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2009年クリスマス聖書勉強、その4 --> 問題紙

クリスマス礼拝
地の上に平和が

Messenger:MSN.David

御言葉:ルカの福音書、2:8-20
要 節:ルカの福音書、2:14「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

Merry Christmas !!

今日の礼拝の要節として選んだのは、14節です。14節をもう一度、皆さんと一緒に読んで見たいと思います。[要節を読む]今日のタイトルが「地の上に平和が」です。地の上とは私たちが住んでいるこの長崎、日本、今の世界のことを指します。このところに平和があるようにと、多くの天使たちが讃美歌をうたったのだと、記録しています。天使たちの賛美と歌は嘘ではありません。なぜなら、天使たちは嘘をつかないからです。天使たちの賛美と歌によれば、この長崎に、日本に、この世界に平和があるはずです。聖書が嘘を記録しているのであれば、これは大問題です。聖書は嘘をつかないので、聖書であり、The Bibleなのです。どうですか皆さん。平和がありますか。私たちが住んでいるところに、私たちの周りに、私たちの長崎に、日本に、この世界に。考えれば考えるほど、この言葉は嘘のように聞こえます。天使が嘘ついたら終わりです。多くの天使たちが賛美しながら嘘をつくはずがありません。もう一回、14節の御言葉を注意深く、読んでみましょう。[要節を読む]「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」神の御国には栄光がありますが、地の上に平和が、御心にかなう人々にあるように、と記録されています。地の上に平和があるのではなく、地の上にすむ人々の中でも、御心にかなう人々にあるのだと、宣言しています。神様の御心にかなう人々には平和があると、The Bibleは宣言しています。

11節の御言葉をご覧ください。聖書はその言葉が本当なのかどうかを確かめられるよう、その証拠として、当時、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた、羊飼いたちにに次のように言われました。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」証拠として、今日、ダビデの町に生まれた嬰児がいるのだ、としています。しかも、生まれた嬰児がいるのですが、その嬰児は飼い葉おけに寝ておられるのだと、証言しています。飼い葉おけ、これは馬小屋の隅にある馬の餌を置くところを指します。そこに置いておいたものは、馬がおいしく食べられる、そのような場所です。そのような場所に生まれたばかりの嬰児がおいてあるのだ、としていたのです。それが御心にかなう人々に平和がある、証拠だとしています。どう聞いても信じられない、すぐには考えられないものです。だれが、生まれた子供を馬小屋の飼い葉おけに置くか、と無視しがちです。皆さんなら、どうしますか。そんなこと、あるはずがないと無視してしまいがちな話でしょう。

しかし、御使いと天の軍勢の賛美の声を聞いた羊飼いたちは、互いに話し合って次のように言いました。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」彼らは御使いたちの話を無視しませんでした。The Bibleの話をないがしろにせず、自分たちの目で確かめようと、計画しました。夜番をしながら羊の群れを見守っていた彼らは御使いたちの声を確かめるべく、16節を見ると、急いでベツレヘムに行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てたのでした。羊飼いたちは、飼い葉おけと嬰児を見つけ出した時、これが本当なのかと興奮しました。それを聞いた人々も驚きました。それもそのはず、生まれた幼子を馬小屋の飼い葉おけに寝かせる常識外れの行為が救い主の証拠である、というのです。しかし、彼らの心にわき出る喜びと賛美は、この上もない喜びに包まれたのでした。彼らの心は平和そのものでした。

マタイの福音書を見ると、羊飼いたちと同じような喜びに包まれた人々を描いています。それは東方の博士たちです。彼らは彼らが研究の対象としていた星の動きから、キリストの生まれを告げ知らせられたとき、星の動きから特定した都市、エルサレムの王様が住んでいた宮をお尋ねしました。キリストはそのようなところでお生まれになると考えていました。しかし、The Bibleが示したベツレヘムでその星を見つけ、その星が、馬小屋の上にとどまっていることを見つけた瞬間、彼らはこの上もなく喜びました。英語では、「they were overjoyed.」と記録しています。

私は田舎町に生まれ、まったく信仰の教育やThe Bibleを見たこともない環境で育ちました。大学生になるまで、教会は、このようにパーティがあったり、好きな女の子が通っているといううわさを聞いて、行ってみたりはしたものの、無関心そのものでした。The Bibleは嘘ですし、たまに、教会でお話をする牧師先生の話も嘘でした。関心もなければ、聖書や教会等に未練もありませんでした。ただ、私は深刻な人生問題にぶつかっていたに違いありませんでした。人生が楽しくありませんでした。大学生になっても楽しくありませんでした。好きであった釣りに行って、魚を釣る楽しみも、私に喜びとして近づきませんでした。

