** 2009年長崎UBF Ten Step 1stメッセージ [#mae67815]
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御言葉:創世記1:1-25&br;
要節:創世記1:1「初めに神が天と地を創造した。」

神様が新しい年に、Ten Stepを勉強するようにしてくださいましたことを、感謝いたします。Ten Stepはつくりによっては創世記と新約聖書の大事な部分を抽出して、初心者のための勉強をするものです。しかし、私たちは4月から「マルコの福音書」を勉強することになっているので、ほぼTen Stepは創世記に力を入れる形で進もうとしています。神様が私たちのTen Step勉強を祝して下さいますように祈ります。

創世記は起源の本と呼ばれ、Genesisと書くギリシャ語での「起源」を意味します。ですからモーセによって書かれた創世記は、すべての初めのものが記録されています。創世記勉強を通して、私たちは、この世の始まりについて理解することができますし、どこで、このような世の様々な問題が始まったのか、その解決の糸口についても学ぶことができます。また、創世記には私たちの人生の意味と目的ついて書かれてあります。特に、1章と2章では神様について、書かれてあります。この神様が全能な方であること、その方は支配者であることを教えています。また、神様は秩序のある世界をおつくりになりましたし、霊的な秩序も立てられましたことを教えています。ですから、創世記の1章2章を勉強しながら、私たちは全能な神様、支配者の神様について学ぼうと思います。

1章1節をご覧ください。「初めに神が天と地を創造した。」

''第一に、神様ははじめの前から存在された方です。''

「初めに神が・・・」とありますが、これは神様がすべての始まりの前に、すでに存在されたことを意味します。聖書が示す神様は永遠から永遠にまでおられる方です。時間が始まる前に、地球が始まる前に、空が始まる前に、私が存在する前に、すべての物事が始まる前に、夢も希望も、喜びも賛美も、悲しみも苦しみも、恐れも、裁くも、戦争も、平和もが始まる前から、神様は存在していたことを教えています。神様ははじめのはじめに、すでにおられました。

私には一人の弟がいますが、彼が小学校の時、私に深刻な質問をした覚えがあります。まだ小学生なのに、「兄貴、なぜ兄貴は兄貴なのかなぁ。」「なぜ、私は私なのかなぁ。」「どこからきたのかなぁ。」「どこで始まったのかなぁ。」「・・・」これは誰もが一度は考える深刻な質問です。私の弟は早くからその問題に深刻にぶつかっていたようです。しかし、この質問に私は何と答えたのか覚えていません。ただ、私も同じ質問に悩まされていたことを覚えています。「なぜ、私は私なのかなぁ。」「なぜ、あなたはあなたなのかなぁ。」「なぜ、私は日本人なのかなぁ。」「なぜ、あなたはアメリカ人なのかなぁ。」「なぜ、私は日本語をしゃべるのかなぁ。」「なぜ、朝があり、なぜ、このように礼拝があり、涙があり、感動があり、恐れがあり、心配があり、喜びがあるのかなぁ。」と疑問を抱くのは、誰もが経験するものです。これはすべて、はじめの問題を問うものです。はじめに何があって、今に至ったのかを聞いている質問です。しかし、その答えを確実に得てないのが事実です。だれもその答えに明確な答えを出していません。どんなに優れた哲学者も、どんなに優れた科学者も政治家も、この質問に答えが出せません。しかし、聖書は言います。「はじめに神が天と地を創造した。」すべて神からスタートしたことを意味します。私は神からスタートした人生であり、神から私が作られ、兄貴が作られ、日本人が作られ、この世が作られ、喜びが、恐れが、賛美が、礼拝がい作られたことを宣言しています。「はじめに、神が天と地を創造しました。」

''第二に、神様がはじめに、造られました。''

「創造されました」とは、おつくりになられたことを意味します。これは、何億年、何百億年をかけて、今の状態にじわりじわりと進化したのではなく、神様が今のような状態で自ら、その知恵と力とによって一発でおつくりになられたことを意味します。聖書はこの世の始まりやすべてのスタートが、進化論者たちが主張しているように、偶然に作られたのではなく、神様によって、必然的に出来上がったことを教えています。

青く見えるお空も、偶然に、昔の昔から、ずっと前から、何百億年の前から偶然と偶然を重ねて、たまたま、このような青い色の空になったのではなく、神様が必要に応じて、必要とされていて、必要だと判断されたから、青いお空を作られたことを意味します。つまり、すべての始まりに神様が関与し、神様の意図が描かれていて、神様の目的が示されていることを意味します。ちょうど今から200年前の1809年2月8日に、進化論を主張したダーウィンが出生しました。そして、ちょうど150年前の1859年11月24日に、進化論の代表とされる「種の起源、The origin of the species((Charles Darwin, On the Origin of Species by Means of Natural Selection, or the Preservation of Favoured Races in the Struggle for Life, 1859, p. 109.))」が書籍として発表されました。この書籍はその以降、13年間に渡り加筆・修正を加えて、1872年の第6版まで修正が加えられましたが、要は「自然選択説の概念」を紹介しています。ある生物が、羽を生やし、飛ぶ機能を発達させれば、その子孫は、その能力を引き継いで、またその子孫へ遺伝を引き渡し、自然が選択され、優れた能力を持ち、生存競争に生き延びる個体が種として残ってゆくということです。しかし、近年の研究から、遺伝子にはバリアがあり、豚が羽を伸ばして、飛ぶことはできない、と結論付けています。犬が犬を産みますが、豚を生むことはないのです。鳥とバナナが親戚ではないと結論付けています。つまり「すべては偶然と偶然を重ねて、進化した」ことを主張する初めての書は近年、多くの科学者たちによって疑わしく思われています。科学者誰れひとり、アメバから人間にまで偶然と偶然を重ねに進化したのだと、信じません。なぜなら、進化論のいくつかの説明は理解できるが、すべてをこの説明に任せられない疑問があるからです。それで、小進化とか大進化とかの理論が唱えられたり、近年は「超能力設計論」が支持を得ています。設計図面があるのだ、というものです。DNAはその一つだと言えます。

なにはともあれ、聖書は偶然にこの世が作られたことを反対します。聖書はこの世が全能な神様によって設計され、計画され、その目的に沿って立派に作られたのだと宣言します。「神が天と地を創造した。」全能な神様が、支配者の神様がこの宇宙を、この世界を、この自然を、この私を、この私の人生を、私の子供を、私のこれからのすべてを、そのご計画と目的と美しい志を示すために、おつくりになったと教えています。これが、創世記1章1節の結論です。神様が天と地の、またすべてのものの作り主です。信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟ります(へブル11章 2節)。

特に、私たちが今日勉強する創世記1章1節を受け入れるとき、私たちは聖書が理解でき、この世界と私たちの人生が読み取れます。私たちは偶然に、たまたま、偶然と偶然を重ねてここにいるのではなく、神様の設計図面によって計画され、神様によって関与され、いまここにいて、喜び、悲しみ、驚き、歩き、笑う、自己表現をしているのです。

''第三に、''


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