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2009年長崎UBF、テサロニケへの手紙第一、その1 --> 問題紙

すべての信者の模範

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御言葉:テサロニケへの手紙第一、1:1-10
要 節:テサロニケへの手紙第一、1:7「こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。」

今日から約七回にわたってパウロの書信「テサロニケへの手紙」を勉強します。これがパウロの手紙の最初のものです。パウロは第2次伝道旅行で、コリントからテサロニケ人にあてた手紙を書いたと見ています。これが「テサロニケ人への手紙第一」です。テサロニケへの道のりは使徒の働き第17章に記録されているのですが、15章からスタートする第2次伝道旅行で、パウロはシラスと一緒にテサロニケに入り行動を共にします。テサロニケは約三週間ほどとどまりますが、主に、ユダヤの会堂を借りて、イエス・キリストの福音を述べ伝えていたのです。しかし、ユダヤ人の厳しい迫害により、テサロニケの信者たちによってベレヤに送られ、短い生活を送ったところとして知られています。しかし、テサロニケのユダヤ人たちはこのベレヤまで来て迫害を仕掛けるほどしつこく、それに伴うテサロニケの人々への牧者心情が強かったのです。仕方なくパウロ一行はペレヤからも退かれアテネに宣教の地を移しますが、パウロはアテネでも何度かテサロニケに帰ることを試みていたのです。しかし、サタンの妨害(テサロニケ第一2章18節)のため実現できず、パウロはアテネでテモテをテサロニケに派遣し、帰ってきたテモテからのテサロニケ教会の事情を聞くことになったのです。パウロはその便りを聞いて、感謝の気持ちを抑えることができず、手紙を書き上げるようになりましたが、これがテサロニケへの手紙、第一です。待ちに待っていた彼らとの書面での再会を、私たちはその文面から読み取ることができます。

I.パウロの宣教戦略 (1-4)

1節の御言葉をご覧ください。「パウロ、シルワノ、テモテから、父なる神および主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ。恵みと平安があなたがたの上にありますように。」この手紙はパウロ、シルワノ、テモテから、テサロニケ人の教会にあてたものでした。パウロはテサロニケの教会を指して、「父なる神および主イエス・キリストにある教会」と記録しています。テサロニケ教会の根源は神とイエス・キリストから出発したものでした。形としてはパウロの第二次伝道によるものでしたが、しかし、テサロニケ教会は神様、主・イエス・キリストの礎の上に立ち、その働く聖霊の導きを受ける教会でした。パウロはまた、テサロニケの教会が、生きておられ、今でも私達を導いてくださる「神様と主イエス・キリスト」により導かれる教会になることを願っていました。教会の主人は神様と主イエス・キリストであることを宣言しています。

2-3節をご覧ください。「私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。」ここで、私たちはパウロがテサロニケを開拓しながら感じ取った、またテモテを通して聞いたテサロニケ教会の姿勢を学びます。

第一に、信仰の働きです。

英語では、「your work produced by faith」と記録しています。信仰によって生みだした彼らの仕事であり、神様のプロジェクトを意味します。彼らは信仰によって仕事を始めていたことが分かります。今までは何も考えず働き、何も考えず仕事に取り組んでいたのですが、主イエス・キリストの福音を受け入れてから、彼らは信仰による動きを積極的にこなしていたのです。彼らの口からは「主が下さった今日の仕事をこなせますように」と言っていましたし、信仰によって新しいチャレンジを恐れませんでした。彼らは信仰によるプロジェクトが増えましたし、信仰によりスタートを切った仕事が増えました。今まで、彼らは食べるために働くようなものでした。働かなければ食えない世界の流れに、しょうもなく、食べるために働いていました。しかし、今の彼らは取り組むすべての仕事を、神様の中で、信仰により取り組みました。主イエス・キリストのお力に頼り始めました。祈りの中でスタートを切りしました。このように彼らには信仰によって始めた仕事が増えました。

第二に、愛の労苦です。

これも、英語をみると「your labor prompted by love」とあります。愛があるがために働く彼らの仕事でした。以前は無視していた愛の仕事が増えていました。以前はわざわざする必要のないものでした。余計なお世話でした。しかし、彼らは主イエス・キリストの聖霊の働きから生まれた「愛」により促された仕事が生まれました。神様はその模範をヨハネの福音書3章16節で次のように表現しています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」神様はリップサービスをされたのではなく、その息子をおあたえになるほどでした。それはこの世を愛されたためでした。愛には犠牲が伴います。テサロニケ教会の人々は自分を犠牲する愛の働きをみせしめていました。口だけではなく、愛のために犠牲をこうむっていました。

