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2010年長崎UBF、ペテロの手紙第一、その4 --> 問題紙

主のゆえに従いなさい

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御言葉:ペテロの手紙第一、2:13-25
要 節:ペテロの手紙第一、2:13「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、」

今日の御言葉のタイトルは、「主のゆえに従いなさい」としています。主のゆえに従いなさい、主のため、主を目的に、主の利益のため、主を動機に、主を理由に従いなさい、という意味です。

13-14節をご覧ください。「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。」この言葉から私たちは、当時の敬虔な人々の心構えをのぞいてみることができます。それは人の立てた全ての制度に従いたくない心が広がっていたことです。特に、主権者や王たちに対する考えは批判的で、中には悪を行う者を罰する裁判官や総督たちに対する抵抗感は強かったことが伺われます。

当時はローマ帝国時代です。ローマが国をどんどん広げて、植民地を作り出した時代です。その時の制度はローマ人を中心に作られ、ローマの人々に優先される形で制度化されていたのです。使徒パウロが「私はローマ市民権を持っている」と主張したのも、当時のローマ市民とそうでない人々との間に、差別があったことを物語っています。良識ある人々、敬虔な人々、真理を愛し、正しいことを正しいと口出したい人々にとって、このような制度は批判の対象であり、従いたくない制度なのです。ペテロはそれを十分に理解していたのです。しかし、ペテロはそれを承知の上で、お話をしています。「人の立てた全ての制度に、主のゆえに従いなさい」人の立てた制度は人が勝手に自分の都合や自分の利益を夢見て作った制度を指します。ですから、普遍的でない人の立てた制度は従いたくない気持ちになります。特に、真理を愛し、良心を愛し、公平と光を愛する人々にとって、自分勝手に作り、自分のために利用する制度や組織を、従いたくないのが本音です。しかし、ペテロは言っています。「人の立てた全ての制度に、主のゆえに従いなさい」これを見ると、ペテロは人の立てた制度に無理やりに従うよう、勧めていません。「主のゆえに」従うよう勧めています。主のため、主を目的に、主の利益のため、主を動機に、主を理由に従いなさい、という意味です。素直には従えない制度であっても、主のため、主を目的に、主の利益のため、主を動機に、主を理由に従いなさい、という意味です。なぜでしょうか。

15節「というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。」ペテロは、主のため、主を目的に、主の利益のため、主を動機に、主を理由に従いうことは、善をおこなうことであると説明しています。信者は自由人です。どんな制度にも閉じ込められない自由人です。当時、教会には統治者も、奴隷も、平等な立場で神様に仕えていました。神様の前で礼拝し、神様に仕える立場にありました。しかしながら、依然として当時の社会は制度的に奴隷が存在し、一方は主人で、一方は主人の道具として生きていました。教会の中で得られる自由を、彼らは自分たちの利益のために使いやすいものでした。自分たちの利益のために心を動かしやすいものでした。ペテロはその彼らにいました。16節、「あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。」悪の口実とは悪が用いやすい動機を作るように行動せず、神の奴隷として行動をするように、という意味です。

どのようにすれば、私たちは悪の口実を作らないように行動できますか。どのようにすれば、私たちは神の奴隷として行動することができますか。17節をご覧ください。「すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。」とあります。全ての人を、敬うことです。敬える人を敬うのではありません。敬えない人も、主のゆえに敬うことです。その時に、私たちは悪の口実に用いられない環境を作ることができます。次に、「神を恐れ、王を尊ぶ」ことです。当時の王は信者からして尊べられない存在だったようです。信者の価値観と倫理観からして、王は尊べられないものでした。しかし、ペテロは「神を恐れる」ことと同時に、「主を尊ぶ」ようにと言っています。

また、18節は言っています。「しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。」これも当時の社会的な雰囲気を物語るものです。信者の奴隷からして、主任に服従することはかなりの努力が必要でした。しかも、善良な主人にはまぁまぁ、従えるとしても、横暴な主人にはとてもじゃない、従う気になりませんでした。しかし、ペテロは言っています。「しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。」なぜでしょうか。

19節、「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。」ここで私たちは、、「神の前における良心のゆえに」という言葉が理由であることを悟ります。英語では「because he is conscious of God.」とあります。神様を意識して、神様の存在を認めて、神様が作られた環境であることを悟りえて、悲しみをこらえるのなら、神様は喜ばれる、と言っています。もし、私たちが今の私たちの環境を、神様が関与し、神様がおつくりになり、神様が主導的に導いていると、信じ、認めて、従うのなら、神様は喜ばれます。神様が喜ばれると、すべてが解決します。神様が喜ばれる環境は、完ぺきな環境なのです。神様が喜ばれると、神様の御業が完成します。神様の御業が完成すると、私たちには平和が、喜びと賛美が、光り輝く未来が約束されるのです。

私がこのペテロの手紙を勉強するときよく、引用する聖書研究会の林牧師のは、当時のことをこのように説明しています。

「キリスト者は、この後、まさにペテロの命じた通り、御言葉の命ずるとおり、ある意味で、無抵抗のまま、虐殺されていきました。しかし、キリスト者たちの、穏やかで柔和で、しかし、確信に満ちて変わらない信仰の姿勢は、どんな抵抗や武器などよりも強い力となり抵抗となりました。迫害も終わりに近づいた4世紀前半、歴史家ユウセビオスは、燃えるような迫害の時代が鎮火した後の、教会とクリスチャンの姿を次のように描写しました。『しかし、常に変わらない公同の真実の教会の光栄は、(迫害の時代の中で)その偉大さと力を更に加えて、信仰と素朴さと自由を、また生活と考え方(哲学)の謙遜さと純潔の証を、ギリシャ人や異教徒のすべての人々に照らした。同時に、全教会に対してなされた中傷的非難も消失させ、ただ神の教え(聖書)のみが残り、その教えは全世界に行き渡り、威厳や節制において、心的な哲学教理においても、すべてに勝っていると認められた(キリスト教の教えがすべての教えより優れていると認められた)。だから、今では誰も、私たちの信仰に対して、下劣な中傷や、かつて敵が喜んで行っていた誹謗をするものは無くなってしまった。(『教会史』4.7.15)」』

現在の環境を、神のゆえに従うとは信者が持つ強みであり、行動哲学なのです。一例に、アメリカが日本とフィリピンと戦ったとき、マッカサーが帰るまでアメリカ兵は日本の捕虜になっていました。Herb and Ruth Clingenという人が捕虜になった時の証が残されていますが、日本軍の第七艦隊の司令官であった小西という人が、殻のついたままの米を食べさせて、体力を使わせ飢え死にさせようとしたそうです。まさに飢え死にしそうな時に、マッカーサーが帰ってきて、捕虜たちは解放され、第七艦隊の小西という日本人が処刑される日、彼は驚くことに、キリストを信じてこう言ったそうです。「自分が苦しめ続けた捕虜の中で、宣教師たちの穏やかで愛に満ちた姿を見て、深い感銘を受けました。私はこのイエス様を信じる」そして、彼は処刑ました。

ペテロは最後の言葉を語り、このような信者の模範を、イエス様から探しています。

20節、「罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」

この言葉はペテロのLifetestimonyです。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23