Counter: 846, today: 1, yesterday: 0

2012年長崎UBF ルカの福音書 第8講 メッセージ --> 問題紙

聞き、それを行う人たち

Messenger:MSN.David

御言葉:ルカの福音書 6:20-49
要 節:ルカの福音書 6:47-48「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。」

今日の御言葉はイエスが使徒たちとともに、弟子たちに行っていた説教の一部です。これは使徒たちを立てて行った説教、という意味で信者、クリスチャンについての解説ともいえます。イエスの弟子とはどんな人たちのことを指しますか。

イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされました。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。人の子のために、人々があなたがたを憎むとき、また、あなたがたを除名し、はずかしめ、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。その日には、喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいからです。彼らの先祖も、預言者たちをそのように扱ったのです。しかし、富んでいるあなたがたは、哀れな者です。慰めを、すでに受けているからです。いま食べ飽きているあなたがたは、哀れな者です。やがて、飢えるようになるからです。いま笑っているあなたがたは、哀れな者です。やがて悲しみ泣くようになるからです。みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者です。彼らの先祖は、にせ預言者たちをそのように扱ったからです。」

この説教の内容には幾つかの言葉が対比されています。貧しいものと富むもの、いま飢えているものといま食べ飽きているもの、いま泣いているものといま笑っているもの、イエス・キリストのために人から憎まれるものとみなの人にほめられるものがそれです。イエスは貧しいものが幸いで、飢えているもの、泣いているもの、そしてイエス・キリストのために人から憎まれるもの、この人たちが幸いであるとしています。しかし、富むもの、食べ飽きているもの、笑っているもの、みなの人に褒められるものを哀れなものとしています。一般的に、これはどうしても、同意できませんね。私たちが生きている目的は何ですか。富むことであり、食べるためであり、笑うためであり、誉められるためなのです。一般的に私たちは常に、このことを目標に生きていると言っても過言ではありません。その目標が達成されるとき、私たちは幸せでしょう。しかし、イエスは哀れなものだと断定しています。それはなぜでしょうか。

イエスは人の幸せが富むことよりも、食べ飽きることよりも、笑うことよりも、誉められることよりもさらに深い幸せがあると教えています。実に幸せな状況が存在しているとしています。この幸せは盗人によって盗まれないもので、一人ひとりの心の中に存在する実に優れた幸せのことを指します。イエスはその幸せが、貧しい者、いま飢えているもの、いま泣いているもの、救い主を証言しているがために受ける迫害にそぐわれた人々にあるとしています。貧しい人は助けを求めるからです。飢えている人々、泣く人々、救い主のために悲しみに包まれている人々は神様の関与を求めるからです。彼らの心には神様が生きていて、神様が働くからです。彼らの心の中には幸せの主人、幸せの運転手、幸せの作り主の神様が存在するからです。イエスは幸せが富むこと、食べること、笑うこと、誉められることにあるのではなく、実に幸せは神様の掌にあり、神様が私たちを支配し、神様が私たちの人生に関与することが、それが幸せそのものであるとしています。

脳性まひを患い、言葉も、動きも、一般の人と同じくできないある詩人「Sさん」は次のような詩を発表しています。

「あたし、お金も、あたし、知識も、あたし、他人が持っている健康もない、しかし、あたし、他人が持ってないものがある。それは、他人が見てないものを見、他人が聞いてない言葉を聞き、他人が受けてない愛に包まれ、更に他人が悟ってないものを悟っている。実に公平な神様があたしに、他人が持っているものを持たせてないが、しかし、実に公平な神様があたしに、他人が持ってないもの持たせてくださったのだ。」

脳性まひにより普通の人々のように言葉を発することができず、体を動かすことすら許されてない、一般の人々からしてみれば悲しい、人生の詩人ですが、しかし、詩人の心の中に広がる喜びと幸せ、感謝の気持ちと賛美が包まれています。実に、私たちが想定してない幸せが彼女の心を幸せにしていて、感謝と賛美につ包まれています。だれもが見ても「公平」ではなく、誰が見ても幸せではない彼女の心は、不思議な幸せと喜び、公平さに感謝しています。

