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2010年長崎UBF、マタイの福音書、その28 --> 問題紙

契約の血

Messenger:MSN.David

御言葉:マタイの福音書 26章1節~30節
要 節:マタイの福音書、26章28節 「これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」

聖書には旧約と新約があります。聖書は古い約束と新しい約束で構成されていることを意味します。古い約束とは神様がユダヤの人々と交わした約束です。この約束は岩の上に書かれ、羊の血により交わされる約束でした。この約束には限界があり、新しい約束を預言者により示されました。それが新しい約束、心の上に書かれ、羊の血ではなく神ご自身の流した血、イエス・キリストの血により交わされる約束です。この約束はユダヤ人だけでなく、世のすべての人々に臨む約束です。

古い約束は神様がアブラハム、つまり、ユダヤの人々とともに交わした約束です。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

新しい約束はすべての民に交わした約束です。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」喜びの知らせ、福音、これが新しい約束なのです。この約束はイエス・キリストにより実現され、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになったのです。信者とは、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。

今日の御言葉ではその新しい契約を交わす場面です。イエスさまはどのようにしてこの新しい契約をその民たちと交わしたのでしょうか。今日の御言葉を通して、新しい契約、について学びますよう祈ります。

1節をご覧ください。イエスは、たとえ話が終わられると、弟子たちに言われました。「あなたがたの知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」イエスさまは二日後に迫った今回の過越しの祭りに新しい契約の血が流されることを知っておられました。十字架の上で流される血でした。そのころ、祭司長、民の長老たちは、カヤパという大祭司の家の庭に集まり、イエスをだまして捕え、殺そうと相談していました。彼らは密かに、イエスを殺そうと計画しました。「祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから。」と考えました。

このような緊迫した瞬間、ベタニヤのらい病人シモンの家では、イエスさまと弟子たちが彼らとともに食卓についていました。マタイはそこで、考えられない事件を報告しています。ひとりの女がたいへん高価な香油のはいった石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだことです。弟子たちもこれを見て、憤慨して言いました。「何のために、こんなむだなことをするのか。この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」普段、香油は貴賓の頭に一滴、二敵を注ぎ、宴会を盛り上げるものです。しかし、この女は石膏のつぼごと持ってきて、イエスの頭にがぶがぶと注いだのです。合理的に考えて彼女の行動は理解しがたいものです。弟子たちの怒りは当然のことです。彼女のイエス様への行動は心が先走って、イエスさまにも迷惑を変えているのです。しかし、イエスはこれを知って、彼らに言われました。「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」

イエスさまは私たちのささげる心を、一つも落とされることがありません。洗練されてなくても、合理的でなくても、たまには心が先走って迷惑をかけるものであっても、イエス様に捧げられた心は何一つ地に落とされることがありません。弟子たちからしてみれば、彼女は無駄なことをしたのですが、イエスさまからしてみれば、彼女の行動は埋葬の準備をしてくれたものです。私たちは美しい声で賛美をすべきですし、立派な原稿でメッセージを用意すべきですし、洗練された形で主の御業に仕えるべきです。信者として生きる美しさをこの世にあらわれるべきです。しかし、それらよりも、もっとも心を捧げなければいけないのは、神様への素直なこころと、賛美、神様への信頼と神様に求める率直な祈りです。神様はその子どものような姿を、何一つ落とされることなく、祝福してくださいます。

さて、お話は十二弟子のひとり、イスカリオテ・ユダに移ります。彼は、祭司長たちのところへ行って、こう言っていました。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」ここで、彼とはイエス様のことを指します。祭司長たちはイエスを密かに捕まえて、殺そうと企んでいました。そのことを気付いていたイスカリオテ・ユダは彼らに言っていました。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」彼は師匠、イエスを利用して金もうけしようとしていました。彼の提案は祭司長たちに受け入れられ、実際に、銀貨三十枚が彼の手に支払われました。そのときから、イエスの弟子、イスカリオテ・ユダはイエスを引き渡す機会をねらっていました。

人は誰でも裏切り者にはなりたくありません。人に信頼され、人に称賛され、人々と仲良く暮らすことを願っています。暗闇の世界を嫌い、光の世界を喜ぶものです。ユダも同じ人間で、裏切り者として人生を作り上げようとは思っていませんでした。しかし、彼が裏切り者になってしまったのはなぜでしょうか。お金を愛していたからでした。お金を愛しているとは、目の前の利益を愛していることを指します。少しでも損することを嫌うことを指します。人に利益を与えるより、自分に利益があることをより求めたことを指します。そのような彼は結局、人間本来として求めていた夢とはかき離れた人生を営むようになったのです。目の前の利益を優先することは、お金を愛するユダの心です。人に利益をもたらすことを拒否することは、ユダの心です。我慢ができない、分け与えることがへたくそな人はユダの心に似たものです。そのような人たちの最後は悲しみです。しかし、寛容であり、親切で、人をねたまず、自慢せず、高慢ならず、礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜ぶひと、すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶひとは、祝福されます。

種なしパンの祝いの第一日に、弟子たちイエス様の指示通り、過越の食事の用意をしました。そこでもイエスは直接、イスカリオテ・ユダの悔い改めを求めていたのでした。しかし、悔い改めることがありませんでした。イエスさまは言われました。「人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」

また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われました。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになりました。「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」


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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23