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2011年長崎UBF、コロサイ人への手紙、その5 --> 問題紙

主に対してするように

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御言葉:コロサイ人への手紙 3章18節~4章1節
要 節:コロサイ人への手紙、3章23節 「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」

先日、謝恩会がありました。卒業を目の当たりにしている学生たちの関心事はクラスで生まれたカップルにありました。どうも、今年度の卒業生の間には一組ではなく二組がカップルとして誕生したのだと、カップルの話題を盛り上げていました。人間関係の中でも夫婦となりうるカップルは誰もが強い関心をもってあり、非常に興味を引くものです。ましてや正式に夫婦関係にまでたどり着く、妻と夫になる、二人の関係つまり夫婦関係は人間関係について説明できるもっとも良いものです。パウロは今日の御言葉でこの夫婦関係を持って、また、父と子の関係、主人と奴隷の関係を持って、人間関係について説明し始めたのです。

18-19節をご覧ください。「妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。」妻と夫、この二人が形成する夫婦関係とは不思議な人間関係を簡単に説明できる良いものです。夫婦はどのように生まれるのでしょうか。どのようにして妻が生まれ、夫が生まれるのでしょうか。人々は偶然に、あるいは努力した人により、あるいはお互いの愛の産物として夫婦関係が生まれるのだ、と説明しています。それぞれがそれなりに説得力がありますが、聖書にはどのように説明していますか。聖書は最初の夫婦関係に、偶然とか、人の意志とか、お互いの愛の産物とかで説明していません。聖書は夫婦関係が生まれる根底に、神様が深くかかわっていることを物語っています。つまり夫婦関係が出来上がるには神様の関与なしにはできない、と断定しています。神様が関与されない夫婦関係を否定しています。妻が生まれ、夫が生まれたのは神様によるものであると説明しています。この関係は人間により操作される関係ではないのです。その根底に流れる神様の関与、神様の働き、神様の臨在を認めなければいけないのです。パウロはこれを背景とした形で、妻として、夫としての姿勢を物語っています。「妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。」

妻たちは主にある者に相応しく、夫に従うことが求められています。夫に従うことが嫌でも主にある者に相応しく、主に従うように夫に従うよう求めています。この要求はあまりにも強烈です。夫は神様ではないのでいろんな弱点があるから、従いたくないのです。昨日のこと、おとといのことを思い出すと従うどころか、別れたくなることでしょう。しかし、夫婦関係は神様が関与しているもので、神様が造ったもので、神様の臨在の表現ですから、夫に従うことを、心懸けるべきです。夫は妻に対して心から愛することが求められます。もう一つ、つらく当たることを禁じられています。女は弱いので、つらく当りやすいです。しかし、神様が女を男のところに連れてきたのは女を愛し、その弱さをカバーし保護することを求めているからです。振り替えて見ると、私は良くも、妻につらく当たっていた記憶があります。悔い改めます。これからはつらく当たることなく、妻を心から愛することを誓います。夫婦関係は人間関係の基本であり、その根底には、神様の存在と働きがあります。神様を信じる人に相応しく、神様が造ってくださった人間関係を大事に取り扱うことが信者には求められています。

次に、パウロは不思議な人間関係の、両親と子供の関係について言及しています。20節、21節をご覧ください。「子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。」両親と子どもの関係も夫婦関係に匹敵する不思議な関係を持っています。この関係は不思議な神様により作られた夫婦関係の中で生まれた存在で、血筋の関係であります。しかも、両親と子供の関係にはその血筋を受け継ぐ、DNAが同じの、非常に似ている関係です。両親の子どもに対する気持ちは、自分が両親になって初めて感じるもので、絶対的です。両親の子どもに対する愛情と気持ちは不思議なものです。夫婦の関係は離婚の関係がありはしますが、両親と子供の関係にはそのような言葉すらありません。縁を切るとかの形で戸籍から掘り出すとかの話もありますが、基本的に両親と子供の関係を切り離すものは存在しないほど、その関係は強いものです。このような両親と子どもの関係の中で、聖書が求めるのは、こどもが両親に従うことです。しかも、すべてのことについて、従うよう求めています。なぜでしょうか。両親はすべてのことについて子どもに対しては一方的で、全幅的な気持ちがあるからです。両親の子どもに対する愛情は、条件的ではないからです。ですから、子どもたちもそのような条件的な従順ではなく、すべてのことについて従うことが求められています。逆に、父たちに求められるのは、子どもたちを怒らさせないことです。子どもたちを怒らせるとは、がみがみ言うからです。要求するからです。両親は子どもたちに要求するより、愛を注ぐべきです。関心と必要なものが何であるのかを関心を持って探すべきです。子どもが怒りんぼになると、気落ちになるからです。落胆しやすい子供になるからです。私たちの子供に、怒りんぼの子供が生まれないことを祈ります。怒りんぼの子供がいることを悔い改めます。私たちが子どもを怒らせないために、祈りし、要求することより、彼らの関心事と興味のあることを探し、彼らの必要なことを満たす両親になりますよう祈ります。

