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2012年長崎UBF Ten Step 9thメッセージ --> 問題紙

起きてとこを取り上げて、歩きなさい

Messenger:MSN.David

御言葉:ヨハネ5:1-9
要 節:ヨハネ5:6 「イエスは彼に言われた。『起きて、床を取り上げて歩きなさい。』」

「四苦八苦」という言葉があります。仏教の影響になじんている私たちには広く知られているものです。つまり、生・老・病・死が苦しみであり、会いたくない人に会う苦しみ、愛する人と別れる苦しみ、ほしいものが手に入れない苦しみ、元気を持て余す苦しみを加えての「四苦八苦」と言うようです。今日の本文に出ている38年間病気にかかっていた人も、その人生が苦しみです。今もなお、苦しみに包まれて、心が悲しみにのまれています。しかし、本文を見ると、イエスさまは彼の人生において光です。絶望から新しい夢を実現してくれた方です。どのようにして、それが実現したのでしょうか。

Ⅰ.よくなりたいか(1-7)

1節をご覧ください。ユダヤの祭りがあって、イエスはエルサレムに上られました。エルサレムとは日本でいえば熊本城、大阪城のようなお城を指すもので、BC20年からAD70年までのエルサレム地図を見ると、頑丈なエルサレム城の中には城壁があり、城壁を通りぬくたくさんの門が設けられていました。ホルタの門、美し門、ダビデの門、柱の門などがそれですが、エルサレム城の中には、東側にヘロデの神殿がありますして、その神殿から北側に城壁があり、それにつながる門として羊の門がありました。その門を通るとベテスダと呼ばれる池があって、そこに五つの回廊が設けられていました。池の周りに五つのテントが用意されていました。

3節を見ると、その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていました。幾つかの聖書を引用すると、その中にいた病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者たちは池の水がかき回されることを待っていました。伝説によれば「御使いがたまにこの池に降りてきて、水をかき回すのですが、その水がかき回されてから一番初めに水の中に入る人は、どんな病気にかかっている人であってもその病気から治る」うわさが立っていたからでした。この伝説は根拠があったようで、人々はそこにテントを設け、たくさんの病人を連れてきました。

ベテスダの池の伝説は①たまに水がかき回される、②その中に一番初めに入る、という二つの条件が揃えて初めて念願がかなえられる仕組みとなっていました。これはどんなに確率的に難しいものでしょうか。たまにかき回される水が珍しいものですが、しかも、そこに一人だけが選ばれる厳しい確率です。しかし、このような確立にでも念願を立てるしかない多くの病人がベテスダの池の周りにはたくさんいました。彼らは一人として、当時の医術では治すことができない絶望的な病気にかかっている人々ばかりでした。

5節をご覧ください。そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいました。彼は病気をしてもう40年になろうとしていました。6節を見ると彼は伏せていました。彼は長い間、伏せて生活してきました。このような彼は水がかき回される時、池の水がかき回される時、彼は水の中に入ろうとしましたが、もう別の人が入ってしまいました。彼は三十八年間、このような絶望的な現実に何度も何度も出会いました。6節をご覧ください。イエスは彼が伏せっているのを見て、それがもう長い間のことなのを知って、声をかけました。「よくなりたいか。」

わたしたちは「よくなりたいか」と質問するイエスのお話に、「あたりまえじゃないか」と思いがちです。病人が良くなりたい気持ちを持つのは当たり前のように思います。しかし、イエスからしてみれば彼はよくなりたい気持ちがありませんでした。彼にはひとのせい、環境のせい、周りの不親切な友達のせい、の不平不満は溜まりましたが、良くなりたい気持ちは薄れて行きました。イエスの「よくなりたいか」という質問に病人は次のように答えていたのです。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」

考えてみると今まで、彼の望みは水がかき回されることではなく、水がかき回されたときに、池の中に自分を入れてくれる人でした。彼の望みはよくよく見つめてみると「人」でした。しかし、彼の心には人への望みとともに、それが人への恨みにもつながりました。

私たちはどこに望みを持って生きているのでしょうか。私の体の健康さに、あるいは頭の良さに、あるいは努力に、あるいは友人に、あるいは格好いい、美しい愛人に、望みをかけるのでしょう。本文のベテスダの池の周りの人々は水がかき回される年に一度の動きに望みをかけていました。人だ誰でもどこかに望みをかけて生きています。しかし、その望みは一つとして不完全なものです。イエスは彼に大胆な提案をしています。

Ⅱ.起きてとこを取り上げて、歩きなさい(8-9)

8節と9節の御言葉をご覧ください。イエスは彼に言われました。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」イエスは頼りにしていた池のかき回されたこと、入れてくれる人への期待、友人の温かい心、などを頼りにせずに、イエスの言葉にそって、行動をとるようにと言われました。望みを、人や環境や友人ではなく、イエスの今、発している言葉にかけて、動いてみるよう、チャレンジしました。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」更に、イエスの言葉には力がありました。イエスの言葉には彼を奮い立たせる強力なエネルギーがありました。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」という言葉を聞いた時、彼は起きて、床を取り上げて歩きました。なんと、38年間、病気にかかっていた人がイエスの一言で、すぐに治りました。イエスのことばが彼に働いたとき、彼はもう病人ではありませんでした。彼は健常者でした。

今、現在、神様の声を聞く人は治ります。神様の声を耳にする人は生かされます。全能な神様の声に出会う人は永い間、人生を悲しませるさまざまな病気から治ります。健康な人生を生きることができます。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」神様は人が、神様を知り、神様にすがり、神様に見つかり、神様とともにする人生を築き上げることを願っています。どんな時でも、しっかり、神様が助けてくださることを確信して、今聞こえる神様の声にしたがって、歩むことを願っています。神様のかすかな声に頼り、起き上がり、床を取り上げることを、そして歩くことを願っておられます。

わたしたちには様々な人生の悩みと病があります。しかし、わたしたちが神様を頼り、神様の御言葉に従って、起き上がるとき、とこを取り上げるとき、歩くとき、言葉の不思議を体験します。不思議を体験していくもの、これが信仰人です。私たちがイエス様のことばに頼り、病気を克服することができますように、言葉の力を体験することができますように祈ります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23