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2009年長崎UBF、マルコの福音書、その21 --> 問題紙


エルサレムへ勝利の入城

Messenger:MSN.Caleb

御言葉:マルコの福音書11:1-19
要 節:マルコの福音書11:9、10「そして、前を行く者も、あとに従う者も、叫んでいた。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。」

今日の御言葉は、イエス様がエルサレムに入城される際に起こったお話です。イエス様は多くの人々から大歓迎を受けましたが、立派な白馬に乗って入城せず、小さなろばの子に乗って入城されました。イエス様は謙遜な主であり平和の王としてこの世に来られました。この時間、心からイエス様を真の王、平和の王として迎え入れることができるように祈ります。また、私達の人生に必要なすべてを用意して下さる神様を信じ、今の私たちにイエス様が願っておられることは何かを深く悟り、実を結ぶ人生を送ることができますように祈ります。

主の御名によって来られる方(1-11)

1節をご覧ください。「さて、彼らがエルサレムの近くに来て、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づいたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、」とあります。ベテパゲとベタニヤはエルサレムから約3キロ離れた村です。ベタニヤはイエス様が愛しておられるラザロ、マルタ、マリヤが住んでいるところです。そこでイエス様はふたりの弟子を使いに出しました。

2、3節をご覧ください。「言われた。「向こうの村へ行きなさい。村にはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。もし、『なぜそんなことをするのか。』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます。』と言いなさい。」イエス様は、ふたりの弟子たちにろばの子を連れてくる使命を与えられました。なぜ、ろばの子を連れて来るように言われたでしょうか。それはゼカリヤ預言者によって預言されていた言葉を成就するためでした。ゼカリヤ書9章9節には「見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗ってこられる。それも雌ろばの子の子ろばに」とあります。イエス様はその預言の御言葉に従ってろばの子に乗ってエルサレムに入城しようとされました。そこで、イエス様はふたりの弟子を行かせて、ろばの子を連れて来るように命じられました。そして、「もし、『なぜそんなことをするのか』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます。』と言いなさい。」と言われました。

しかし、これはいくらイエス様の命令といっても従いづらいものです。どこの国にも窃盗罪という法律があります。窃盗罪とは、他人の物を故意に断りなく持っていくことや使用することを禁止することであると刑法235条に定められています。もし違反して窃盗を犯した者は10年以下の懲役、50万円以下の罰金に処せられます。イエス様の言うとおりにろばの子を勝手に連れてくるのを主人に見られたら、現行犯として逮捕されるのに違いありません。

しかし、ここで私達はイエス様がどんな方であるかについて深く考える必要があります。イエス様は「もし、『なぜそんなことをするのか』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます。』と言いなさい。」と言われました。この言葉にはこの世のすべてのものは、イエス様に属していることを示唆しています。イエス様はこれまで、ご自分を指して「人の子」と言われました。イエス様は人の子として、謙遜に弟子たちに仕え、助けが必要な多くの人たちの見方となってくださいました。しかし、これからは「主」としてご自分を表されます。実際、イエス様は天と地をお造りになった創造主です。この世のすべてのものはイエス様のものなのです。命を含めて私達はそれを預かったものとして、良く管理すべきです。日本では自分の夫のことを主人と言います。どんな主人に出会うかによって、その人生が大きく変わります。会社も国もどんな指導者に治められるかによって大きく変わります。今日は衆議院総選挙日です。いつもより今回の選挙には国民の関心が高まっています。どうしてでしょうか。長引く不況の中で今の状況を変えてくれる指導者を求めているからです。当時、ローマの植民地であったイスラエルの民たちは、凶暴な政治家と無情な宗教指導者の下で、苦しめられていました。彼らはこの苦しみから解放してくれるキリストを切実に求めていました。イエス様は彼らを罪と死亡の勢力から救うために、彼らの主として、王としてこの世に来られたのです。このイエス様を私達の主人として、王として迎え入れるとき、私達は真の幸せな人生、実る人生を送ることができます。弟子たちは、不安はあったものの、イエス様の言葉に従って出かけてみました。すると、どんなことが起こりましたか。

