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2010年長崎UBF、マタイの福音書、その8 --> 問題紙

父のみこころを行なう者

Messenger:MSN.David

御言葉:マタイの福音書 7章1節~29節
要 節:マタイの福音書、7章21節 「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」

今日の御言葉は山上の説教の最後のメッセージです。イエスさまは言われます。「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」信者は誰もが天の御国に入ることを望んでいます。言って見ればキリストの信者たちにとっては最後の目的地のようなものです。神様を信じる者のたどり着くところは、天の御国です。ルカの福音書を見ると、「わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。」天の御国は神様が悪霊を追い出した国であり、心であり、人生のことを指します。ルカの福音書17章を見ると、パリサイ人たちは神の国が目で見えるような、アメリカとか日本とかの国であると考えましたが、イエスさまはその愚かさを指摘しています。そして、言われます「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」天の御国は私たちの心の中にある不思議な国です。手で触り、目で見るような国ではありませんが、確かに存在し、信者にとって人生の旅の最終目的地です。

イエスさまはその国に入るための人の心の条件を、語っておられます。その条件とは何でしょうか。

1-2節の御言葉をご覧ください。「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」裁くとは判断することを指します。善し悪しを区別し、審判を下すことを指します。イエスさまは信者の正しい姿として、「さばいてはいけない」と断言しています。つまり、人の良しあしを判断して、審判を下すことを、信者はやるべきではないとしています。それは裁判官になってはいけない、とか、判事になってはいけないという意味ではなく、基本的に人間に神様は人を裁く権利を与えてない、ことを意味します。それが信者の正しいスタンスであり、持つべき価値観であり考え方であるとしています。人間にとって、人は裁く対象ではないく、裁かない対象なのです。逆にいえば、人を裁く権限は神様にだけ存在することを、信者は信じ、守るべきであるとしています。なぜでしょうか。私たちがもし、人を裁くのであれば、同じく裁かれるからです。罪人が罪人を裁くことになるから、いけないとしています。「さばいてはいけません。さばかれないためです。」

イエスさまは例をもって、そのお話を具体的に説明されます。3-5節の御言葉をご覧ください。「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」この言葉は自分の目に梁を持っている人が、人の梁を取ろうとする傲慢を、神様は人間に赦してないことを間接的に説明しています。人の目の梁を取ろうとする人は、偽善者であると定義しています。信者はひたすら、自分の目の梁を取り除くことに専念する人です。人の梁を見るたびごと、自分の目に同じ梁があることを認識することが必要です。人の目に梁があることが分かるとき、私たちは同じ梁を自分から取り除くために真剣になるべきであると教えています。

私は職場で、嫌いな人がいます。あまり一緒に話をすることがありませんし、わざわざ話をもっとうとしませんし、持ちたくないと思う人がいます。大体、私とスタイルが一緒に人です。見るだけでも卑しい人、話す言葉を聞くだけでも、憎くなる人は、自分とそっくりの場合が多いです。

大学院生の時に、ある講演会が開かれました。知り合いの先生が招待をし、開かれた講演会でしたので、講演会に参加していました。講演を聞いている私にとって、びくっりするほどその先生を招待された知り合いの先生にそっくりであると驚きました。しかし、講演会の途中、その先生を招待された先生は何度も外に出たり、最後は長い時間、講演会に参加しませんでした。後から聞いたら、公演する先生の顔や行動、話し方があまりにも自分とそっくりなので、講演会場にいること自体「死ぬ思い」だったということでした。自分とそっくりのスタイルを許せない心が働いていたのでした。

6節をご覧ください。「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」聖なるものとは区別されたもの、神に近いもの、神様のものを指します。聖なるものとは神様の言葉であり、神様の教えのことを指します。「さばいてはいけない」というお言葉のことを指します。このような教えは、豚や犬のような人間には与えられません。その価値が発揮されませんし、むしろ、軟らかい食べ物を与えてないということで怒り心頭し、向き直って引き裂くからです。聖なるものはその価値が分かる人に与えられるべきです。神様の言葉は選ばれた弟子たちだけに向けられた言葉です。それだけ貴重だからです。それだけまれだからです。たくさんあるわけではないからです。

