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2011年長崎UBF、ヨハネの福音書、その7 --> 問題紙

五つのパンと二匹の魚の奇跡

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御言葉:ヨハネの福音書 6章1節~15節
要 節:ヨハネの福音書 6章11節 「そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。」 私たちがもし、自分の否定的な考え方や諦める癖を乗り越えることができるなら、いろんな新しい世界を経験し、様々な夢を目の当たりにすることができるのです。私たちはどれだけの可能性、夢、希望等を、このような否定的な考え方が、諦める癖が、消し去っているのか分かりません。これは全く、神様を考慮せずにお話をしていますが、もし、私たちが考え方のあるところに、天と地を創造されました神様のことを鑑み、その可能性と期待等を持つなら、私たちは想像すらできない世界、考えられない奇跡を見ることができます。今日の御言葉には、これらの神様の中での奇跡を経験したアンデレについて説明しています。今日の御言葉を通じて、否定的な考え方を、諦めて泣く癖を捨てて、神様への期待と信仰を持つものとなりますよう祈ります。

6章1節ご覧ください。宮の中で38年間もの間、病気にかかっていた人を癒された後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、テベリヤの湖の向こう岸へ行かれました。2節を見ると、大ぜいの人の群れがイエスにつき従っていました。大勢の群れがイエスさまと弟子たちのわたって行ったテベリヤ湖の向こう岸につき従っていました。イエス様のいくところには大勢の群れに埋め尽くされていました。なぜ、イエス様の周りには大勢の群れが集まっていたのでしょうか。2節を見ると「それはイエスが病人たちになさっていたしるしを見たからである」と記されています。彼らはイエスさまが病人を癒す力があったために、つき従っていました。彼らはイエス様に病気から癒してくれることを期待していました。

3節をご覧ください。イエスは山に登り、弟子たちとともにそこにすわられました。イエスさまは弟子たちと山登りを楽しんでいたのでしょうか。聖書の中で、イエスさまとかかわる山は、祈りの場所であったり、変貌の様子を見せるところであったり、個人祈りをするために訪れるところでした。つまり、イエス様や弟子たちにとって山は神様とかかわりを持とうとするときに訪れるところでした。イエスさまは弟子たちと修養会を考えたいたのかもしれません。その時期は「ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた」時でした。イエスさまは神様がなさった過越しの意味を深め、改めて神様の教えを深める時間を弟子たちと一緒に持とうとされたのでした。しかし、その時でした。5節を見ると、「大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを」ご覧になりました。イエスさまはこれらの群れを見て、ピリポに言われました。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」イエスさまは彼らが食事もせずに、イエス様についてきていることを知っておられました。イエスさまはもう時間も遅くなり、彼らが町に行くまでは空腹のままであることに気づかされました。イエスさまはピリポに言われました。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」しかし、6節を見ると、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった、とあります。イエスは、ご自分では、しようとしていることを既に知っておられましたが、愛する弟子・ピリポを試そうとされました。これを持って、ピリポの弱点を明らかにして、彼が神様を信頼し、イエス様に頼る弟子としての姿勢を持たせようとされました。イエス様はピリポのすべての弱点、長所を知っておられ、彼を試しておられました。

ピリポの答えが何ですか。7節、ピリポはイエスに答えました。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」ピリポの答えは早いものでした。ピリポはイエス様の質問に体が反射的に反応し、計算をしました。可能性を打診しました。イエス様の相談に回答を出そうと電卓のような頭を走らせました。結果は「二百デナリのパンでは足りない」という結果でした。「200万円があっても、足りません」と応えたのでした。