4-6節をご覧ください。すると、表通りにある家の戸口に、本当にろばの子が一匹つないであったのではありませんか。弟子たちはそれをほどきました。すると、そこに立っていた何人かが言いました。「ろばの子をほどいたりして、どうするのですか。」その瞬間弟子たちはドキッとしました。しかし、弟子たちは落ち着いてイエス様の言われたとおりを話しました。するとなんと、彼らはなんの文句も言わず、快く承諾してくれました。弟子たちは驚きました。主の御言葉に従ってみると、なんのトラブルもなくすべてが備えられていました。ろばの子も、人の心も備えられていたのです。ここで、私たちは「神様は備えてくださる方である」ということが分かります。旧約聖書のアブラハムも「神様は備えてくださるお方である」ことを体験しました。創世記22章を見ると、神様はアブラハムに仰せられました。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」百歳になってやっと得られたひとり子、愛する息子イサクを全焼のいけにえとしてささげるように命じられたのです。それは、いくら信仰がある人だとしても「はい。分かりました。」と言えない命令でした。しかし、アブラハムは神様の御言葉に従いました。翌朝早く息子イサクを連れて、モリヤの地に行きました。何も知らない少年イサクは父アブラハムに話しかけて言いました。「お父さん。火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊はどこにあるのですか。」アブラハムは、胸が裂けるような痛みを感じました。しかし、アブラハムは答えました。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえのための羊を備えてくださるのだ。」アブラハムは神様が親しく、羊を備えてくださると信じたのです。その信仰のとおり、神様は主の使いを遣わして雄羊を備えてくださいました。そこで、彼は雄羊を取り、自分の子の代わりに全焼のいけにえをささげました。そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけました。それは「主の山には備えがある」という意味です。本当に主はアドナイ・イルエ、すべてを備えてくださるお方です。私たちが行く所々に主の備えがあります。

私は今月から職場の異動があり、未知の鳥栖に単身赴任することになりました。急に決まったものですから、まず住まいをどうするか悩まなければなりませんでした。SBCが近づいてきているのに、入ったばかりで休みが取れるかという心配もありました。しかし、神様はこの状況の中で祈るように助けてくださいました。すると入所する直前に研究所から連絡が入りました。7月31日付けで所内のゲストハウスを退去する人がいますので、8月1日からゲストハウスが使えるという連絡でした。8月3日の朝、出勤してみるとゲストハウスの入り口には自分の名前がすでに貼ってありました。またその日、私からは何も言ってないのに、事務の人から9月末まで必ず3日間夏休みを申請してくださいと言われました。私はあまりにも具体的に祈りに答えてくださる神様を体験しびっくりしました。この神様がこれからの研究所の生活においても、また将来の事においても私と共に歩まれ、すべてを備えてくださる確信を持つようになりました。何よりも私はイエス様が私の主、この世のすべてを主観される全能なる神様であることを改めて受け入れることができました。このイエス様が来年度からも私を日本宣教、世界宣教の御わざに用いてくださり、そのための相応しい環境を作ってくださることを信じます。神様は私たちの人生に必要なものを備えておられます。日ごとの糧も、相応しい結婚の相手も、職場も、老後の生活も備えておられます。主を信じる者には主の備えがあるのです。ですから、私達は心配したり、騒いだりするより、信仰を持って私達の主イエスキリストに祈るべきです。私たちがアブラハムのようにアドナイ・イルエの神様、私たちに必要なすべてを備えてくださる神様を体験することができますように祈ります。

さて、ろなの子はイエス様のエルサレム入城に用いられるようになりました。ろばにとって本当に光栄な事です。私達の人生も主がお入用な時には、喜んで従うべきです。イエス様は時には私が持っている才能を、私の夢を、私の計画をお入用にされます。私達が主の主権を信じ、まず第一に神の国とその義とを求めるとき、主は私達の人生を大きく祝福してくださいます。7、8節をご覧ください。ろばの子をイエス様のところへ引いて来た弟子たちの心はどうだったでしょうか。彼らは不思議な出来事を通して主は備えられる方であることを悟りました。イエス様が言われたことには間違いがなく、すべてがそのとおりになることを体験しました。この体験を通して彼らの心には恐れが消え去り、喜びと感動に満たされました。彼らは自分たちの上着をろばの子の上に掛けました。イエス様はそれに乗られました。すると、多くの人が、自分たちの上着を道に敷き、またほかの人々は、木の葉を枝ごと野原から切って来て、道に敷きました。これは、イスラエルでは王が立てられる時に行なわれていた儀式の一つです(Ⅱ列王記9:13)。

9、10節をご一緒に読んでみましょう。「そして、前を行く者も、あとに従う者も、叫んでいた。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。」「ホサナ」とは「ああ、主よ、私たちをお救いください」という意味です。このイエス様への歓迎は詩編118篇25節と26節にあります。前を行く人々が、「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。」と歌うと、あとに従う人々は、「祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。」と歌います。このようにして、イエス様は王として迎え入れられ、御言葉を成就されました。イエス様は主の主です。王の王です。イエス様だけが私たちを罪と死の勢力から解放してくださる唯一の主です。私たちがイエス様を救い主、勝利と平和の王として迎え入れ、幸せな人生、喜び溢れる人生を送ることができますように祈ります。

