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2011年長崎UBF、ヨハネの福音書、その4 --> 問題紙

永遠のいのち

Messenger:MSN.David

御言葉:ヨハネの福音書 3章16節~36節
要 節:ヨハネの福音書 3章16節 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

今日のメッセージのテーマは永遠のいのちです。永遠の命について、マタイの福音書は3回登場します。マルコの福音書には2回、ルカの福音書には3回、しかし、ヨハネの福音書には17回も登場しています。ヨハネは永遠の命について詳細に記録しています。永遠の命とは何を意味しますか。今日の御言葉を勉強しながら、「永遠のいのち」について学ぶことができますように祈ります。

16節をご覧ください。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」この言葉のことを指して、聖書のキーワードであると言っています。ある人は聖書のへそだ、とも言っています。つまり、ヨハネの福音書3章16節は、新約聖書の中の新約聖書で、イエス・キリストのメッセージの中のメッセージである、と言っています。それでは、そんなに大事な聖書の言葉、メッセージの内容が何でしょうか。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

神様は実に、この世のことを愛されたのに、その一人子をお与えになったほど、愛された、といわれています。神様が世を愛しておられるのに、なぜ、その一人子をおあたえになる必要があったのでしょうか。それはユダヤ人の伝統的な過越しの祭りにちなんだ考え方が生かされています。神様はおつくりになられたこの世を愛しておられましたが、人間は神様の前に立つことができない罪の勢力に苛まれていたのです。神様は人間が神様の前に立つことができるように「モーセの律法」をお与えになりましたが、むしろ、律法によって人間は罪深い自分自身を発見するようになったのです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。そこで、神様は年に一度、満一歳となった子羊を、捧げものとしてささげることにより、一年間の罪を償い、神様の前に立つことが赦されたように、永遠に効力のある子羊、その一人子を、罪人たちのためにおあたえになったのです。もう一度、16節をご覧ください。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」この事実を、信じる者には永遠のいのちを保障されたのです。

それでは、永遠のいのちとは何を意味しますか。ヨハネの福音書17章3節は次のように説明しています。「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」16節は言われます。「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」つまり、イエス・キリストの十字架の死、苦しみ、そして復活が私たちの罪の償いのためであると、信じて、受け入れるところに永遠のいのちがある、ということです。イエス・キリストの十字架の死、苦しみ、そして復活が私たちの罪の償いのためであると、信じて、受け入れるところに「永遠のいのち」が保障されているということです。

私と20年付き合いのS先生は、純粋な方で、心やさしい方でした。誰でも困難な人がいると、助けてあげたいという心がやまない人でした。私も随分、この方の配慮で、生きてきました。今でも、私は困った時、また、保証人を立ててほしいといわれる書類については、この方にお願いをしています。一度も、拒否することなく、快くしてくださるので、安心です。小さいごろから母親のもとで育ったS先生は有名大学をでて、今は大学の先生をされておりますが、毎瞬間脅かす罪の勢力にとらわれて、ずいぶん、悪いことをしたと告白をしています。しかし、ある日、酒を飲んでも、欠かせない、キリストの宣教者となったのです。私にも随分、いまだ、いまだ、キリストを明かすときだ、と酒に酔って話しかけ、宣教者としての勇気の無さと弱さを確かめ、させられる方ですが、この方の一つのメッセージはこれです。「イエスさまが私のすべての罪を背負い、十字架につけられ、私の罪を償い、真っ白にしてくださったのだ。私に永遠のいのちを保障してくださったのだ。」その顔に微笑む安心感と喜び、将来に対する喜びと賛美を、私は見るたびごと確かめています。永遠のいのちは、イエス・キリストの十字架の死、苦しみ、そして復活が私たちの罪の償いのためであると、信じて、受け入れることですが、その永遠のいのちを所有している人は、現実の世界においても、今の世界においても、喜びに充ちあふれ、暗闇の勢力にさいなまれることなく、大胆に与えられた人生を生きるのだと、確信できます。S先生の喜びと賛美は、永遠のいのちが保障されたことにとどまらず、現実の世界観が変わり、生き方が変わり、その目の色が変わっているのです。これが永遠のいのちが保障された人の変わった様子です。

17節をご覧ください。「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」とあります。人々はイエス・キリストのお話、真理のお話を、世を裁くためのものであると受け入れやすいです。確かし、そのお話に見比べると裁かれないものがないのです。しかし、ヨハネはその御子により裁かれたのではなく、救われたのだと記録しています。なぜでしょうか。18節、「御子を信じる者はさばかれない。」からです。つまり、受け入れる人々には、信じる人々には裁きが来るのではなく、許しが来るからです。逆に、信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれているのです。そのさばきというのは、こうであります。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛し、光に出てくるよりも、闇のところに近づくのです。その行ないが悪かったためです。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ません。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来ます。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためです。真理を行うものとは、真理を真理として認める人のことを指します。正しいことを、正しいと素直に告白することを指します。自分自身が罪びとであり、所詮、一人の人間として、大したものでなく、被造物として、救われるべき存在であることを認めることです。そのような人たちは真理を愛し、真理の方に出てきます。

その意味で、信者とは自分が罪深い人間であることを、認めた人々のことを指します。そのような人々の上に光がきます。イエス・キリストの十字架の力、血の力、復活の力を認める力を得ます。そのような人々に永遠のいのちが保障されます。永遠のいのちが保障されると、私たちはこの世においても自信ある人生を生きることができるのです。

22節をご覧ください。「その後、イエスは弟子たちと、ユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられました。一方ヨハネもサリムに近いアイノンでバプテスマを授けていました。そこには水が多かったからでありました。人々は次々にやって来て、バプテスマを受けていました。ヨハネは、まだ投獄されていなかったからでありました。」

25節をご覧ください。「それで、ヨハネの弟子たちが、あるユダヤ人ときよめについて論議していました。きよめとはバプテスマのことを指すことでしょう。彼らはヨハネのところに来て言いました。『先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます。』」彼らはイエス様の盛んになる御業に妬みが生じていたのです。彼らはイエス・キリストより、自分たちの師匠、バプテスマのヨハネの御業がもっと盛んにならなければいけないと考えていたのです。しかし、27節で、ヨハネは答えて言いました。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である。』と私が言ったことの証人です。花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」

ヨハネは当時の王に対しても厳しいコメントを出し、国を動かすほどの力がありました。人々はヨハネのことを、真の指導者であると考えていました。ユダヤの全土からバプテスマを受けるために、ヨルダン川に人々は集まっていました。しかし、ヨハネは自分が一人の人間であり、罪びとであること、また、キリストを証しするために遣わされた、ただ一人の預言者、人間であると告白しました。

「上から来る方は、すべてのものの上におられ、地から出る者は地に属し、地のことばを話す。天から来る方は、すべてのものの上におられる。この方は見たこと、また聞いたことをあかしされるが、だれもそのあかしを受け入れない。しかしながら、そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである。」

信者はイエス・キリストの十字架とその苦しみ、復活を信じる人です。その十字架と苦しみ、悲しみが、私の罪のためであると、告白する人です。常に、主の前にたち、過去の罪も、現在の罪も、未来の罪も、十字架の上で解決されたことを信じる人です。神様はその信仰から来る永遠のいのちを、確認のしるしとして心に与えてくださいます。


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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23