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2009年長崎UBF、マルコの福音書、その27 --> 問題紙

契約の血

Messenger:MSN.David

御言葉:マルコの福音書14:1-31
要 節:マルコの福音書14:24節「イエスは彼らに言われた。『これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。』」

今日の御言葉はユダヤ人の三大祭りの一つとして大切に守ってきた「過越の祭りと種なしパンの祝い」を迎える人々の様子を描いています。特に、過越の祭りと種なしパンの祝いの深い意味を教えています。今日の御言葉を通して、過越の祭りと種なしパンの祝いの意味を知り探り、イエス・キリストの十字架の死を改めまして悟り、感謝する時間となりますように祈ります。

I.過越の祭りと種なしパンの祝いの準備(1-18)

1節をご覧ください。さて、過越の祭りと種なしパンの祝いが二日後に迫っていました。過越の祭りと種なしパンの祝いとは言葉通り、ユダヤの人々が奴隷として生きていたエジプトの時代、同じく神様が裁きの対象である自分たちを、子羊の血を持って過越されたことを感謝する日です。一週間の間、柔らかいパンを食べず、エジプト時代の苦しかった時を思い出し、現在の恵まれたことを感謝し、神様の救いと臨在を賛美するお祭りです。特に、神の教会を見守る祭司長、律法学者たちにとってこの祭りは聖なる、特別な祭りの日です。

マルコはこのようなお祭りを迎える祭司長と律法学者たちの心をどのように描いていますか。1節の後半部をご覧ください。「祭司長、律法学者たちは、どうしたらイエスをだまして捕え、殺すことができるだろうか、とけんめいであった。」とあります。彼らは教会を代表し、教会の聖書を誰よりもよくわかり、深く勉強している人々でした。神様は彼らにご自分のすべてを委託し、お任せしていました。その彼らは神様の過越しの恵みを示し、種なしパンを進んで食べ、神様の御恵みを明かしすべきでした。しかし、マルコは彼らの心の動きについて、「祭司長、律法学者たちは、どうしたらイエスをだまして捕え、殺すことができるだろうか、とけんめいであった。」と表現しています。

2節をご覧ください。もう一つの彼らの動きについて、マルコは、「祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから。」と話していたのだと、記録しています。私たちは肩書がその人を代表するかのように思う場合があります。宗教指導者ですから、信仰が強いとか、律法学者ですから聖書の教えには精通していると考えたりします。しかし、肩書がその人を代表としないことをマルコは告発しています。むしろ、その反対が多いです。宗教指導者でありながら人々をだまし取って捕まえ、殺す計画をしています。神様の教えをよくわかっている律法学者なのに、神様を恐れるよりも民衆を恐れ、すべての行動の基準に自分たちの都合と人々の動きを置いています。見え方は大したものではありません。肩書はむしろ、人々を裏切る場合が多いです。祭司長と律法学者のことを、マルコは代表的な人物として告発しています。

マルコはその変わり、神に受け入れられる人々を記録して残しています。3節をご覧ください。イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたときでした。彼らと食卓についておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注ぎました。愚かな行為でした。当時、貴重なお客さんが家を訪問すると、家の主人はナルド油のような香水を頭に一滴、あるいは二滴ほど注ぎ、貴賓として取り扱いました。女はイエス様のことを貴賓として扱っていました。しかし、女は一滴、二滴には済まされないと考えたのか、小さい壺の口から出てくるナルド油に気が済まず、壺を割り、頭の上から注ぎだしました。家じゅうは香水の匂いで充満し、貴賓として扱われるよりむしろイエス様への迷惑でした。しかも、高価な香水が流れ込み、服を汚しました。食事会の雰囲気を壊しました。

4-5節をご覧ください。「すると、何人かの者が憤慨して互いに言いました。『何のために、香油をこんなにむだにしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。』三百デナリとは今でいえば三百万円以上の価値を持っているものでした。どれだけ高価なものであったのかがわかります。この高価な香水を頭から注ぎだした女の姿はだれが見ても、無駄な行為で、おしかりに値するものであることは容易に判断できます。マルコは5節で「人々はそうして、その女をきびしく責めた」としています。女の行為は人々によって批判される行為でした。女は少々状況判断に鈍く、頭を働かせるのに不得意でした。しかし、彼女の行為を、イエス様はどのように受け止めておられたのでしょうか。

6-9節をご覧ください。すると、イエスは言われました。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」イエス様は女の行動を、人々の批判とは正反対に、ご自分の埋葬の準備をしたのだと、称賛してくださいました。イエス様は女の心を見ておられました。イエス様は女の心を称賛されました。イエス様は私たちの心を見る方、私たちの外見よりも心を大事にされる方です。

旧約聖書の中の、霊的指導者サムエルは、イスラエルの国のリーダを建てようとしたときに、エッサイの末子で羊飼いとして育った、親の推薦すら受けられないダビデを、国のリーダに立てることを躊躇ってしていました。背が高くハンサムなサウルのことが頭から消え去りませんでした。その時、神様はサムエルにこう言われました。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」

人々はうわべを見ます。形を見ますし、態度を見ます。態度が悪人を、私はなかなか受け入れがたいものです。しかしながら、サムエル書I、1章16節にははっきりと記録されています。「人はうわべを見るが、主は心を見る。」どのような人が主の祝福を招きますか。主に心をささげる人です。女のように自分にできることを、無理をせず、一生懸命に取り組む人を祝福されます。その時、神様はその行為を喜びとされます。祝福されます。私たちは無理しなくても、できることを神様にささげるとき、神様の祝福の中にすむことができます。無理してでも、カッコつける仕事をしようとするのが人知ですが、イエス様は言われます。「この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。」来年4月、長崎は礼拝をささげて20周年になります。大げさな計画を建てたい気持ちを抑えて、私たちにできることをして、神様の埋葬を用意することができますように祈ります。私たちが生きている人生の中でも、大げさなことをして神様を喜ばせようとするより、自分にできることをし、神様の埋葬を用意する女となりますように祈ります。

