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2010年長崎UBF、マタイの福音書、その9 --> 問題紙

あなたの信じた通りになるように

Messenger:MSN.David

御言葉:マタイの福音書 8章1節~34節
要 節:マタイの福音書、8章13節 「それから、イエスは百人隊長に言われた。『さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。』」

イエスが山上の説教を終え、山から降りて来られると、多くの群衆がイエスに従いました。マタイはその中でも、特に、病に苦しむ人々、人間の力や努力によっては解決できない問題を、解決するイエスさまに注目をしました。どのようにして、そのお力を見出したのでしょうか。

その一例を、マタイはらい病、ツアラアトに苦しむ人を取り上げました。

2節をご覧ください。「ひとりのらい病人がみもとに来て、ひれ伏して言いました。『主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。』」当時のらい病は神様からののろいと考えていました。絶対直すことができない、隔離すべき病気でした。神様にのろわれ、人間に突き放された病気に苦しむ人は、生きることすら苦しむものでした。しかし、このらい病人はイエスさまに、お心を求めました。神様から捨てられ、人間から突き放されましたが、イエスさまのお心を求める彼は、イエスさまから奇跡を求めるものでした。まったくの可能性がない中で、イエスさまによるお心一つを求めました。イエスさまのお心一つであれば、まったくの可能性がない中でも、道が開かれることを確信していました。これを見ると、彼の信仰は、イエスさまを神様として見立てる、神様のお心を求める信仰でした。らい病の人々は神様から見放されたのだと思っていましたが、しかし、彼は神様のお心、神様の愛、神様のあわれみを捨てませんでした。3節を見ると、イエスは手を伸ばして、彼にさわりました。そして言われました。「わたしの心だ。きよくなれ。」

神様の心、イエスさまの心は私たちが安心して生きることです。病気にかからず、すこやかでいることです。イエスさまは私たちが神様の試みより、苦しみ、悲しみに包まれることを望んでおりません。イエスさまは私たちが苦しみから、悲しみから、解放されることを願っておられます。満足と喜びと、満たされた魂の恵みに包まれることを願っておられます。私たちを神様から、人々から隔離させるさまざまな病気から治り、神様と、人々と、深い愛の関係性を保つことを願っておられます。神様は私たち一人一人が、らい病のような病気から清くなることを、切に願っておられます。そのために、イエスさまは私たちの人生に関与してくださったのです。そのお力を見出すのは、お心を信頼して、求めることです。とんでもないことを、求めるチャレンジです。私たちへの神様のお心を信頼してお祈りを捧げることです。その時、私たちは神様のお心を確認することができます。

次の事例を、マタイは百人隊長にあてられています。

5節をご覧ください。イエスがカペナウムにはいられると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願しました。「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」中風の病気とは体が思い通りに動けない病気のことを指します。人々は自由意志によって体を動かしながら、活動をしています。しかし、百人隊長のしもべは思い通りに体が動かない、中風病みに苦しんでいました。簡単には直せない、中風病みに苦しむしもべを、百人隊長はかわいそうに思いました。イエスさまのお話を聞いたとき、百人隊長は直接、イエスさまに懇願することを決心しました。なんとかして、しもべの病気を治してあげたい気持に満ちていました。イエスさまがカペナウムに入られたことを聞いたとき、百人隊長はイエスさまのところに進んでいき、懇願しました。「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」イエスさまは百人隊長の懇願を受け入れてくださいました。イエスは彼に言われました。「行って、直してあげよう。」

しかし、8節を見ると、百人隊長はイエスを驚かせる話をしました。彼の言葉がなんでしょうか。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」百人隊長は彼の経験からして、もし、イエスさまが権威のある神様であるのなら、わざわざ病気に苦しむ人のところに近づかなくても、おことばだけで十分だと確信していました。

彼の話を耳にしたイエスさまは、驚きました。そして、言われました。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。」イエスさまは百人隊長の、信仰を見られました。特に、お言葉一つで、しもべは治る、信仰に驚きました。そして言われました。「あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」これはどんな形の信仰よりも、お言葉を信頼する信仰は最も優れた信仰であることを意味するものです。イエスさまを驚かせ、イエスさまを動かした信仰は、お言葉を信頼する信仰でした。お言葉一つ頂ければ、すべてが解決できる、という信仰でした。イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされました。

お言葉を一つ頂ければ、私たちは人生問題を解決することができます。お言葉を一つ頂ければ、不治の病気から癒されます。お言葉一つ頂ければ、私たちは人生を生きている中で、信仰による不思議な奇跡を体験するのです。私のような軟弱で、可能性の無い人でも、「神を信じなさい」という言葉をいただいたとき、不思議をまとう人生を迎えるようになりました。今年、私は「死にまで忠実でありなさい」という言葉をもって一年を暮らす計画をしました。神様は私に忠実した人生の喜びを与えてくださいました。また、ヨハネの福音書17章4節「あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。」という言葉が私の心を喜びとさせ、毎日の力を注いていることを経験しています。今回の修養会を通しては、「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」と言われたイエスさまの言葉が大きく聞こえました。また、この言葉への不思議な確信が強くなりました。昨日、出張帰りのバスの中でも、この言葉への喜びと確信が神様により強められていることを悟るようになりました。お言葉を一つ頂ければ、私たちは中風病みから治ります。お言葉を一つ頂ければ、私たちは人生の逆境を乗り越える不思議な力を体験します。お言葉一つ頂ければ、私たちは勝利した人生を聞かざることができます。私たちも百人隊長のように、同じく、祈る者となりますように祈ります。「ただ、おことばをいただかせてください。」私たちの祈りに、イエスさまは応えられます。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」

14節を見ると、それから、イエスは、ペテロの家に来られて、ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いているのをご覧になり、手にさわり、熱病を癒してくださいました。イエスさまは悪霊につかれた者の霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになりました。イエスさまは突風を沈ませました。また、悪霊にけがれた人を豚二千匹よりも大切な存在であると考えました。イエスさまは私たちが悪霊から解放され、病気から自由になり、この世において神様の栄光を表す人生を送ることを願っておられます。

結論的に、私たちの人生は信じた通りになります。それが神様の、私たちへの願いです。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」今日は、カレブ宣教師が東京に派遣される日です。マタイの福音書6章33節を固くつかみ、神様の祝福の証言者となりますようにお祈りいたします。この時間神様は言われます。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23