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2011年長崎UBF、ヨハネの福音書、その12 --> 問題紙

罪に定めないイエス様

Messenger:MSN.David

御言葉:ヨハネの福音書 7章53節~8章12節
要 節:ヨハネの福音書 8章11節 「彼女は言った。『だれもいません。』そこで、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。』」

今日の御言葉には姦淫の現場で捕まえられ、モーセの律法により死刑宣告を受けた女が登場します。人々はこの女を死刑にすることを決め、イエスを試そうと、あなたは何と言いますか、と質問をしています。イエスは今度も、モーセの律法により罠が敷かれ、答えに言葉を選ばなければいけませんでした。今日の御言葉を通して、イエスが来られた目的について学びますよう祈ります。

7章53節を見ると、人々はそれぞれ家に帰りました。しかし、イエスはオリーブ山に行かれました。人々は自分の生活に専念しました。しかし、イエスはオリーブ山、祈りの生活に専念しました。人々はそれぞれ自分の家があり、自分の家に所属し、自分の願いが優先されましたが、イエスはオリーブ山へ向かいましたし、自分の願いではなく、神の願いを優先していました。イエスはオリーブ山から朝早く、エルサレムの宮に戻りました。民衆はこのイエスから力を感じていました。魅力を感じていました。民衆はイエスのところに近寄りましたし、イエスは彼らを教え始められました。イエスの教えは昔からの言い伝えや律法ではありませんでした。イエスの教えは新しい教えでした。

8章3節をご覧ください。すると、そこに律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来ました。姦淫の現場で女はとらえられていました。律法学者やパリサイ人たちは彼女の後ろを尾行しました。そして姦淫をしている現場で、彼女を捕まえました。彼女は要注意人物として彼らのブラックリストの中に記録されていました。彼女は隠れたところで、暗闇の勢力と一緒に生活していました。暗闇が彼女を支配していました。律法学者とパリサイ人は暗闇の勢力にとらわれた彼女の行為が石打にされるべき罪であると、判断しました。彼らは彼女を、姦淫の現場で捕まえ、石打を決めました。と同時に、彼らは律法の教えを破り続けると考えていたイエスを罠に落とそうと計画しました。彼らは女を、イエスを捕まえて、二人とも石打ができれば、と思っていました。

彼らはあの女を、真中に置いてから、イエスに言いました。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」彼らは女をえさに、イエスを罠に落とそうとしました。イエスの今までの教えからしては、軽く、モーセの律法を破り、彼女を助けることが目に見えていました。今度こそ、イエスを捕まえ、モーセの律法を破ったものとして、捕まえようとしました。6節を見ると、彼らはイエスを試そうとしたのだ、と記録しています。彼らの言葉には罠が仕掛けられていたのでした。それは彼らがイエスを告発する理由を得るためでした。イエスを告発し、彼女とともにイエスを殺すことが彼らの狙いでした。イエスは彼らの狙いを見にいていました。イエスはすぐさま反応を見せませんでした。むしろ、イエスは身をかがめて、指で地面に何かを書いておられました。何を書かれたのかは定かではありませんが、イエスは彼らの残酷で暗闇にとらわれた様子を悲しみました。あわれんでおられたことでしょう。彼らが暗闇の勢力にとらわれるとことなく、いのちの光を保つことを願いました。イエスはあえて、答えを避けていました。けれども、彼らが問い続けてやめませんでした。イエスは身を起して、彼らに言われました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」

ここで、私たちは、罪のない人間は誰もいない、ことを学びます。イエスのお話を聞いた彼らは年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された、とあります。もう一つ、イエスだけが一人残された、ことから、彼女を罪に定める方はただ一人、イエスだけであることを学びます。イエスさまは彼女の過ち、姦淫を厳しく罰することのできる方です。モーセの律法よりも厳しく、彼女の過ちを罪に定め、石打できるかたです。このイエスの前に立つ人は誰も、その裁きと厳しい指摘から逃げ切ることができないのです。私たちは神の前に立つ時、裸として、隠せられない状態で裁かれるからです。神様の前で私たちは、清い心を持ち、聖なる姿を保つために努力すべきです。私たちは一人一人、神の前にたち、裁かれる時が来るからです。

イエスは二人きりになった彼女に言われました。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」彼女は言いました。「だれもいません。」そこで、イエスは言われました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」イエスは彼女を罪に定めることができました。イエスだけが彼女の罪の問題を厳しく裁くことのできる方でした。しかし、イエスは彼女に言いました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」

罪に定めることのできる方が、罪に定めない、と宣言しています。この言葉にはどんな意味がありますか。私たちの過ち、私たちの罪は厳しく罰せられるべきです。モーセはこのような女の罪を罰することで、彼女を、また、律法を持っている人々を生かそうとしていました。しかし、イエスは彼女の代わりに裁かれることで、人々の罪のために十字架につけられることで、罪人を生かそうと決心されました。これは人類の始まりから、神様が計画され、その救い主をお与えになる約束をされておりました。イエスを通して、神様は許しといのちを生かすご計画を完成しようとされました。

人を生かせる力は厳しい裁きではありません。人を生かせる力は赦しと愛です。犯罪学の権威者であり小説家の加賀乙彦さんは、死刑囚の記録の中に、死刑制度が決して人を、社会を、明るくさせるものではないことを告発しています。死刑囚は確かに、死刑に値するほどの残酷な殺人者ですが、彼らはその厳しい裁きと死刑判決により彼らを生かすのではなく、二度殺していることを、加賀さんはその作品の中にリアルに表現しています。

人を生かせるのはさばきではありません。人を生かせるのは厳しい規定を突き付けるものではありません。人を生かせるのは赦しと犠牲です。その中で人々はのびのびと光を持つのです。イエスは言われます。12節をご覧ください。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」イエスの赦しの福音の中にいる人、イエスを救い主として受け入れる人、イエスの教えを心に保つ人は、闇の中を歩むことはありません。その人生にはいのちの光が輝きます。主・イエスよ。私の人生を支配してください。


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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23