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2009年長崎UBF、マルコの福音書、その8 --> 問題紙


神の国はからし種のようなものです

Messenger:MSN.David

御言葉:マルコ4:21-34
要 節:マルコ4:31-32「それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」 」

今日の御言葉はイエス様が神の国について、たとえをもって説明している内容ます。神の国はたとえのようなものです。分かるかのようで、良く分からない、形のない、触れないものです。イエス様は言われます。「聞く耳のある者は聞きなさい。」「聞いていることによく注意しなさい。」イエス様のたとえ話を、よく注意して聞くことができますように祈ります。聞く耳がありますように祈ります。

I. あかりは、燭台の上に置くためのもの(21-25)

21節の御言葉をご覧ください。イエス様は1節から20節までたとえをもって、神様の御言葉を受ける人の心畑について説明されました。しかし、弟子たちもその意味を理解することはありませんでした。イエス様は弟子たちには補足説明を加えられました。つづけてまた言われました「あかりを持って来るのは枡の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。」あかりは基本的に燭台の上に置きます。明かりは寝台の下や枡の下のようなところにおくためのものではありません。同じように、神様の御言葉も隠しておくためにではなく、明らかになるためのものです。神様の御言葉はすべての人々が理解できる、分かる、その通りになる時を迎えます。いまやイエス様がたとえをもって説明するしかない、神の国も、その時になると、明らかになります。その時になると言葉は一点一画も地に落とされずに、実現されます。

いまや弟子たちさえも理解に苦しむ、神の国はその時になるとだれもが見る形で実現されます。それでイエス様は言われます。「隠れているのは、必ず現われるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。」覆い隠されている神の国を、イエス様は明らかにするために、たとえをもって説明されました。しかしながら、神の国は誰もが簡単に理解できる、そのようなものではないことを、イエス様は知っておられました。しかし、どのような人たちには開かれているのでしょうか。それは弟子たちには開かれていました。弟子たちとは、聞く耳を持っている人たちだからでした。弟子たちは良い地を持っているからでした。良い地とは、御言葉を聞いて、受け入れる心畑を指します。神様の言葉を聞いても、受け入れない人は、隠された国が実現される様子を確認することができません。しかし、言葉を聞いて受け入れる人には、神の国の成り行きがはっきりと見えるのです。イエス様は再度、彼らに言われました。「聞く耳のある者は聞きなさい。」

さらに、イエス様は彼らに言われました。「聞いていることによく注意しなさい。」これは言葉を聞いて受け入れる人でも、聞いていることによく注意をする人はどうなりますか。注意深く聞いている言葉を観察すると、観察力が成長します。理解力が高められます。キャパシティが増えます。自分が持っている測りが広くなり、深くなります。そのはかりに従って量り与えられます。聞いていることによく注意をして御言葉の深さと広さを理解する人は、その分、神の国への理解が深くなります。人に量ってあげる自分の量りは、神の国をどれだけ受けるのかの、受けるはかりにもなるのです。神様はその量り分だけではなく、増し加えて理解力を深められます。ですから、イエス様は言われます、。「聞いていることによく注意しなさい。あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまいます。」

II. 神の国は、人が地に種を蒔くようなもの(26-29)

さっそく、イエス様は理解しづらい神の国について説明し始められました。26節をご覧ください。また言われました。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、、、」とあります。神の国は人が地に種をまくような様子で説明できます。ここで、人とは神様を指し、種は神様の御言葉を指します。地とは種がまかれる人々の心畑です。神様は神様の御言葉を人々の心畑にまきます。聖書をもって、宣教師を通して、牧師さんを通して、あるいはクリスチャン書籍を通して、クリスチャンの友人を通して、クリスチャンになった兄弟や親類を通して、様々な方法で、人々の心畑に神様の御言葉がまかれます。御言葉を受けた人何かをしているようですが、聖書は「夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。」と説明されます。御言葉を受けた心畑は実は、何もすることがないのです。夜になると練るし、朝になると起き、そうこうするうちに、種は育ちます。どのようにしてか、人は知りません。人に求められるのは、聞いて受け入れるのかどうか、良く注意するのかどうかのみです。しかしながら、地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。御言葉を受け入れるさえすれば、地は人手によらず、神様の力により、その御言葉が苗を、穂を、穂の中の実を作り上げるのです。わたしたちは何もすることがないのです。ヨハネの福音書の1章13節は、クリスチャンのことを次のように説明しています。「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」御言葉を聞いて、受け入れる、信仰により信者は生まれるのです。そして、その心に神の国が形成され、平和と喜びと賛美にあふれる、苦しみと悲しみを勝ち得る生活を送ることができるのです。聖霊の実により生きる、真のクリスチャンになるのです。ガラテヤ人への手紙5章22節と23節にはこのような聖霊の実について次のように記録しています。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」御言葉を聞いて受け入れる人には、このような聖霊の実が結ばれるのです。

