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2010年長崎UBF、マタイの福音書、その3 --> 問題紙

天の御国が近づいたから

Messenger:MSN.David

御言葉:マタイの福音書 3章1節~17節
要 節:マタイの福音書、3章2節 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

今日の御言葉はバプテスマのヨハネについて学びます。バプテスト教会とはこのバプテスマの意味を因んだものです。日本語でいえば、洗礼という意味です。ですから、バプテスト教会とは洗礼教会ともいえるものです。また、今日の御言葉の中にはバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになられたイエスさまについてもお話しています。今日の御言葉を通してなぜ、マタイはバプテスマのヨハネを取り上げたのか、その意味で、イエスさまはどんな方なのか学びますよう祈ります。

I.バプテスマのヨハネの目標

1節の御言葉をご覧ください。そのころ、バプテスマのヨハネという人が現われました。ここで、「そのころ」とはイエスさまがお生まれになった時代を指しますし、2歳以下の男の子がみな殺されていた時代を指します。そのころ、バプテスマのヨハネという人が現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べていました。教えとは神様の教えを指しますし、神様の御言葉、聖書を意味します。マタイは、バプテスマのヨハネが荒野で、教えをのべていたと強調しています。荒野でとは、耳を傾ける人がいないところを意味します。いくら神様の言葉を教えても、無駄なところで、バプテスマのヨハネは教えをのべていました。バプテスマのヨハネはまともな人々がいない荒野で、岩石に向かって、川に向かって、山に向かって、野生動物に向かって神様の御言葉を教えました。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

バプテスマのヨハネの行動は特別なものでした。普通の人々おいてはなかなか実行できない行動をしていました。その行動の根拠について、マタイは3節で、次のように説明しています。この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』と言われたその人である。と。つまり、バプテスマのヨハネは徹底して、神様の御言葉を信頼していたことです。神様の御言葉を信じていたことを意味します。神様の御言葉に従って自分の行動をとっていたことを意味します。4節を見ると、自分の行動だけでなく、生活様式も御言葉に従っていたことが分かります。「このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。」とあります。バプテスマのヨハネは徹底して御言葉に従順していたがために、その生活様式も御言葉が指示した通りになっていました。荒野で入手可能な衣食住生活をしていました。らくだの毛で織った着物に、野蜜を主食としていました。バプテスマのヨハネにとって神様の御言葉は、生活の一部でした。生活の基準でしたし、行動の方向性でした。

ハーバード大学の学生たちに聖書を教えるために、BostonIIIを開拓しているCephas Kye牧師の次男が、この9月、ハーバード大学に4年間の全額奨学生として合格した話をGrace A.Lee宣教師から聞いて、Cephas Kye牧師と久しぶりにメール交換をしました。私は個人的なメールの最後に、自分の名前とメールアドレスを付けていますが、Cephas Kye牧師は最後のところに、"Arise, shine, for your light has come to you and the glory of the Lord rises upon you" 起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。(Isaiah 60:1)と書いてありました。さすがに神様の御言葉がその生活の一部になっていたことを読み取ることができました。早速、私も個人的に使っているメールの最後に、私の行動の基準となるヨハネの福音書17章4節の言葉をつけておきました。

荒野で御言葉を教え、伝えることは無駄のように見えますし、客観的に考えてもさすがに戦略の間違いですが、バプテスマのヨハネの戦略は人間的な戦略ではなく、神様の戦略であり、神様の御言葉に頼る戦略でした。その戦略は神様の祝福がありました。5節と6節をご覧ください。「さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。」とあります。場所よりも神様に捧げられた心が祝福されました。人間的な条件や環境よりも、神様の御言葉への従順が祝福の根源となりました。

聖書は御言葉に従順して生きる生活を、バプテスマのヨハネのような生き方であると示しています。原始人のような生活、現代人とはかきはられた生活、人々の目を意識することのない生活、神様の言葉が口にあり、神様の言葉が生活の基準となり、神様と歩むことが生活の一部となっていたことです。このようなバプテスマのヨハネの生き方は、変わった生き方です。客観的に見て合理的でない生活ですし、周りに合わせた生活ではないのです。このような生活はきっと失敗するはずのように見えます。しかし、マタイはバプテスマのヨハネの生き方が、神様の豊かな祝福に満たされたことを証言しています。彼のメッセージ、彼の聖書勉強会に多くの人々が集まっていたことを意味します。「さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。」とする御言葉はその証拠です。 アブラハム君が、「お父さん、カレブ宣教師家庭が東京に行くとさびしい礼拝をささげるしかないね。うちの家族しかないじゃん。」と言っていました。確かに、日本での礼拝は人が少ない荒野のような礼拝ですし、神様の御言葉に従って生きることは変わった人の生活です。日本で日曜日に礼拝を守ることは大変難しい社会です。しかし、バプテスマのヨハネのところに大勢の人々を呼び集められた神様は、私たちにも呼び集められる方です。バプテスマのヨハネを祝福し、その生き方を称賛された神様は、私たちの人生も将来も、保障してくださるのは神様です。

