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2010年長崎UBF、マタイの福音書、その21 --> 問題紙

天の御国を所有する人たち

Messenger:MSN.David

御言葉:マタイの福音書 19章1節~30節
要 節:マタイの福音書、19章26節 「イエスは彼らをじっと見て言われた。『それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。』」

今日の御言葉はイエス様の結婚観そして、それに関連する離婚観についてお話をしています。今日の人々は結婚することや離婚することを軽々しく考える風潮があります。テレビやラジオでは連日のように、芸能人の人々が結婚前の交際が報じられていたり、結婚式も挙げずに一緒に暮らしているとか、入籍をしたとか、また、連日のように離婚騒動が発覚したとかの報道がなされています。結婚することも離婚するとも超えて、男女二人の交際が当たり前のように言われたりします。しかし、今日の御言葉を見ると結婚は神様が作られたもので、離婚は人間の好みによって選べるものではないことを教えています。それだけ神聖なもので、大事に扱うべき行事であることを示しています。今日の御言葉を通して結婚について、また、離婚について聖書に基づく理解を深めることができますように祈ります。

1節をご覧ください。イエスは恩知らずの例え話を終えると、ガリラヤを去って、ヨルダンの向こうにあるユダヤ地方に行かれました。すると、大ぜいの群衆がついて来たので、そこで彼らをおいやしになりました。イエスの周りにはいやしが必要な人々が集まりました。イエスさまは彼らの必要なものを考えましたし、神様に求めました。彼らを癒すこと、これがイエス様の主な仕事でした。心の安らぎを求め、体のよりどころを求め、魂の休みを求め、人々はイエス様に近づきました。イエスさまは彼らの必要なものを各々考えました。そして、彼らに必要なものを与えました。

そこにはパリサイ人たちもいました。3節をご覧ください。このパリサイ人たちがみもとにやって来て、イエスを試みて、こう言いました。「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」本文を見ると、彼らはイエスを試みて、と記録されています。「試みて」とは弱点を狙い目に、鋭く質問をしたことを意味します。つまり、彼らの質問には落とし穴があり、厳しい指摘を受けることがある質問だったのです。「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」はい、と言えば捨てられる女たちへの配慮が足りないことが厳しく問われ、いいえ、と言えばモーセの律法に反することで、罠に落とされるべきものでした。イエス様の答えがなんでしょうか。

4節をご覧ください。イエスは答えて言われました。「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」イエスの結論は、いいえ、でした。軽々しく、理由があるからと言って離婚することはいけない、と言われました。むしろ、イエスさまは結婚とは、一心同体になることだと説明されました。一心同体とは心も体も一つであることを意味します。結婚とは一つの人格、一つの命、一つの心を指す、わけてしまえばもう、命はなく、人格もなく、死んでしまうものであると、言われたのです。ひとりの人間を殺すと命も、人格もなくなると同じように、離婚は命を殺すこと、人格を殺すこと、体を真っ二つにするほど、残酷なものであると教えました。絶対、離婚はどんな理由があろうとも、やってはいけないといわれました。

すると、彼らはイエスに鋭く攻撃始めました。「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。」イエスさまはこの彼らの攻撃に、どのように答えられましたか。8節をご覧ください。イエスは彼らに言われました。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありません。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、不貞のためでなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです。」イエスさまはモーセの律法が、離婚を許したのではなく、彼らのかたくなな心から女を守ろうとしたのだと、説明されました。ですから、離婚状を渡して妻を離別するように命じたのは、彼らが勝手に離婚している禁止するためでした。離婚は神様によって赦されたものではないのです。不貞を犯し、姦淫を犯してもない女を離別することは、逆に男が姦淫を犯す罪に定められるものだ、と断定されました。

いずれにせよ、離婚は律法を犯す罪であると、指摘されました。離婚は絶対、駄目だ、と言われました。離婚は人を殺すことと同じく、人格を破壊し、体を真っ二つにするほどの強烈な犯罪であるといわれました。ひとり親、が普通になっている時代、私たちは彼らの子供たちがどれだけ悪霊に苦しみ、悲しみに落とされているのかを悟るべきです。神様が離婚した家庭で生まれた子どもたちを、どれだけかわいそうに見ておられるのか、また、どれだけ彼らを見守ってあげたいと思っているのかが分かります。私たちもこのような友人、隣人を愛することができますように祈ります。また、離婚は考えることすら、罪であると認識すべきです。

