうでない性格も、人間関係も、人生の将来も、イエス様の御心ひとつで、変わります。

「お心一つで、私はきよくしていただけます。」
"If you are willing, you can make me clean."

清くなったライ病人はイエス様の指示に従わず、イエス様を苦しめました。わたしたちがイエス様の力により、その権威により、病気から治ることも大事ですが、もっと大事なことは、治ったのちのイエス様の指示に、従順すべきであることを、今日の御言葉は教えています。私たち、クリスチャンの人生目標は、その方を喜ばせることです。私たちにはっきりした人生の目標を定めてくださいました神様を感謝賛美いたします。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23