コリント人への手紙第一、13章13節は次のように言っています。「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」使徒パウロはこの御言葉の結論として、愛を追求しなさい、としています。聖霊の実は愛につきます。信仰も大事で、希望も大事ですが、いちばんすぶれたものは愛です。わたしたちの心に愛が熟するとき、神様はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。愛の実を結ばないものは、火に投げ込まれます。しかし、愛の実を結ぶ人は神様の御国に迎え入れられます。

III. 神の国は、からし種のようなもの(30-34)

イエス様はまた言われました。30節の御言葉をご覧ください。「神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。それはからし種のようなものです。」からし種は種の中でも一番小さいものとして有名です。それで、イエス様は「この種が地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、」と言われます。しかし、「それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」とあります。パレスチナのからし種は3メートルぐらいまで成長するんだそうです。その日陰には鳥が巣を作ります。彼らの目の前には想像すらできないできことが起こっているのです。これは何を意味するものでしょうか。

神様の言葉は人々の心の動きや考え方の動きに比較すると、からし種のようなものです。小さくてどこにあるのかも分かりません。いくら話しても全く影響されてないような、すぐに消えってしまうような感んじがします。人々の心の中にある御言葉の姿を確認することができません。しかし、からし種には三メートルまで成長する、また、その陰には鳥が巣を作る程の不思議な力があります。人の心に落とされる御言葉は、からし種のようなものです。どの種よりも謙遜に、謙虚に人々に近づきます。その人格に傷つけることなく、主張することもなく、そっとはいります。その種が落ちたかもわからないほど、謙遜にかかわります。しかし、この種はどの種よりも力強さを持っています。なぜでしょうか。それはその言葉には聖霊が伴うからです。神様の霊が伴うからです。聖霊の働きがあるからです。聖霊の働きは種を成長させます。人手によらず、種は成長します。そして空の鳥がその陰に巣を作るのです。

以上から、私たちはイエス様のたとえをもって教える神様の国について学びました。神の国はからし種のように人の心畑に落とされます。見えもしない形で、主張せず、そっと近づきます。強い風があれば吹き飛ばされ、強制せず、受け入れない人には強引に植え付けず、無視されてもしょうがない形で近づきます。しかし、この種には力があります。この種には人手によらず、神様自らの働きの力によって働きます。寝て、起きるうちに、知らないうちに、認識されないうちに、神様はそっと働きます。そして、実を結ばせます。信仰と希望と愛の実を結ばせます。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の実を結ばせます。私たちの努力によらず、出身によらず、肉の欲求や人の意欲によらず、ただ、神によって生まれ、実が結びます。私たちに求められるものはただ、御言葉を聞いて受け入れることだけです。種は想像超える成長ぶりを見せ、実が熟します。そして、実が熟した時、主人は刈り入れを始めるのです。実を結んだものは蔵に、実を結んでないものは火に投げ込まれます。

この時間、私たちがただ、神様の御言葉を聞いて受け入れる素直な心を持ちますように、肩に力を抜いて、主の願いに自分の人生をまかせますように祈ります。神様は私たちを驚くほど成長させ、美しい実を結ばせて下さるからです。

33-34節の御言葉をご覧ください。「イエスは、このように多くのたとえで、彼らの聞く力に応じて、みことばを話されました。たとえによらないで話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちにだけは、すべてのことを解き明かされた。」私たちが良く聞いて、注意深く考えて、弟子たちのように理解を深める、神の国を受け取る祝福された人となりますように祈ります。

ハレルヤ

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