第三に、主イエス・キリストへの望みの忍耐です。

テサロニケ教会の信者たちは主イエス・キリストの望みのため、忍耐が必要でした。テサロニケ教会のある家庭は、パウロを受け入れたとして、ユダヤ人からの襲撃を受けました。裁判に訴えられ、罰金刑になりました。しかしながら、彼らは主イエス・キリストの望みのために、すべての苦しみと悲しみと痛みを耐え忍びました。

以上の三つの特徴は信者として実る信仰の正しい姿です。信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みのため生まれる忍耐、テサロニケ教会のこのような姿を、パウロは喜びましたし、手紙を書かずにはいられないほどの聖霊の働きがありました。信仰による働き、愛の犠牲、主イエス・キリストへの望みのために受ける忍耐を、私たちの信仰生活の中でも取り入れますよう祈ります。私はこのなかでの一つ引っかかるのがあります。愛の労苦です。私は口先だけではなく、自分を犠牲する愛の表現ができるよう、祈ります。

II.すべての信者の模範 (4-10)

4節をご覧ください。「神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。」パウロはテサロニケ教会の人々を指して、神に愛されている兄弟、と呼んでいます。その理由が何でしょうか。5節、「なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。」

パウロはテサロニケの信者たちが神に選ばれたものである、という確信がありました。理由は「力と聖霊と強い確信」のためでした。パウロはテサロニケの人々と聖書を勉強し、主イエス・キリストの福音をつたえましたが、その福音はパウロの口から発した言葉だけによるのではなく、力と聖霊と強い確信が伴いました。つまり、強烈な聖霊の働きがありました。言葉を述べ伝えるパウロの話に、人々の心は変わり、喜び、心配と暗闇が確信と光に変わりました。人々の心を変える力が働きました。人間の理性としては受け入れがたい、福音の言葉が、強烈な聖霊の働きにより力を発揮していました。そこでパウロは確信しました。「神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。」パウロは以降、コリントにおける宣教戦略を習いました。それは聖霊に頼る宣教作戦でした。コリント人への手紙第一、2章1節から5節のみことばにはこのように記されています。「兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。」と。

私は日本宣教の秘密が、このようなパウロの宣教戦略にあるのだと、悟ります。私たちは聖霊の働きを体験すべきです。私たちは聖霊の働きを待ち望み、聖霊の働きが私たちの上に臨在することを求めるべきです。私たちの口から、イエス・キリストと、その十字架を発することはもちろんのことですが、聖霊の働きがあることを願い続けるべきです。人々に言葉を発すること、キリストイエスの十字架をつたえること、これが私たちに課せられた使命ですが、パウロのように、聖霊の働きを切に願い求める祈りと謙遜な心が、まず整えられるべきです。まず、私が人々にイエス・キリストの福音を述べ伝えるとともに、述べ伝えた言葉が聖霊の働きによって強烈に力を発揮することを祈ります。実際に、この長崎でパウロの体験ができるように祈ります。12弟子が生まれ、3%の学生が学生時代、福音を聞き、信者であり弟子として生まれますよう祈ります。

6節をご覧ください。また、テサロニケの信者たちは多くの苦しみの中でも聖霊の助けにより、彼らを導いてくれた牧者パウロに従うことをあきらめませんでした。彼らは「マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範」になりました。かれらの信者の模範としての姿が何でしょうか。9-10節をご覧ください。「私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。」

これをみると、信者の模範は偶像を捨てることと、イエスが天から来られることを待ち望むこと、に尽きることが分かります。

信者は偶像を捨てるべきです。神以外に、聖霊の働き以外に、キリストの働き以外に、便りがあってはいけません。信者の頼りは神であり、聖霊です。頭も、知恵も、説得力ある言葉も、頼ってはいけないのです。聖霊にだけ頼るものが、信者の模範です。また、信者はやがて来られるイエス・キリストを待つ人です。待つ人とは座って、ごろごろしながら、あるいは寝ながら待つ人はいません。それは失礼です。イエス・キリストを待つとは、来られた時に、その喜びと賛美の声をともにするために、目を覚まして、待つべきです。その喜びに心を合わせるべきです。その喜ぶことを、実行することを意味します。テサロニケの信者たちは偶像を捨て、やがて来るイエス様を、今すぐにでも来てよいほど、しっかり待つ人となっていたのです。パウロは彼らのことを、信者の模範、としたのです。私たちがこの時代、信者の模範として選ばれたことを、感謝します。偶像を捨てて、やがて来られるイエス様を待つ姿勢を、維持することができますように祈ります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23