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2009年長崎UBF、マルコの福音書、その15 --> 問題紙


何か見えるか

Messenger:MSN.David

御言葉:マルコ8:1-26
要 節:マルコ8:23「イエスは盲人の手を取って村の外に連れて行かれた。そしてその両眼につばきをつけ、両手を彼に当ててやって、『何か見えるか。』と聞かれた。」

今日の御言葉は、イエス様が七つのパンと少しばかりの魚で、四千人を食べさせる事件を記録しています。また、それに関連して弟子たちに言われています。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」また、言われます。「なぜ、パンがないといって議論しているのですか。まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。わたしが五千人に五つのパンを裂いて上げたとき、パン切れを取り集めて、幾つのかごがいっぱいになりましたか。」今日は、このような御言葉を中心に、御言葉の意味を探ることができますよう祈ります。

I. 七つのパン、少しばかりの魚(1-13)

7章31節を見ると、イエスはツロの地方を去り、シドンを通って、もう一度、デカポリス地方のあたりのガリラヤ湖に来られました。イエス様は耳が聞こえず、口のきけない人を直して下さいました。深く嘆息して、「エバタ」「開け」と叫びました。イエス様の祈りは深い嘆息によるものでした。深い嘆息があるところに、祈りがあり、深い嘆息があるところに、神様への求めがあり、深い嘆息があるところに、神様の御恵みが満ち溢れるのです。

1節の御言葉をご覧ください。そのころ、また大ぜいの人の群れがイエスの所に集まっていましたが、食べる物がありませんでした。イエスは弟子たちを呼んで言われました。「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。空腹のまま家に帰らせたら、途中で動けなくなるでしょう。それに遠くから来ている人もいます。」

イエス様のお話の中に、そのお話の発端は「かわいそうに、、、」という言葉でスタートしています。深い嘆息です。かわいそうに、とは彼らの立場に同情することを意味します。彼らの立場を理解することを意味します。群衆の立場を理解し、その苦しみをご自分の苦しみの一つとして共有することを意味します。イエス様は彼らに食べ物がなくなったこと、食べるものがないこと、これからそのまま帰らせたら、途中、動かなくなる人が続出することを見込んでいます。耳が聞こえない、口がきけない人の痛みを共有したように、食べ物がない群衆の痛みを、共有しています。痛みを共有する心、これが常にイエス様がお持ちの御心です。今回も、イエス様は群衆の、食べ物がないことについて、その痛みに深い哀れみを持っています。イエス様は群衆を何とかして、食べさせたい気持ちになっていたのです。

しかし、4節を見ると、弟子たちは答えました。「こんなへんぴな所で、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができましょう。」彼らも群衆を食べさせたい気持ちがあったようでした。しかし、彼らの前には「へんぴなところ」という問題、「どこからパンを手に入れるのか」の問題、また、パンを手に入れても人々に「十分食べさせる」のには簡単ではないことに気付いていたのでした。弟子たちは食べさせたい気持ちより、付随した心配事が先走っていました。食べさせたい気持ちはやまやまですが、それに伴う心配事が頭を悩ませていました。その時に、イエス様は彼らになんと言われますか。

5節をご覧ください。「すると、イエスは尋ねられた。『パンはどれぐらいありますか。』」イエス様は心配事より、食べさせるためのパンを探しておられました。弟子たちは心配が先でしたが、イエス様はパンを探しておられました。弟子たちは場所がへんぴだし、人数も多いし、資金もないし、というようなことが先に浮かび上がっていましたが、イエス様は食べさせるパンはどれぐらいあるのかに関心がありました。簡単にいえば、弟子たちはないもので心配していましたが、イエス様はあるものを探しておられました。弟子たちはないもので頭を抱えていましたが、イエス様はあるものを探すのに精いっぱいでした。弟子たちは心配していましたし、イエス様は働いていました。イエス様は弟子たちが、心配するより、今できることを探すようにと言われました。「パンはどれぐらいありますか。」弟子たちは、「七つです。」と答えました。

すると、イエスは群衆に、地面にすわるようにおっしゃいました。それから、七つのパンを取り、感謝をささげてからそれを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配りました。また、イエス様は魚も探して、少しばかりではあったが、そのために感謝をささげてから、これも配るように言われました。8節をご覧ください。「人々は食べて満腹した。そして余りのパン切れを七つのかごに取り集めた。」なんと、人々はおよそ四千人でありました。

