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2009年長崎UBF、マルコの福音書、その2 --> 問題紙


人間をとる漁師にしてあげよう

Messenger:MSN.David

御言葉:マルコ1:14-28
要 節:マルコ1:117「イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。』」

イエス様は今日の御言葉で、どのようにして神様の御業を始められたのか、どのようにして弟子たちを得られたのか、どのようにして悪霊に取りつかれた人を助けられたのか、教えています。今日の御言葉を勉強しながら、神様のメッセージを耳にすることができますように祈ります。

I. イエス様のはじめてのメッセージ(14-15)

14-15節をご覧ください。「ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。』」ヨハネが捕らえられました。ヨハネがユダヤの王・ヘロデの行為を批判したからでした。ヘロデは自分の弟の妻を、自分の妻にしていたのでした。誰も、そのことを指摘できませんでした。ヘロデは美しい女性が、どんな人であろうとも自分のものにするほどの勝手さと力がありました。そのことを、悪いと言っていたヨハネは捕らえられました。結局、ヨハネはこれを引き金に、この世を去りました。殺されたのでした。

イエス様はヨハネにより洗礼を受け、聖霊の働きを体験しました。神様のしもべとして、女の胎内に生まれた中で一番偉大な人間として認識していました。その方が、情欲的で勝手なヘロデに捉えられました。いろんなことを考えさせられる事件でした。イエス様にとってバプテスマのヨハネのヘロデ軍隊への検挙は衝撃だったのかもしれません。ヘロデに対する様々な考えたが交錯しました。その時、イエス様は何をされましたか。イエス様はヨハネが捕えられたのち、ガリラヤに行かれました。ガリラヤは生まれ故郷に近い町でした。イエス様にとって生活に慣れた町でした。ルカの福音書4章14節をみると、その時、「イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。」と記録しています。イエス様は聖霊に満たされていました。これを見ると、イエスさまは聖霊の指示に従ってガリラヤに行かれました。そして、そこでイエス様は会堂で聖書を教える聖書先生になりました。イエス様はヨハネからの洗礼を受けた後、聖霊の働きを感じましたし、聖書先生としての確信を持ちましたした。そこで、イエスさまは具体的に聖書先生として歩き始められました。

それでは、その時のイエス様のメッセージの内容は何だったのでしょうか。15節をもう一度ご覧ください。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」イエス様はまず、時が満ちた、とお話しされています。英語では、"The time has come." と記録されています。ここで、「時」とは神様の時を指します。イエス様は自分の気持ちにあった時を探すのではなく、神様の時を分別しようと努力されました。神様の時を待っておられ、神様の声がない限り、動きませんでした。イエス様は神様の動くときを見極めながら、行動されました。神様の時を見極めるとは、神様の願いを見極めることを意味しますし、神様の指示を見極めることを意味します。神様は御声を求める人にお話をされ、指示を出されます。神様は従う人たちと会話され、ついていく人たちに時を示される方です。イエス様はヨハネが捕えられたのち、ガリラヤに行かれましたが、それは「神様の時」を見極めたからでした。そして、言われました。"The time has come."

わたしたちは私たちがやりたいことや、いやなこと、好んでいる時、好んでないときを見分けるのは得意です。食べるときになると、体もしっかりと時を見分け、甘いものが必要な時には甘いものを要求します。したいこと、ほしいことを、また見たい時期を見分けるのはしっかりしています。しかし、イエス様はそのように、神様の時を見分けることを、大事にされていました。信者は神様の時を見分ける人です。神の時を見分けるために、私たちは心と魂が繊細になるべきです。祈るべきです。その声に耳を傾けるべきです。

それでは、イエス様が見極められた時とはどんな時を指しますか。それは、神の国が近くなった時のことでした。神の国とは、神様が作り上げる国であり、神様が治められる国のことを指します。イエスさまの時代まで、その国は遠いものでした。よほどの預言者でない限り、分かりにくい国でした。しかし、何千年も待っていた、この国がメシアの出現とともに近くなりました。近づいていました。誰にでも見えるようになりました。手に届く国になってきました。それは、どのようにして体験できるのでしょうか。イエス様は言われます。「悔い改めて福音を信じなさい。」悔い改めれば見える国です。過ちを素直に告白すれば見える国です。しかし、悔い改めるだけにとどまらず、福音を信じるようにと言われます。福音はイエス・キリストのことを指します。神の国はイエス・キリストの中にあり、イエス・キリストから見える国です。イエス・キリストによってもたらされるものです。

II. 弟子を呼ぶ(16-20)

16節から20節まではイエス様が、最初の弟子たちをどのように御呼びになられたのか、その特徴について記録しています。イエス様の弟子はどのような人々から選ばれたのでしょうか。イエス様の基準はどんなものでしたか。16節をご覧ください。「ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。」イエス様は漁師の中で弟子を得ました。漁師とは知識人ではありません。預言者でもありません。宗教指導者でもありません。権力者でもなければ、お金持ちでもありません。イエス様はごく普通の人々を、弟子として御呼びになられたことを意味します。ガリラヤにおられたがために、湖の近くにおられたがために、近くに接していた人々を、弟子として御呼びになられたことを意味します。イエス様の弟子は特別な能力を持つ、特別な人々ではなく、私たちと同じような、ごく普通の人々であったのです。イエス様は今も、私たちに弟子として呼びかけています。

