Counter: 1079, today: 1, yesterday: 0

2012年長崎UBF Ten Step 8thメッセージ --> 問題紙

祝福するために来られたイエス様

Messenger:MSN.David

御言葉:ヨハネ2:1-11
要 節:ヨハネ2:11「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。」

今日の御言葉はマリヤの信仰について学びます。さらに、イエス・キリストを信じる人々の姿についても学ぶことができます。信仰とは頭で考えるものではありません。手伝う人のように単純な信頼と行動から生まれる新鮮な体験を持つ人です。この体験がないと信仰は理論化し、形だけが残ります。私たちに動く信仰、体験信仰を強めてくださいますように祈ります。

ヨハネの福音書の1章には、将来、イエス様の弟子となる人々との出会いが紹介されています。バプテスマ・ヨハネの弟子として正義と禁欲にあこがれていた若者や、イチジクの木の下が大好きで、その木の下で本を読んだり、夢を見たりしていた人・ナタナエルという人も紹介されていあす。ペテロやアンデレ、ヨハネとバルトロマイのような漁師出身の人もイエス様と仲間でした。彼らは同じ心で議論したり、勉強したりする集まりを持っていました。

イエスとナタナエルが出会ってから三日目のことです。ガリラヤのカナで婚礼がありました。そこにはイエスの母がいたことを見ると、マリヤとは常日頃親しくしていた家族の婚礼であったことがわかります。マリヤはその家族の婚礼に深くかかわって、手伝いの人々に指示をする立場の人でした。宴会には欠かせない酒の世話役もしていました。マリヤの長男であったイエス様も招かれ、漁師出身の弟子たちも一緒に婚礼に招かれました。

3節を見ると、婚礼の家で大変困ったことが生じました。宴会には欠かせないぶどう酒がなくなってしまったことでした。婚礼に深くかかわっていたイエスの母・マリヤはこの問題をどのように処理しましたか。「ぶどう酒がありません。」と、その事実を最初に持って相談したのはマリヤの長男坊のイエスでした。マリヤは宴会の総責任者である宴会の世話役にこのことを尋ねるべきでした。葡萄酒の代わりを探すために、関係者と相談すべきでした。しかし、本文の内容を見ると、マリヤはまずもって長男のイエスにこの事実を知らせていました。「ぶどう酒がありません。」

これを見ると、マリヤにとってイエス様は常日頃の相談役であり、頼めばなんとかしてくれる長男坊であったことがわかります。マリヤにとって長男坊のイエスは頼もしい存在でした。いつも頼まれたことに真剣に取り組んでくれる息子でした。葡萄酒がなくなった時、マリヤはすぐさま、イエス様が来ていることに気が付きました。この子に頼めば、なんとかしてくれるはずだ、と考えました。マリヤの心にはイエスへの深い信頼が築かれていました。

マリヤの話を聞いて、イエスは母に云いました。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」とても冷たく反応しています。英語の文書(Why do you involve me?)からしてみると、なんでこのことに私を関わらせるのですか、と尋ねています。そして、「私の時がまだ来ていません("My time has not yet come." )。」と話しました。私の時とは神様が喜ぶ時を指します。なんでも、マリヤの相談に乗れる時を指します。完璧な栄光を浴びて、信者たちの相談になんでも応援できるときです。イエス様はまだ、そのような時ではないと判断しました。

一般的に、このようなイエスの反応があれば、頼んでいた内容をあきらめやすいです。しかし、マリヤは5節を見ると、「手伝いの人たちに言いました。『あの方が言われることを、何でもしてあげてください。』」マリヤは否定的なイエスの答えにも、神様の時、イエス様の時になると、頼んでいたことについてイエス様が真剣に取り組んでくれることへの確信していました。マリヤは神様への祈りと願いことを、決してないがしろにされない確信がありました。これはマリヤが長男坊のイエスとのかかわりの中で常に持ってい姿勢でした。それだけ長男坊のイエスへの信頼は厚いものでした。葡萄酒のことがイエスとあまり関係がないものかもしれませんが、マリヤは信頼深いイエスに尋ねました。そして、長男坊のイエスが動き出すときにはいつでも対応できるように、お手伝いの人々を用意しました。『あの方が言われることを、何でもしてあげてください。』

マリヤのイエスへの信頼はイエスを動かす根源的な力となりました。マリヤの、子どもが立派にやってくれることへの信頼があるとき、長男坊の子どもはその信頼にこたえるためにも動き出すのです。しかも、否定的な様子があっても、揺れ動かない信頼がおかれるとき、イエスは動き始めたのです。イエスだけでなく、人は信頼されると何とか、それを成し遂げようとする気持ちが生じます。信頼は人を動かす根源的な力なのです。私たちは疑わしい状況の中でも、信頼を緩むことなく、つかむべきです。その時、信頼は裏切られません。しかも、イエスへの信頼は裏切られることがないのです。

6節をご覧ください。宴会場には、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてありました。ユダヤ人のきよめのしきたりとは手や足を洗う習慣のことで、外から帰って来るとユダヤ人たちは手や足を洗う習慣のしきたりがありました。イエスがマリヤの頼みに動き始めまたこと、またそれがユダヤ人のしきたりの水がめから始めたことに意味深いものがあります。「水がめに水を満たしなさい。」としたのは手足を洗う水のことです。7節の後半部を見ると、「彼らは水がめを縁までいっぱいにした。」とあります。彼らとはマリヤから頼まれ、イエスの指示を待ていた手伝いの人々を指します。彼らはイエスから言われた時、できる限りのことをして終わらせたわけではなく、精いっぱいそれをおこない、六つの水がめを縁まで、水がいっぱいに満たしました。彼らの動きはどのように報われましたか。

8節をご覧ください。イエスは彼らに言われました。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」世話役は葡萄酒がないことで心配していました。葡萄酒を求める世話役の人に水を持っていくことはやさしいことではありませんでした。しかし、「彼らは持って行きました。」そして、続いてびっくりするほどの報告を耳にしました。9節と10節「宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、・・しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。・・彼は、花婿を呼んで、言った。『だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。』」

世話役はその葡萄酒がどこから来たのか知りませんでした。風がどこから来てどこに行くのか知らないように、同じように、世話役はそれがどこから来たのか知りませんでした。しかし、水を汲んだ手伝いの者たちは知っていました。水を汲んだ手伝いの者たちは水が葡萄酒になった様子を体験しました。この記録の中でも特に、8節後半部、「彼らは持って行った。」、そして9節の中盤部「・・しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。・・」はヨハネが注目した手伝う人たちの動きです。手伝う人たちは自分を捨てて、水がめから水を運びましたし、その水が葡萄酒になっていく過程をだれよりも生々しく体験した張本人たちでした。自分を捨てて、水をもっていた時、水が葡萄酒になる体験をしたのでした。

水を汲んで世話役に持っていく行動は、自分を捨てる行為です。計算することより、動くことを優先する人の行為です。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うのです。」私はこの言葉の意味を次のように解釈します。「信者は頭で計算したい心を捨て、今やるべき仕事に取り組む行動を起こす人です。自分の頭を信頼する人は紙の軌跡を失いますが、イエスを信頼し、今、与えられた仕事に取り組む行動を起こす人は、神の軌跡に出会います。」と。ヨハネはメッセージは同じ内容を伝えています。

イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされました。それで、弟子たちはイエスを信じました。神様は私たちがしもべたちのように従順と信頼を祝福する方です。私たちが深い信頼と頭で考えるものより、行動を起こすものとなり、イエスを体験していくものとなりますように祈ります。

ハレルヤ

トップ   編集 凍結 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23