私たちはここで、何を学びますか。

ひとつは、イエス様のあるもの探しです。

弟子たちはないもので、心配していました。しかし、イエス様はあるものを探しました。弟子たちは解決できない自分の姿に絶望していましたが、イエス様は頼りがいのある神様への深い信頼感がありました。イエス様は言われました。「パンはどれぐらいありますか。」

もう一つは、弟子たちの従順です

弟子たちは心配事がありました。弟子たちはこんなへんぴなところで、どこからパンを手に入れるのか心配していました。人数も半端ではないことを心配していました。彼らはいろんな心配事に心がとらわれていました。しかし、彼らはイエス様の「パンはどれぐらいありますか」と言われる言葉に、パンを探しました。パンの数を数えました。あるものを、イエス様のおことばに沿って、確認しました。そしていいました。「七つです」7節を見ると、彼らはそれに魚も少しばかりではありますが、探してきました。彼らはイエス様の「パンはどれぐらいありますか」とのお話に、積極的に従順しました。イエス様は彼らのこの素直の心を喜びました。そして、群衆を座らせて、神様に祈りを捧げました。群衆のために、パンが七つあることを、感謝しました。少しばかりの魚があることに感謝しました。

イエス様の前向きの考え、弟子たちの従順は奇跡を生みました。人々は食べて満腹しました。そして余りのパン切れを七つのかごに取り集めました。それからイエスは、彼らを解散させられました。そしてすぐに弟子たちとともに舟に乗り、ダルマヌタ地方へ行かれました。

11節をご覧ください。ダルマヌタ地方についたとき、パリサイ人たちがやって来て、イエスに議論をしかけ、天からのしるしを求めました。イエスが天からのしるしを示すかどうかをためそうとしたのでありました。天からのしるしとは奇跡のことで、ありえないようなことを、彼らの目の前で行ってほしい、ということでした。それに対して、イエスは、心の中で深く嘆息して、こう言われました。「なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。まことに、あなたがたに告げます。今の時代には、しるしは絶対に与えられません。」

イエス様は今の時代が、しるしだけを求めていること、しるしだけを求めている世代には絶対、神様のしるしを与えられない、と宣言しておられます。しるしはしるしを求めるところで起こるのではありません。しるしは神様の御心にかなうよう、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてイエス様の御言葉に従順するところで起こりえるものです。奇跡は神様のものであり、神様からのしるしであり、神様の御心にかなうところで実現されます。人間の欲望や人間の願いに沿う形に起こるものではありません。

イエスは彼らを離れて、また舟に乗って向こう岸へ行かれました。私たちがイエス様に従順し、イエス様を迎え入れるところに、天からのしるしがあります。しるしを求めるだけでは、しるしは離れていくものです。

II. 心配は無用(14-21)

14節をご覧ください。弟子たちは、舟に乗っていましたが、パンを持って来るのを忘れ、舟の中には、パンがただ一つしかありませんでした。彼らはそれで心配していました。そのとき、イエスは彼らに命じて言われました。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」これは、パリサイ人の偽善と天からのしるしを求める癖を指しており、ヘロデの情欲を気を付けるように、という意味でした。しかし弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論し始めました。イエス様がパン種の話をするのには、パンを持ってきてないからだと、勝手に勘違いしていました。彼らの中には食べるパンの問題が、大きいものでした。それに気づいてイエスは言われました。「なぜ、パンがないといって議論しているのですか。まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。わたしが五千人に五つのパンを裂いて上げたとき、パン切れを取り集めて、幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らが「十二です。」と答えると、「四千人に七つのパンを裂いて上げたときは、パン切れを取り集めて幾つのかごがいっぱいになりましたか。」と質問しました。彼ら「七つです。」と答えると、イエスは言われました。「まだ悟らないのですか。」

