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2011年長崎UBF、ヨハネの福音書、その19 --> 問題紙

愛の戒め

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御言葉:ヨハネの福音書 14章15節~31節
要 節:ヨハネの福音書 14章15節 「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」

イエスは弟子たちと三年半ほど、ご一緒しました。神の願いに沿って十字架の死が近づいていることを感じ取っていました。霊が生き生きしていたイエスはご自分の人生に振りかかる未来について予感がありました。霊が生き生きとしているイエスは今、何をすべきなのか、何が神様に喜ばしいことなのかを知っていました。その時、イエスは弟子たちと最後の晩さん会を開き、彼らに新し戒めを与えました。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

イエスは弟子たちが神のものとして、イエスの弟子として、愛の使者になることを願っていました。それが自分を救い、人を救い、社会を救い、人々に意味のある人生を飾れる道であることを知っていたからでした。人類が崩壊しても、この地球、この宇宙、この太陽系に異常が起こるとしても、すべてが壊れて、無くなるとしても、いつまでも残るものは信仰と希望と愛があり、その中で一番すぐれているのは愛なのです。

精神医学者であり小説家の加賀乙彦さんの本の中に「悪魔のささやき」という本があります。加賀さんはこの本の中に、悪魔について、特に、霊と魂について、お医者さんとして、精神医学者として、人の心を見つめ描写してきた小説家として、霊があるのかどうか、悪魔は存在するのかどうかについて真剣に問いただしています。そして、結論として、「わたしは悪魔が存在するのだと思います」と言っています。と同時に、魂の存在について、その魂は精神や思想や考えや、知識、知性、判断力とは違った、それよりはるかに深いところで私たちの人間を支配する存在として説明しています。しかも、死と生を支配するものとしての霊の存在を記録しています。特に、人間を悲惨にも殺人者にさせ、死刑囚にならせ、自殺者にする、最悪な場面に導く悪魔の存在を、「悪魔のささやき」として紹介しています。悪魔があるように、そのように、良い霊も存在し、私たちをいのちに導くのです。聖霊です。神様であり、真理であり、命です。

聖書はイエスが霊の世界の主として、神様と交わすことのできる権限をお持ちであることを示しています。聖なる方、聖霊、正義の方、裁き主、創造主を、私たち罪人は近づくことができません。聖霊、命から遠ざかっています。悪魔の支配に属し、聖霊の支配から離れた存在です。人間の存在そのものが、聖霊の存在と違いがありすぎるからです。しかし、イエスはこの神様とわたしたちとの間の高い壁を打ち壊し、信仰と希望により、神に近づくことができるようにしてくださったのです。エペソ人に書いたパウロの手紙にはこのような記録が残っています。「私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。」私たちは信仰により神に近づくことのできる存在になったのです。悔い改めと、風のように働く神様の御恵みにより、新しく生まれる存在となるのです。悪魔を追い出し、聖霊が私たちを支配し、神と交際し、祈りを持って神に願い、神様の願いを悟りえることができるようになるのです。イエスはこの神の救いの道を開く願いに、徹底して従順し、十字架の死を迎え入れるようになったのです。祈りを持って神に尋ね、神の栄光を現すための道をお選びになったのです。

最後の晩さん会で、弟子たちに与えてくださった戒めは、このイエスの、この世においての最後の遺言でした。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

弟子たちはイエスを愛していました。死ななければいけないとしても、死ぬ覚悟ができているほど、イエスを愛していました。イエスの生き方、イエスの言葉、イエスのすべてを愛していました。その弟子たちに、イエスは言われます。15節「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」イエスは弟子たちがイエスを愛するのなら、死ぬ覚悟で、イエスが行くところについていこうとするより、互いに愛し合う、この言葉に徹底して生きることに専念するようお願いしました。そして、一つのお約束をしました。それは弟子たちだけに値するお約束でした。それは「真理の御霊、聖霊、助け主」のお約束でした。

16節「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」真理の御霊は、使徒の働きに記録されている「聖霊」を指します。臆病の弟子たちをまるで、別人のように変えて、ヒストリメーカーにした存在です。イエスは弟子たちを、孤児にはしません。イエスは十字架の上で、悲しい死を迎えますが、彼らに所に戻ってきます。聖霊として、助け主として、いつまでも彼らとともに住み、彼らの味方になる存在として帰ってくると約束しています。

19節「いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。」弟子たちは生きる存在、生きた存在、聖霊の存在、新しく生まれた存在、神のものとしての存在に変えられるのです。弟子たちはその日、イエスが父におり、弟子たちがイエスとともにし、イエスが自分たちのところにご一緒していることが分かるようになるのです。

どのようにすれば私たちは弟子たちに、イエスが言われたように「わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。」という事実を体験することができますか。21節をご覧ください。「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」これを見ると、イエスの戒めを守るとき、私たちは弟子たちのような体験、イエスの存在を見を持って体験することができます。イエスの戒めとは「互いに愛し合うこと」です。「愛すること」です。私たちは愛することを、一生かけて学ぶべきです。A兄弟はK宣教師のことを「愛の豊かな人」と表現しています。その愛が、イエスに近づいてみたい気にさせたのだと言っています。愛はイエスの弟子たちにあらわれる香りです。私たちが愛の香りを深めていきますよう祈ります。

22節をご覧ください。イスカリオテでないユダがイエスに言いました。「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。」すると、イエスは彼に答えられました。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。このことをわたしは、あなたがたといっしょにいる間に、あなたがたに話しました。しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」

愛の姿はイエス・キリストの弟子たちの様子です。平安も弟子たちの姿です。その平安は世が与える平安ではありません。その平安は真の平安だからです。真の平安はイエス・キリストにあります。この世が与える平安とは違った平安です。弟子たちはまだ、わかってないところが多いかもしれませんが、私たちはまだ、理解しきれないところが多いのかもしれませんが、イエス・キリストの中にある平安は真の平安であり、喜びです。誰も、イエス・キリストの中にある平安をもとらしてくれません。

28節「『わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る。』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。そして今わたしは、そのことの起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったときに、あなたがたが信じるためです。」イエスは弟子たちに幾つか理解できない話をしていますが、それが起こった時にはそのお話が真実であることを感謝し、信じさせるためです。イエスは弟子たちがイエスを信頼することを願っています。イエスの道が神様の願う道であり、神様への従順の道であることを。そして、その弟子たちもイエスのように、そのように、父の命じられた通りに行う、真の弟子になることを願っていたのです。


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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23