最後に、聖書は不思議な関係、主人と奴隷関係を取り上げています。主人と奴隷関係とは当時の社会的な関係の中で結ばれる関係を意味します。社会構造上作られた関係は時代によって変わったり、その価値観が変化するものです。奴隷と言えば、今の時代からすれば考えられないものと言えます。聖書はこのように、時代によって変わりうる社会的な人間関係についても言及し、信者がどのような身の振り方をすべきであるのか説明しています。22節から4章1節までの御言葉をご覧ください。「奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。」奴隷は主人に対してうわべだけの、あるいはご機嫌とりのための仕え方をしていました。それで十分でした。しかし、パウロはそのような仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい、としています。奴隷は主人を恐れます。主人は奴隷の命綱だからです。主人の一言で奴隷は奴隷から解放されることもあったといわれています。奴隷にとって一番恐れる対象は主人なのです。しかし、パウロは恐れかしこむ対象は主人ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から主人に従うようにと勧めています。奴隷でありながら信者である人の恐れかしこむべき対象は誰でしょうか。主人ではなく、主なのです。主・イエス・キリストを恐れかしこみつつ、真心から主人に従うことが、正しい信者の姿です。パウロは引き続き、次のように言っています。「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。不正を行なう者は、自分が行なった不正の報いを受けます。それには不公平な扱いはありません。」奴隷であっても、主人であっても、信者であれば何をするにしても、主の前にたった存在として生きることが求められています。うわべだけの行動や、ご機嫌取りのような行動は、報いがありません。信者だからと言って免れることがないのです。神様の前で不公平な扱いはないのです。奴隷は本当の主人を恐れかしこみ、真心から主人に従うべきです。神様はその人に報いを与えてくださいます。

それでは、主人となる信者はどのような姿を持つべきでしょうか。4章1節「主人たちよ。あなたがたは、自分たちの主も天におられることを知っているのですから、奴隷に対して正義と公平を示しなさい。」主人は奴隷いたいして正義と公平を示す立場にあるものです。奴隷だからと言って勝手にしてはいけないのです。正義と公平は神様のものだからです。信者は正義と講義をこの世にアピールする人として選ばれたのです。

以上から見ると、聖書は職場の上司や社会的な人間関係を持っている人に対して、上司だからしょうがない気持ちで接することを禁じています。むしろ、ごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主に仕えるように、真心から従うようにしています。社会的な構造上の中で生まれる人間関係も、神様の関与があることを教えています。私たちは夫婦関係や両親はともかく、学校の先生や友たち、職場での人間関係には偶然の産物であって、神様の関与を認めることはあまりありません。しかし、聖書はこれらの社会的な構造上の関係までも、神様が関与していることを教えています。ですから、奴隷は主人に対して神様に仕えるかのように仕えるべきであると教えています。主人はまた、いくらお偉いさんであっても、奴隷と同じ神様に仕える、ただ一人の罪びとであることを悟り、正義と公平を示すように努力すべきです。

結論からして、パウロは人間関係について、夫婦関係、両親と子供の関係、主人と奴隷の関係を通じて、そのすべての根底に神様が関与していることを認めるよう、教えています。また、妻は夫への従順を、夫は妻への愛情を、子どもは両親への従順を、両親は子どもたちへの関心と情熱を、また、奴隷は主人への忠誠を、主人は奴隷への正義と公平を求めています。なぜなら、神様がこれらすべての関係にかかわっておられるからです。神様がそのすべての関係性の中に働いておられるからです。私たちは見える関係性の中に働く神様を意識すべきです。夫婦関係の中で、両親と子供との関係の中ではもちろん、友人関係の中にも働く神様を、職場で作られる人間関係の中に働く神様を、見ることが、信者に求められる力です。信仰人の姿です。私たちが一人一人、立派な信仰人として、この時代を明るくする時代の光として、時代の塩として、生きることができますように祈ります。


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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23