私たちはこのようなイエス様の厳しいお叱りを、聖書のどこからも見つけ出すことができません。マルコはイエス様の声を、生々しく伝えるために、当時の様子を隠すことなく、すべて記録しているのです。「なぜ、パンがないといって議論しているのですか。まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。わたしが五千人に五つのパンを裂いて上げたとき、パン切れを取り集めて、幾つのかごがいっぱいになりましたか。四千人に七つのパンを裂いて上げたときは、パン切れを取り集めて幾つのかごがいっぱいになりましたか。まだ悟らないのですか。」 イエスの怒りは相当のものでした。この言葉に込められるイエスの弟子たちへの願いが何でしょうか。

それは食べる問題は神様が解決して下さることです。

神様がイスラエルの民をエジプトの奴隷から、お約束に基づいて選ばれた種族として招待された時、彼らは最初、食べる問題が一番の心配事でした。つまり、神の民として御呼びになった時、食べる問題が最初にぶつかる問題であることでした。彼らの不平不満の根源には、肉釜の隣で主人の食卓のため準備した肉を心配することなく食べていたこと、それが今やできなくなっていたことでした。彼らは神様がすべての食べ物、日ごとの糧の問題を解決して下さることを、先ず信じるべきでした。神様は彼らを一週間もすれば届けるカナンの地を、40年も伸ばして、一つしっかり教えたことがありました。それは日ごとの糧の問題は、神様が解決することへの信仰でした。

イエス様は弟子たちに、食べる問題は神様が解決して下さる、という確実な信仰を求めておられました。また、何度も繰り返し、神様の奇跡を体験させながら、その一つの信仰を植え付けられました。それは信者にとって一番基本となる信仰だったからでした。

今でも私たちは、食べる問題に心配したり、これからどうやって食べていくのか、心配したりすることがあります。しかし、そのような心配は無用です。マタイの福音書6章31節から34節には次のような言葉があります。「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」

イエス様は弟子たちが食べることで心配することをやめて、今、神様が私に与えて下さったことを、一生懸命取り組むこと、これが私たちに求められた仕事です。

III. 何か、見えるか(22-26)

22節をご覧ください。彼らはベツサイダに着きました。すると人々が、盲人を連れて来て、さわってやってくださるようにとイエスに願いました。23節を見ると、イエスは盲人の手を取って村の外に連れて行かれました。これはイエス様が盲人に対して特別な配慮をしていたことを意味します。イエス様は彼をお連れして、そしてその両眼につばきをつけました。また、両手を彼に当ててやりました。両手をあてたとはお祈りをした、願い事をした、神様に恵みを求められたことを意味します。イエス様は神様の恵みが与えられることを願って、彼に言われました。「何か見えるか。」

「何か、見えるか。」

これはイエス様の切なる願いです。これはイエス様の私たちへの願いであり、盲人だけでなく、その弟子たちの霊的な目が開かれることを切に願う声です。「何か、見えるか」と聞かれると、彼は、見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます。」と答えました。イエス様は人を、木のように勘違いしていることに満足できませんでした。25節を見ると、「イエスはもう一度彼の両眼に両手を当てられた」と記録しています。イエス様の祈りは切なるものでしたし、イエス様の願いは懇切なものでした。イエス様は彼がはっきり見ることを願いました。かすかな形で見ることをお求めにならず、何となく理解できることで満足されず、はっきり、人を人として見るところまで助けました。祈りました。懇切に神様に求めました。彼もイエス様の努力に関心をしていたようで、見つめる努力をしました。努力を重ねました。彼が見つめていると、すっかり直りました。すべてのものがはっきり見えるようになりました。そこでイエスは、彼を家に帰し、「村にはいって行かないように。」と言われました。

イエス様は中途半端な見え方で満足できません。イエス様は見ることを、はっきりと見えるまで努力を重ねる方です。イエス様は結果が出るまで、努力を重ねられる方です。しっかり結果が見えるところまで祈りをやまない方です。イエス様は弟子たちの霊的な目も、はっきりと見るまで、繰り返し教え、彼らが異邦人のようにではなく、パリサイ人のようにではなく、ヘロデのようにではなく、イエス・キリストの弟子のように、イスラエルの民のように、選ばれた種族のように、王である祭司のようになるまで、努力を重ねられる方です。それは神様の願いであり、それは夢ではなく、重なる努力によって手に入れられる神様の祝福だからです。

私たちがこの時間、キリスト・イエスの弟子になるまで、諦めず、神様の御声に従順をささげることができますように祈ります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23