17節をご覧ください。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」この言葉はイエス様の弟子がどんな人であるのかを説明してくださいます。

第一に、弟子とはイエス様についていく人を指します。

イエス様についていくとはイエス様に近づく人であり、イエス様を目標に歩む人を指します。イエス様に出切るだけ似て行こうとする目標を持っている人のことを指します。

第二に、弟子とは人間をとる漁師になることを指します。

人間をとる漁師とは魚を相手とする漁師のように、人間を相手として生きる人を指します。魚とかかわる仕事に専念することが漁師であれば、人間をとる漁師とは人間とかかわりを持つ仕事をする人を指します。魚の生態や海の状態について理解を深めるのが漁師であれば、人間のことを研究し、理解を深め、悩みことや喜びについて考える人のことを指します。人間に関心を持ち、人間のことについて成長する人のことを指します。イエス様はシモンを、アンデレを、ヤコブとヨハネを、このように、人間について理解を深め、人間を理解し、人間を助ける人になることを、求められました。イエス様はそれが人間として当然の姿であり、弟子として持つべき基礎であることを教えられました。私たちがイエス・キリストの弟子であれば、人間のことを理解し、その網に取られる、漁師にならなければいけません。人のことが理解でないのなら、弟子ではないのです。

それでは、どのようにしてシモンとアンデレ、ヤコブと、ヨハネがイエス様の弟子入りを果たしたのでしょうか。18節をご覧ください。「すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。」とあります。また、20節をご覧ください。「すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。」とあります。18節はシモンとアンデレば弟子入りをした内容であり、20節はヤコブとヨハネの弟子入りの内容です。両方の言葉の中に共通するところがあります。ひとつは、「すぐに」という言葉が共通して出ていることです。18節にはAt onceとして、20節にはWithout delayとしています。両方とも、彼らの決断は早かったことを意味します。彼らは複雑に考えなかったことを教える内容です。彼らは確信があった時に、すぐ、その場で、心を決めていたことを指します。弟子になった人々の特徴は、単純、そのものです。その意味で、頭が複雑な人は弟子にはなれないのかもしれません。

もう一つの特徴は、網を捨ておいて従ったことと、船を残して従ったことの共通点です。彼らは漁師として大事な、網を、また船を、捨ておいて、残して、したがったのです。つまり彼らには漁師として大事なことがあったのです。漁師として手放せない網、漁師としてなくてはいけない船は彼らの財産でした。彼らを漁師として光らせるものでした。彼らの生活基盤でした。しかし、彼らはこのような網や船よりも、イエス様を優先する生活を始めたのです。これは、弟子として生きるためには犠牲が必要であることを指します。好きで、今まで大事であったことを、捨てることに迫られる場面に出会うことを教えています。その時に、イエス様の弟子になった人々は、大胆に、これらのことを捨てたのです。これらよりも、イエス様のことを優先する生活を始めたのです。それが弟子の道の出発です。

III. 権威あるイエス様の教え(21-28)

21節をご覧ください。弟子たちと一緒に、イエス様の一行はカペナウムにはいりました。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂にはいって教えられました。22節を見ると、「人々は、その教えに驚いた。」とあります。「それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」と説明しています。

イエス様の教えは権威がありました。マルコはその事実を、22節で次のように記録しています。「律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように(one who had authority)教えられた」と。これは律法学者たちのように、口先だけの教えではなく、聖霊の働きがあって、その結果が見えたことを意味します。この権威は汚れた霊を追い出しました。汚れた霊を追い出されたイエスさまの御業があった後にも、人々は言いました。27節、「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」イエスさまの教えは言葉だけではありませんでした。イエスさまの教えは行動が伴いました。イエスさまの教えは結果がありました。イエスさまの教えは悪霊が追い出されました。律法学者たちのような教えは権威がありません。権威ある教えではありません。権威ある教えは、結果が伴う教えです。

わたしたちは権威をほしがります。しかし、結果を出そうとはしません。私たちは権威がほしいです。しなしながら、口出したことを守るところには力を入れていません。今日の御言葉は権威が結果と一緒に伴うことであることを教えています。それは神様が与える権威です。良い結果を出せば、権威は着くものです。わたしたちは権威をほしがるより、結果を出すために努力すべきです。権威はその結果から付いてくる神様のプレゼントです。28節をご覧ください。「こうして、イエスの評判は、すぐに、ガリラヤ全地の至る所に広まった。」とあります。

わたしたちが、イエスさまのように口先だけでなく、結果を残し、権威あるものとして、神様に称賛されますように祈ります。権威あるイエスさまの教えは、神様によってガリラヤ全地に広まりました。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23