しかし、「さばいてはいけない」という言葉は守ることのできない、厳しい要求です。さばくことは日常だからです。考えてみれば私たちは誰ひとり、真珠を受け取れる弟子には相応しくありません。イエスさまのお話を聞けば聞くほど、自分とはかき離れた教えのような気がしますし、もう、守りきれるものではないとあきらめかける教えです。イエスさまはその弟子たちに言われます。7節をご覧ください。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」これほどはっきりしたお約束がありません。弟子たちにとってかなり無理だと思っている、さばかない信者の正しい姿も、求めれば与えられると、約束しています。探せば、見つかりますし、叩けば開かれるのだと、はっきりしたお約束をされます。

ここで私たちは、信者にとって祈りは強力な武器であり、どんな難しい逆境も乗り越えられる神様の現金箱、預金通帳であることを教えられます。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」誰であれ、どんな人であれ、条件を問わず、神様は求める人に与え、探す者に見つけ出させ、叩くものに開かれる方です。

大学生の中にキリストの弟子を、と祈りをもってスタートして、もう20年がたちました。何人かの弟子たちが選ばれ、育ち羽ばたいていきました。しかし、大学生の3パーセントの学生たちが弟子になることを祈る私たちにとっては、弟子養成は不可能のように見えますし、あまりにも目標が高く感じられる場合もあります。しかし、イエスさまは言われます。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」私はこの言葉を準備しながら、大学生たちのための祈りはもちろんのこと、子どもたちがキリストの弟子になることを願っていますが、願うだけではいけないことを悟るようになりました。長女のために、長男のために、次男のために、三男のために、具体的に祈りの課題を口にして祈ることが必要であることを悟りました。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」

イエスさまは言われます。「あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」天におられる私たちの父は、私たちの具体的で細かな祈りを求めています。天におられる私たちの父は、私たちの祈りを聞けば、すぐにその解決に向けて動き出されます。祈りは自分のためのものであり、求める者も自分のためのものが多いです。探す者も、叩くものも、自分に限る場合が多いです。しかし、信者は祈りの幅をそのような自分に限るところでとどめるのではなく、他の人にも同じ要求があることを理解し、他の人にもそのような配慮をすることをイエスさまは教えています。12節、「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」

これまでのお話を聞くと、信者の生き方は簡単ではなく、人への配慮と自然な自分の体の要求に逆らい立つような生活が必要であることを悟ります。その道は狭く、その道を歩む人は稀です。しかし、イエスさまは言われます。「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」信者の生き方は決して楽ではありませんし、誰もが歩む道でもありません。むしろ、狭く、歩く人が少なく、小さい道のりです。日曜日には礼拝をささげ、決められた時間には聖書勉強をし、神様のことを考える時間を持とうと、神様の願いに沿って生きようと努力する人は数少ないです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれだからです。にせ預言者たちの教えに注意しながら、狭い門から入ろうと努力すべきです。広い門は滅びに近いです。

21節の御言葉をご覧ください。「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」天の御国とは神様が治める国であり、悪霊が追い出された心であり、平和と喜びと賛美御満ち溢れた満足する国です。その国は、口先だけで、『主よ、主よ。』と言う者がはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行うものが入るように設定されています。それではどんな人々が父の御心を行うものでしょうか。イエス・キリストの名で預言をする人でしょうか、イエス・キリストの名で悪霊を追い出す人でしょうか、イエス・キリストの名で奇跡をおこなう人でしょうか。私たちは当然のことく、このような人たちが神の御心を行う人だと理解しがちです。しかし、イエスさまは彼らを指して、「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。」と指摘します。彼らがどんな不法を行ったのでしょうか。彼らは実績作りには力を入れたのですが、神様の御心を行うものではなかったからでした。神様の御心は誰も知りません。神様だけがお分かりですが、悲しみも、喜びも、苦しみも、艱難も、裸になることも、神の御心なら従順しようと決心すること、これが神の御心を行う心です。神様が願うなら、長崎にも東京にも行くことであり、神様が願うならどんな生き方をも喜んで生きることです。

24節は言います。「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
7:25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。」言葉を聞くこと、そして、その言葉の意味を実行すること、これが神の心にかなう人です。今回の修養会を通して、私たちが神様の声を聞くことができますように祈ります。また、その声を聞いて、その意味を素直に実行に移す、御心にかなう人となりますように祈ります。

神様のことばを聞いても、それを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいます。しかもそれはひどい倒れ方です。

私たちが聖書勉強の時間を持つこと、また、その言葉を実行に移すこと、これが神の国を手にする近道です。神の国は人間が手にしたい最高の喜びであり、最高の満たされた状態です。それは言葉を勉強し、それを素直に実行する人に与えられる神様からのプレゼントです。私たち一人一人が、神の国を手にする幸せな者となりますように祈ります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23