しかし、この話を聞いていた弟子たちはイエスに言いました。「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです。」これは、当時、妻に対する夫の立場がどれだけ乱暴であったのかを説明する言葉です。夫は妻を、いかに簡単に離別させ、別の女を妻としてめとっていたのかを示しているものです。弟子たちは離別が許されないのなら、結婚しない方がましだ、と言い出したのです。すると、イエスさまは言われました。「そのことばは、だれでも受け入れることができるわけではありません。ただ、それが許されている者だけができるのです。というのは、母の胎内から、そのように生まれついた独身者がいます。また、人から独身者にさせられた者もいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった者もいるからです。それができる者はそれを受け入れなさい。」結婚は神様が与えられた祝福であり、創造の初めから計画されましたものです。結婚が生まれつきから障害とのためにできない人、また、人々によって結婚ができないようになってしまった人々、または天の御国のために独身者になった人以外は結婚することがごく自然です。そのように私たちは計画されており、作られているのです。

結婚は神様のおつくりになられた傑作です。結婚は神聖なもので、神様が関与するものです。ドイツの宗教家、ハインリヒ・アノルドは結婚について次のように定義しています。「結婚は神様への信仰が深められ、結婚によりもっとも神様に近付けられる環境を作るためのものである。その意味で、信者は結婚の相手について、神様との関係が最も深まることのできる人かどうか、をまず第一に考えるべきです。」信仰の結婚はまさしく、このようなことを基準に選ばれるものです。信仰の結婚は神様の祝福であり、神様の傑作品を鑑賞し、その喜びに包まれるものです。私たちの間に、信仰の結婚をする人々が増えますように祈ります。また、長崎にも多くの信仰の家庭が生まれますように祈ります。

13節をご覧ください。そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れて来られました。ところが、弟子たちは彼らをしかりました。忙しいイエス様に子どもたちは邪魔でしたし、何の目的もなく、近づいて騒ぐ子供たちを、弟子たちはしかりつけました。すると、イエスさまは言われました。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」天の御国はこどものように単純で、素直な人々のために用意されましたものです。複雑に頭を働かせる人に向いていません。信仰も、こどものようにならない限り、深まりません。天の御国も子どものようにならない限り入ることはできません。私が子供のようになりますように祈ります。大人になりすぎているところを、悔い改めて、今日も、子どもに近づき、彼らの上に手を置き、彼らと話をする者となりますように祈ります。

16節をご覧ください。ひとりの人がイエスのもとに来て言いました。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」後から見ればわかるように、彼は金持ちでした。彼は律法を気にして、それを守ろうと努力した人でした。しかし、彼は永遠の命への確信がありませんでした。彼は良いことをしてでも、永遠の命を手にしたい希望と望みがありました。それで彼は言いました。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」すると、イエスは彼に言われました。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」良いことをしたいのなら、神様に尋ねるべきであり、命に入りたいのなら、神様が示した戒めを守ることだ、と教えました。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」これを守ることで、命に入ることが赦されています。青年はこの話を聞くと、「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」と自信たっぷりの答をしました。しかし、イエスさまは彼に言われました。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」 イエスさまは彼が完全な確信を手にするために、完全な御国への約束を手にするためには、戒めを実行するよう求めました。自分の持ち物をすべて売り払って、貧しい人々に与え、そして、イエス様についてくる弟子になるよう、求めました。ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行きました。この人は多くの財産を持っていたからでした。イエス様はこの青年の願望、神の国への望みと夢を喜びました。しかし、金持ちが天の御国に入ることがどれだけ難しいのかを、改めて悟るきっかけとなりました。そこで、イエスさまは言われました。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言いました。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」だれも天の御国に入ることができないのでは、と疑問符を付けました。しかし、イエスさまは言われました。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」

私たち人間にはできるものがたくさんあります。ノーベル賞に輝く人たちは、人にできるものを極めた人たちです。彼らは素晴らしいです。しかし、信仰人になること、天の御国に入ること、完全な命を手にすること、弟子になること、永遠の命への確信を持つことなどは人にはできないものです。人によって強制されるのであれば、神によって破壊されます。しかし、人にはできないものを、神様は実行されます。人にできないもの、これが神にはできるのです。永遠の命の確信も、信仰の確信も、天の御国への確信も、喜びと賛美の心も、何よりも完全な平和と完全な幸せの秘訣を保つことも、人間にはできるものではありません。しかし、神にはできるのです。これが私たちの信仰であり、信仰がもたらす奇跡なのです。

そのとき、ペテロはイエスに答えて言いました。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」そこで、イエスは彼らに言われました。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。


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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23