2011年日本UBF新年御言葉第2講 メッセージ --> 問題紙

感謝をもってたゆまなく祈りなさい

Messanger : MSG David J.

御言葉:コロサイ 4:2-18
要 節:コロサイ 4:2「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。」

日本では「一年の計は元旦にあり」ということわざがあります。元旦に朝寝坊をしてはいけない、毎週の初めの月曜日、毎月の初めの日、毎年の始めの日、元旦を大事したい願いが込められています。その意味では、2011年の初めての週である本日は、大事にしていきたいものです。

さて、これだけ大事な2011年の最初の主日の御言葉として選んだのは、コロサイ人への手紙です。パウロがローマでの獄中生活、AD61年ごろに執筆したとされています。この手紙はコロサイ教会の問題、異端的な教えや天使崇拝、禁欲主義などに対するパウロの助言です。特に、今日の御言葉の個所と選んだ4章は、これらの問題を解決できる秘訣として、「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。」という方向を示しています。なぜ、パウロは「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。」と言ったのか、今日の御言葉を通して学びますよう祈ります。

Ⅰ 祈りなさい(2)

2節をご覧下さい「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。」これは今日の御言葉の要節です。この御言葉の意味が何でしょうか。英語の文書を見ると、Devote yourselves to prayer, being watchful and thankful.とあります。これは「祈りに専念しなさい。その基本姿勢として「目をさまして」「そして感謝の心をもって」と解釈できます。様々な問題を解決するために大事なことは、祈りに専念することですが、その姿勢として、「目を覚ます祈り」「感謝する祈り」であるとしています。

ペテロ第一5章8節を見ると、目を覚ますことを次のように言っています。「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」目をさまして祈るとは身を慎んで祈ることです。食いつくすべきものを探し求めながら、歩きまわっている獅子のえさにならないように注意深く、アンテナを張って祈ることです。祈りに専念すべきですが、適当に祈りの時間を守るのではなく、アンテナを張って、神様の声を耳にしたいつ用願いをもって祈ること、これが「目を覚まして祈ること」です。

次にパウロは「感謝をもって祈るように」と言っています。大和カルバリー・チャペルは日本で数少ない1000人規模の教会ですが、その教会の大川牧師次のように祈りについて述べています。「祈りが聞かれた後は、だれでも感謝ができます。大切なのは、祈りが聞かれる前から、先取りをして、感謝をすることです。」イエス様を見てもそうなのだと実感します。5つのパンと2匹の魚で五千人以上もの人々を食べさせるとき、イエス様は感謝をささげて分け与えられました(ヨハ6:11)。また死んで四日もたったラザロの墓の前で祈る前、イエス様はこのようにも言われました。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。」(ヨハ11:41)これを見ると、感謝をもって祈るとは感謝を先取りして祈ることを意味します。私が祈ることはすでに受けたと信じながら祈ることです。私が祈ることはすでに達成したことと信じて祈ることです。

パウロはこの「先取りの感謝」が祈りの重要な姿勢であることを教えています。大阪のAbraham N.牧者は「祈りがツイッターのようにつぶやきで終わらないとしています。祈りの時点で、答えがまだ見えていない時点で、祈りの答えに感謝できることだ、としています。この先取りの祈りは恵みです。なぜなら私たちの人生は見えない中に歩んでいるからです。この私たちは主にあって、祈りによってすでに明日の約束を受け取るのです。与えられないと思われる絶望的な祈りも、先取り祈りするためには、祈りが戦いであることを示します。不信仰と戦う祈りです。答えが見えないからといって、状況が変わらないとって、不信仰に負けてはいけません。ただ、ただ主にすがり、感謝をもって祈り続けること、これが感謝をもって祈ることです。

そして最後に「たゆみなく祈りなさい」とあります。たゆむと言うのは、緊張がゆるみ、糸が切れてしまうような状態のことを指します。たゆみなく祈るということは、いつまでも祈りを切らさないことです。イエス様もルカの福音書11章にてたゆみなく祈ることの大切さを教えています。「だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」これは有名な聖句です。しかしこれは逆に言えば、求めないと受けず、捜さないと見つけられず、たたかないと開かないことを示唆しています。祈り求めるのであれば答えが与えられるまで祈り続けるべきです。捜し求めているのであれば、たゆみなく祈るべきです。なぜなら、頼み続けるなら神様から必要なものが与えられる、とイエスさまは約束しておられるからです。

昨年秋、私の祖父は脳血管が破裂し救急車に運ばれバルナバ宣教師の勤めておられる循環器病センターに搬送されました。家族は手術を望みましたが、医師の話では94歳では10%の確率もないと言われました。幸いにも手術は成功しましたが、右半身は麻痺し意識は戻りませんでした。私とサラ牧者は積極的にあかしできなかったことを悔い改めました。以来、私の家は祖父のために祈り続けました。そして祖父のために祈ってくれるように息子勇久に頼みました。それから勇久は毎晩寝る前に「ひぃじぃじぃ、よくなるように」と呪文を唱えるように祈り続けています。でも主はこの小さなたゆみない祈りをしっかりと聞いて下さいました。神様は恵みをかけてくださり、完全ではないですが意識がもどってきています。調子が良いと少し声も出します。今95歳ですが、ありえないほどの回復で見舞いに来る勇久の顔を見ると微笑み、元気なら手を動かして挨拶します。神様は幼い4歳のたゆみない祈りにもきちんと答えておられることに感謝しました。

Ⅱ あかしをしなさい(3-17)

3節をご覧下さい。「同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。」パウロはあかしをする前に、とりなしの祈りをコロサイの信者に求めています。パウロがローマで開拓することとコロサイの信者には何かつながりがあるわけでもありません。でも、パウロは自分のしようとすることについて、コロサイの信者たちが祈れば神様に聞かれることを確信しています。「御言葉をあかしする機会、門が開けるように」「キリストの奥義を語れるように」と祈りの支援を求めています。パウロほどの御言葉を証しした人物は数少ないのです。キリストの奥義を語った人物は数少ないのです。パウロがこれだけ教会を開拓し、キリストの奥義を語ることができたのは、祈りの力であったことが分かります。神様しかできない、人にはできない、「偉大な神様の業」をなしたのは、祈りによるものだったのです。

4節をご覧下さい。「また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください。」私は最近、ものごとの表現力がないことを感じ取ります。ましてや、当然語るべき語り方で、しかもはっきり語れること、これはまさに私の言い方の課題ですが、パウロも同じ祈りの課題をもっていたようです。パウロは、料理人が材料の素材を最高に引き出すように、聖書の言葉の味を最大に活かす方法で話す知恵を求めていたのです。

大阪センターは、One for All, All for Oneの姿勢で祈りをするのだそうです。兄弟、姉妹の問題で祈りが必要な時にも、全員が集まって祈るようにしているそうです。話し合うとき、祈りあうとき、遊びに行くとき、食べに行くとき、ひとりを助けるために全員が動くようにして助けたとき、兄弟姉妹の心が開いてゆくのを見ることができたそうです。長崎も、One for all, All for oneの姿勢を、2011年度は学びますよう祈ります。

最後にパウロから祈りの姿勢を学びました。「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。」この御言葉が、今年度、長崎センターの要節です。ひとりひとり、祈りのしもべとなりますように祈ります。


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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23