II.過越しの食事(10-26)

10節をご覧ください。ところで、イスカリオテ・ユダは、十二弟子のひとりであるが、イエスを売ろうとして祭司長たちのところへ出向いて行きました。祭司長たちはこれを聞いて喜んで、金をやろうと約束した。金をやろうと約束したとは、イスカリオテ・ユダの目の色からもわかる要求でした。そこでユダは、どうしたら、うまいぐあいにイエスを引き渡して金を受け取ることができるかと、ねらっていました。

12節をご覧ください。種なしパンの祝いの第一日、すなわち、過越の小羊をほふる日に、弟子たちはイエスに言いました。「過越の食事をなさるのに、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか。」そこで、イエスは、弟子のうちふたりを送って、こう言われました。「都にはいりなさい。そうすれば、水がめを運んでいる男に会うから、その人について行きなさい。そして、その人がはいって行く家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする、わたしの客間はどこか、と先生が言っておられる。』と言いなさい。するとその主人が自分で、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれます。そこでわたしたちのために用意をしなさい。」一方ではイエス様を売ろうとしていた弟子たちがいましたが、もう一方の弟子たちは、イエス様と過越の食事の用意をしました。イエス様の弟子は統一性がなく、イエス様の弟子養成は失敗しているかのように見える場面でした。イエス様はこれを持って捕まえられ、十字架に付けられ、死なれるのです。イエス様はまさしく、弟子に裏切られ、死を迎える運命に近づいていたのです。

しかし、17節をご覧下さい。夕方になって、イエスは十二弟子といっしょに食事の場所に来られました。そして、みなが席に着いて、食事をしているときに、イエスはこう言われました。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」これは驚きの発言でした。考えられないものでした。あってはいけないものでした。絶対避けるべき絶命の瞬間でした。19節を見ると、弟子たちは悲しくなりました。これほど悲しいことがあり得るのかと、ペテロは叫びながら泣いたことでしょう。弟子たちは言いました。「まさか私ではないでしょう。」と。かわるがわる次から次へと弟子たちはイエスに言いだしました。しかしながら、イエスははっきりとこのことをお話しされました。「この十二人の中のひとりで、わたしといっしょに、同じ鉢にパンを浸している者が私を裏切ります。確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」

イエス様はイスカリオテ・ユダの悔い改めを求められました。イエス様はその時になったとき、弟子たちの動揺を避ける意味でも、はっきりとこのことを明かされました。イエス様は言われました。「確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」「The Son of Man will go just as it is written about him. 」イエス様は確かに、イスカリオテ・ユダの手によって祭司長たちに渡され、死なれましたが、しかし、それはイスカリオテ・ユダの計画ではなく、ご自分について書かれた聖書の預言の通りであったのです。ユダはその堂々と流れる神様の歴史に用いられる道具として、悲しみにも、裏切るようなものとして使われてしまったのです。

神様の歴史からすれば、人間は堂々たる神様の御業の中に、一瞬のうち使われる道具にすぎません。私たちは信仰の先祖たちのように、神様の喜ばす道具としても持ちられることができますが、下手すると、ユダのように、悲しみ深い道具としても利用されがちな存在です。人間は弱く、常に、吠える獅子のようなサタンの誘惑にさらされた存在です。どんなに強い人でも、どんなに信仰深いひとでも、サタンの誘惑に落とされると抜け出ることができません。一人として裁きの道を歩まざるをえません。人間は弱く、奮い立つ力のないものです。このような私たちがどのようにして、政令に導かれることができますか。サタンの誘惑を勝ち得ることができますか。

22-25節をご覧ください。「それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われました。『取りなさい。これはわたしのからだです。』また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられました。彼らはみなその杯から飲みました。イエスは彼らに言われました。『これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。』まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」私たちがサタンの誘惑を勝ち得る力は、イエス・キリスト契約の血があるときです。体を食べ、血を飲むときです。これは教会生活を意味するものであり、聖書勉強を続けることを意味するものです。常に、イエス・キリストの十字架の信仰を心に保つことを意味します。その時に、私たちは勝利を飾ることができます。十字架は確実なお約束です。十字架の血の力は勝利の約束の保証です。契約の標識です。私たちがどのような場合においても、サタンの誘惑に落とされず、聖なる神様のものとして生きる確信を保てるのは、この契約の血、十字架の死、を心に留めておくことです。『これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。』十字架の勝利を確信し、十字架の力を持って、サタンの誘惑を勝ち得る人たちとなりますように祈ります。

III.祈りを求める(27-31)

マルコは、イエス様とその一行の行動について、サタンに勝てる知恵として、オリーブ山に出かけていく様子を示しています。26節、そして、賛美の歌を歌ってから、みなでオリーブ山へ出かけて行った、とあります。そしてイエスは、弟子たちに言われます。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる。』と書いてありますから。」誰一人、つまずきから勝てる人がいないことを示しています。ぺペテロのような頑固な心ではなく、自分もつまずきやすいものであることを認め、神様に恵みを求めるべきです。祈りが求められています。勝利の秘訣は神にあります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23