しかし、隣でこれらの話を聞いていた弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレが体を動き出しました。イエス様の相談に、私は何ができるかと考えました。それで、パンを探しているイエス様のために、パンがどこにあるのか探し始めました。そして、ある少年がオオムギのパンを五つ持っていることに気が付きました。パンだけでなく、その少年は小さい魚も日匹持っていることを知りました。そこで、アンデレはイエスに言いました。「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」アンデレは五つのパンと二匹の魚が大勢の群れにあまり役に立たないことを知っていました。しかし、アンデレは最初からあきらめることなく、できるだけのことをして、イエス様にそれを持って相談しました。「どうしましょうか。イエス様」

以上から私たちはイエスさまがなぜ、ピリポに試そうとして、質問されたのかがわかる気がします。ピリポはいつも、計算が速く、頭の回転や判断が鋭いでしたが、それが彼の足かせとなり、物事か進みませんでした。ピリポにはこれらの問題を克服する必要がありました。頭だけで考える癖を、動かないで不平不満を言いふらす癖を、やってみるチャレンジが少ない癖を、克服すべきでした。何よりもピリポにはアンデレのような行動、イエス様への期待が求められていました。何より、ピリポには自分の頭や早い計算力、判断力に頼る以上に、イエス様への信頼、神様への期待が求められていました。ピリポには「信仰」が必要でした。ピリポに求められているのは、アンデレのような行動力でした。自分でできることを手足を動かしてやる、行動力が求められていました。

霊的に厳しい状況の中でも、イエス・キリストの12弟子を得ようとする祈りの課題、一人のアブラハムとサラを得ようとする私たちの希望、私たちの教会に主のしもべたち、信仰の先祖たちを得ようとする私たちの念願の祈りの課題は、まるで、ピリポやアンデレの前に立ちはだかっている、食べさせるべき「男だけ数えても5千人の群れ」です。ピリポのように計算上、私たちの能力上、力からして絶対無理、な計算結果を目の当たりにしています。仕事で忙しい、子供たちの面倒を見るだけでも時間がないのに、弟子養成は事実上無理な話です。ピリポのように考えれば、そうですが、アンデレのように考えるとどうなりますか。できるものを、イエス様に持っていくことです。朝の祈りをイエス様に持っていくことです。一チームの聖書勉強をイエス様に持っていくことです。メッセージ準備や聖書勉強などを、イエス様に持っていくことです。否定的に考えること、泣き出したくなる悲しみを思い出すことをやめて、出来なかったことを後悔する癖を捨てて、今、感謝を持ってできるものを探して、イエス様に祈りを持って、ささげることです。その時、イエスさまは動きだされます。

10節を見ると、イエスはアンデレの行動に動きだされました。「人々をすわらせなさい。」草が多いそのところに男たちが座りました。その数は何と、およそ五千人もありました。そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげました。5千人の前に五つのパンを二匹の魚はイエスさまにとって悲しみのネタではなく、恥ずかしいものではなく、感謝題目でした。イエスさまが動き出す原動力でした。イエスさまが動き出し始めると、すわっている人々に食べ物が配られました。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられました。そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちにイエスさまは「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」と命じられました。彼らは集めてみると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになりました。人々は、イエスのなさったしるしを見て、驚きました。「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。」と叫びました。そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしました。彼らはパンの問題を解決してくれる王様を迎えようとしました。しかし、イエスさまはどんな方ですか。イエスさまは山に退かれる方です。イエスさまはパンの問題を解決してくださる方ではなく、山に退かれる方、霊的な問題を解決してくださる方です。ですから、五つのパンと二匹の魚の解決ストーリも、私たちは霊的に見つめるべきです。霊的な教訓をつかみ取るべきです。

イエスさまはピリポの神様やイエス様に頼らない不信仰を指摘されたのです。また、アンデレのようなイエス様への単純な信頼と相談、信仰を祝福されたのです。私たちがピリポのような人ではなく、アンデレのような人となり、長崎にアブラハムとサラを、12弟子を得ることができますように祈ります。長崎大学の3パーセントの学生たちが聖書先生になることを夢見て、イエス様に小さな心と可能なものをお持ちして、相談するものとなりますように祈ります。


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