しかし、The Bibleが好きな人の本に出会い、また彼らに憧れて、彼らの考え方を聞いているうちに、聖書勉強をしてみたいと思うようになりました。聖書勉強自体がわたしに楽しみを、心の平和をもたらしたわけではありませんでしたし、楽しみがむしろ制限されるような気がして、なんとなく、聖書勉強も飽きてきたころ、私は劇的にも、聖書のことばに出会いました。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」私を苦しめいていた根深い劣等感は、私だけに限るものではない、ことに不思議な安心感と開放感をもたらしました。また、生まれつきの盲人であり、乞食を見た弟子たちは、「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」と質問しました。かわいそうな彼はだれが責任持ちますか。彼ですか。彼の両親ですか。問いただす弟子たちの質問に、イエス様は言われました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。」彼の責任でも、その親の責任でもない。神様が彼に行いたい技がある。私たちは誰のせいなのか、その人なのか、その両親なのかと、考え込むより、今、私に神様は何を求めているのかを考えるべきだ、それを行うべきだ、という声でした。私はこの二つの言葉に出会いましたが、この出会いは、神様が私に近づいた証拠でした。私の心は興奮し、この上もなく喜びに包まれました。その後、私はその興奮の源が「イエス・キリストを信じる信仰」であることに気がつきました。「イエス・キリストの御名を信じる信仰」「イエス・キリスト」そのものが、喜びと興奮につ包まれる源であることを悟るようになりました。

UBF生活をしてから、同じ経験を何度もしながら、私に喜びと賛美、この上もない喜びを与えるのは、「イエス・キリスト」であり、自分の罪を、イエス・キリストの前に言い表すことであることを悟りました。ここで、二つばかりの経験を紹介をして、私の主・イエス・キリストを賛美したいと思います。

UBFでは聖書勉強をしたい人々と一緒に聖書を勉強するチャンスが多いのですが、私が大学四年生のごろ、ある学生と聖書勉強をしながら私が彼に紹介しているのはキリストではなく、私が好きな思想家であることを気付いた時、私は悔い改めました。私は聖書勉強をしているのではなく、ある思想家の宣伝をしているのだと、悔い改めの文書で書いて告白をしました。その瞬間、私は不思議な喜びとあふれる涙に包まれました。イエス・キリストの魂、聖霊の訪れでしたし、感激と驚きの経験でした。また、私は大学四年生のごろ、日ごとの糧の聖書勉強で、ある姉妹と聖書勉強をしたことがあったのですが、その勉強を見ていた私の牧者が「あなた、あの姉妹、好きですか。好きであったら、その人の心を奪い、楽しもうとする心は捨てるべきですよ。」私ははじめて、私が女の子の心を奪う、泥棒の癖があることに気づかされました。私は恥ずかしい癖を悔い改めました。多くの女の子の心を奪い、楽しんでは、捨てる、私の罪を悔い改めた瞬間、私はまたも不思議な喜びと賛美に包まれました。「イエス・キリスト」が近づいた証拠でした。聖霊が私を包み、涙と喜びにあふれさせました。私に真の喜びと賛美、溢れんばかりの興奮に包まれるようにしてくださったのは、罪を口に表し、悔い改めたときに近づく「イエス・キリストの聖霊」なのでした。この上もない喜び、Overjoyが心の奥底から湧き出ました。地の上に平和があることを心から悟り得た瞬間でした。

この平和は、御心にかなう人々にあるのです。御心にかなうとは、神様に選ばれた人々を指します。神様が近づく人々を指します。やがてはイエス・キリストを信じる人、を指します。イエス・キリストを主であり、キリストとして告白する人々を指します。自分の罪を素直に告白し、神様の前に立つとき、私たちは不思議な喜びと溢れんばかりの平和に包まれます。神様の声を、ないがしろにせず、信じられない話を確かめた羊飼いたちが喜びと、平和のメッセージをつかんだのです。私たち一人一人が、私たちに近づいた神様を、ないがしろにせず、平和の喜びに包まれる、祝福されたもの、選ばれたもの、この世において神様の栄光を表すものになりますよう、祈ります。

Merry Christmas !! イエス・キリストの来臨を喜び、賛美します。

ハレルヤ

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