Ⅱ.宮をきよめられたイエス様(11-19)

11節をご覧ください。イエス様はエルサレムに着き、宮にはいられました。そして、すべてを見て回った後、時間ももうおそかったので、十二弟子といっしょにベタニヤに出て行かれました。12、13節をご覧ください。翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエス様は空腹を覚えられました。ちょうどその時、葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれました。いちじくは葉が茂る時にはすでに実ができる特徴を持っていますので、イエス様と弟子たちは大きな期待をしていたかも知れません。しかし、近づいてみると葉の他には何もないのに気づかれました。葉っぱだけが茂る状態になって実のない季節外れの変ないちじくの木でした。せっかく足を運んで来たのに、イエス様も相当怒ったようです。イエス様は、その木に向かって言われました。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように」。イエス様は実のないイチジクの木を呪われました。20節を見ると、このいちじくの木は翌日根まで枯れていました。

それでは、なぜ、イエス様はこのイチジクの木を呪われたのでしょうか。空腹を満たすことができなかったから復讐したのでしょうか。聖書では、よくイスラエルがいちじくの木にたとえられています。イスラエルは、実を結ぶ存在として神様に選ばれました。神様が彼らを祝福し、救い出した目的は実を結ぶためでした。ところが、イエス様がご覧になった時、イスラエルは実を結んでいませんでした。葉は茂っているけれども、実のないいちじくの木のようだったのです。この後、宮の状態をみると、当時のイスラエルの霊的な状態がどういうものであったのかが分かります。

15、16節をご覧ください。「それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮にはいり、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。」とあります。イエス様が宮に入られた時には、賛美の歌声、祈りの声、聖書勉強の姿を期待されたはずです。しかし、イエス様が宮に入られると、商売する人たちの声が聞こえてきました。「いらっしゃい。いらっしゃい。」また、「くるるる、くるるる」と鳴いている鳩の声がしました。この状況を目にされたイエス様は憤りを覚えられました。イエス様は宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒しました。また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しになりませんでした。柔和なイエス様でも、神の家を汚す行為には、絶対妥協を許しませんでした。

そして、宮のあり方について教えてくださいました。17節をご一緒に読んでみましょう。「そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」

イエス様は、神の宮が、祈りの家であることを、聖書を用いて教えられました。宮は今の教会で、人と神様が交わる祈りの場所です。ですから、教会はいのちの御言葉と祈りと賛美が満ち溢れているところにならなければなりません。ところが、当時の宗教指導者たちは商売のために熱心になっていました。聖なる宮を強盗の巣にしてしまったのです。

イエス様は、宮がすべての民の祈りの家として呼ばれることを願われました。そうして、人々が宮に出入りしながら御言葉を聞いて悔い改め、新しい人に生まれ変わることを望まれました。神様が私達に立派な祈りの場所をくださったことを感謝します。たまに虫も現れますが、これからは内外的にピュアな環境を守り、いつも立ち寄って祈り、賛美する神様から喜ばれる教会として用いられますように祈ります。

さて、宮とは目に見えるものだけを指すものではありません。キリストを信じる者は、神様の御霊が住まわれる神様の宮となります。パウロは言いました。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。(1コリント3:16)」聖霊が私たちののうちに宿っておられます。私たちのからだを、祈りの家にするか、それとも強盗の巣にするかは、私たち次第です。どうか、私たちの心が不敬虔、この世の欲などに満たされる強盗の巣ではなく、心をきよめて、いつもピュアに生きることができますように祈ります。この秋、私たちの教会が祈りの家として、特に長崎大学の若者たちが自由に出入りして祈り、神様を賛美する御業がありますように祈ります。

結論的にイエス様は私達の王としてこの世に来られました。イエス様を私の主、私の王として迎え入れるとき、イエス様は私たちのために備えられたベストの道に導き入れてくださいます。イエス様は私達が実る人生、祈る人生を送ることを切に願っておられます。また私達の教会が祈りの家、賛美の家、言葉の恵みがあふれる家になることを切に願っておられます。私たちがイエス様を私たちの心の真中に真の王として迎え入れて罪と戦い、祈りをもって毎日勝利の生活、実る生活を送ることができますように祈ります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23