食べ飽きているものからすれば、いま飢えている者は不幸せでしょう。笑っているものからみて、いま泣いているものは不幸せでしょう。迫害を受け、いま人々から批判されている人々は称賛され、誉められている人々からすれば不幸せでしょう。しかし、そのすべての運転手となられる神様が心の中に存在する人には不幸せが幸せに転じ、不公平が公平に転じるのです。実に本当の幸せは富むこと、食べ飽きること、笑うこと、誉められることにあるのではなく、神様の存在の有無にあるのです。神様の存在は実に、宝のようなものです。どのような人間条件にも奪われることなく、どのような能力、どのような人格、どのような人間環境に左右されることのない、幸せを持っているからです。

神様を心に所有している人々に求められる態度について、イエスは言っています。27節からご覧ください。「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。すべて求める者には与えなさい。奪い取る者からは取り戻してはいけません。」私たちの基本的な気持ちからして、普通の考えからして、敵は憎むもの、苦しむことを望みます。侮辱するもののために祈ることはできませんし、片方の頬を打つ者に他の頬を向くことは絶対にありえないのです。奪い取ろうとするものから取り立てておき、正義が現れることを見るだけでも心に満足します。しかし、イエスは信者の態度として、まったく気持ちに反した態度を求めています。普通はとてもできないことを求めています。

ついでに、31節からはこう言っています。「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、同じことをしています。返してもらうつもりで人に貸してやったからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。貸した分を取り返すつもりなら、罪人たちでさえ、罪人たちに貸しています。」イエスは信者が罪人たちと差別化すべきであるとしています。信者のやっていること以上のことを、やるべきであるとしています。そのために、次のように言っています。「ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。」

私たち信者は常に損して、常に奪い取られて、常に犠牲して、常に侮辱する立場に立つよう求めています。できますか。だれができますか。誰もできないでしょう。しかし、イエスは「できる」としています。いつ、それができますか。それは心の中に神様があり、神様の報いを信頼するとき、であるとしています。イエスは言われます。「そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。」神様についての知識がある時、できるのです。神様についての知識が深まる時、できるのです。聖書は神様について証言しています。私たち信者が信頼する神様はどんな方ですか。

一つ、神様はいと高き方です。

いと高き方とは、唯一の神様、創造主、全能な方、私たちのすべてに関与する方、導き手、牧者を指します。神様は唯一、完全な方であることを信頼すること、これが信者の信仰です。

もうひとつ、神様は恩知らずの悪人にも憐れみ深い方です。

神様は悪い人の畑にも、時になると雨を降らせ、実を結ばせています。神様のこの憐れみ深さは考えれば考えるほど、罪人の私たちからすれば見続けられないものです。もう、彼らに苦しみを与えてはどうかと言いたくなります。しかし、この神様の憐れみ深さとその奥義について学ぶ時、私たちは同じく、憐れみ深い神の姿をまねしたくなります。勇気を出して、敵を愛することができるだろうし、侮辱する人々のために祈ることができるようになるのででしょう。私たちにはだま分かってない神の憐れみ深さが存在しているのです。

イエスは言われます。「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」

イエスは盲人が盲人の手引をすると、ダメなのように、盲人の原因となる梁をとりたてようと努力し、訓練を受けるべきだとしています。十分、訓練を受けた人は、その師、イエス・キリストにまで成長するのです。訓練された人の人生はその結んだ実から分かります。口から「主よ、主よ」と呼んでいるから全部が神様を信頼し、信仰の実が結ばれる信者ではないのです。

それでは、どのようにすれば実る信者として、訓練されたものとして、生きることができますか。イエスは言われます。「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。」

神様の言葉を聞いているとき、私たちには喜びがあり、満足感があります。正義の言葉、真理の言葉が与える喜びは大きいものです。知識を得た喜びは実に大きいものです。しかし、そのように知識の土台に家を建てたひとは風や川の水の氾濫に弱いのです。家自体が倒れてしまいます。しかもその倒れ方はひどいと、言っています。しかし、お言葉を聞き、その喜びに留まることナック、その言葉が本当かどうか実行してみる、そしてそこから得られる体験的な知識が蓄積されるとき、その土台は岩のようになります。岩までたどり着くための掘り下げる作業、これが実行してみる作業です。

私たち信者が、神様の言葉を耳にするだけでも幸せですが、その言葉を実行する人は本当の幸せを手にする人になります。神の聖者、使徒、イエス・キリストの弟子となります。私たちがただ、聞くだけの喜びにとどまることなく、実行に移して体験したことを人生の旅程の中に増やしていきますよう祈ります。私が人の基準ではなく、神様を基準とした人生の設計をすることができますように祈ります。

ハレルヤ

トップ   編集 凍結 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23