II.バプテスマのヨハネのメッセージ

このヨハネのメッセージがなんでしょうか。それは2節、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」です。8節にもヨハネのメッセージが出ています。パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言いました。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」バプテスマのヨハネのメッセージは一貫して一つでした。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」です。

天の御国が近づいたから、とは天の御国が近くにいることを指します。天の御国とは天の神様が治めている国を指します。神様が関与し、治める天の御国とは喜びと賛美、豊かな愛が存在する国です。天の御国とは私たち人間が求める最高のユートピアの世界です。その国が近くにいるので、悔い改めなさい、というのです。逆にいえば、悔い改めれば、天の御国が近づくことを意味します。悔い改めれば、天の御国が得られることを指します。喜びと賛美、豊かな愛が近づく秘訣は、悔い改めであると言っているのです。バプテスマのヨハネのメッセージはこれ一つでした。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」 世の中でも反省を伴わない成長はないことを、学んでいます。それは人生を経験した私立ちたちが体得したものでもあります。過ちを悔いて、改めることがなければ、喜びと賛美、豊かな愛が育たないのです。ヨハネは一貫して、そのメッセージを人々に伝えました。神の国に相応しい人々を用意するために、近づいている神の国に相応しい人々を断たせるためにヨハネは叫び続けました。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」

しかし、9節を見ると、悔い改める形はしっかりしているのだが、悔い改めの実がない人々がいました。それは『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言う、パリサイ人とサドカイ人たちでした。彼らはしっかりした形をし、形からしては悔い改めているように見えましたが、悔い改めに相応しい実がない人々でした。依然として喜びがなく、依然として暗闇に包まれ、依然として妬みと悪巧みに包まれている人々でした。それは、彼らの心の中のプライドが聖霊の働きを邪魔していたからでした。バプテスマのヨハネは、「『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。」と警告しました。彼らは確か、アブラハムの子孫でした。系図もありましたし、証拠もありました。彼らの先祖はどの民族よりも純粋に神様を愛し、神様に心をささげてきた人々でした。しかし、その条件が悔い改めるから除外されているのではありませんでした。彼らは確か、聖書勉強をいち早くし、神様の律法についての知識があるかもしれませんが、常に、悔い改めるべき存在から自由な身になったわけではありませんでした。彼らの出身はアブラハム系であり、彼らの先祖からは立派な信仰人と有名人が生まれているのかもしれませんが、それは、悔い改めるべき彼らの存在と関係ないものでした。彼らは悔い改めて、天の御国を常に求めるべき罪びとでした。

バプテスマのヨハネは厳しく彼らを責め立てました。「あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」彼らがプライドの根源としてるアブラハムは、神様にとって石ころからでも作り上げることができるものです。アブラハムが大事ではなく、信者の形が大事でななく、大事なことは、悔い改める心があるかないかにかかっているのです。自分の罪を認め、神様の前に立ち、心を改めているかどうかにかかっているのです。今、神様の前に裸になり、悔い改めれば、天の御国が近づくのです。そうでなければ、斧もすでに木の根元に置かれています。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。

バプテスマのヨハネは悔い改めさせるために、水のバプテスマを授けていますが、イエスさまは聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。イエスさまもヨハネの御業を認め、彼からバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンまでやってこられたのです。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」と恐縮しているヨハネに、イエスは答えて言われました。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」イエスさまはヨハネを通す神様の御業を認められました。また、ヨハネを通す悔い改めの業の正しさを認められました。イエスさま自身もヨハネからバプテスマを受けられました。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下りました。神様もヨハネの悔い改めの業を祝福されました。それだけでなく、天からこう告げる声が聞こえました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」神様はヨハネからバプテスマをお受けになられたイエスさまを、認められました。祝福されました。


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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23