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2009年長崎UBF Ten Step 8thメッセージ --> 問題紙

祝福するために来られたイエス様

Messenger:MSN.David

御言葉:ヨハネ2:1-11
要 節:ヨハネ2:11「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。」

今日の御言葉は信仰告白した人たち、あるいは神様とのかかわりを持ち始めた人々、イエス様について好感を持ち始めた人々がどのようにして神様を信じるところで深めていくのか、について記録しています。この御言葉を勉強しながら、私たちはイエス様ご自身がどんな方であるのか悟ることができます。イエス様は「祝福するために来られた方」です。今日の御言葉を通して、祝福されるイエス様について、また、祝福された人としての自分自身を見つめることができますように祈ります。

Ⅰ.マリヤの信仰(1-5)

ヨハネの福音書の1章には、将来、イエス様の弟子となる人々との出会いが紹介されています。中には、当時、国民的に尊敬されていたバプテスマ・ヨハネの弟子歴を持っていた人もいましたし、その人の話を聞いて弟子となった兄弟もいました。また、その人の同じ町の人で、当時、小学校や中学校がいたのかどうかわかりませんが、同じ同級生もいました。ある弟子は、イチジクの木の下が大好きで、その木の下で本を読んだり、夢を見たりしていた人・ナタナエルという人もいました。彼らはほとんど漁師でしたが、イエス様と仲良しとなり、神様の御言葉を勉強する勉強会に出席するグループメンバーとなりました。

イエス様が本好きなナタナエルと出会ってから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼がありました。そこにはイエスの母がいたことを見ると、マリヤとは常日頃親しくしていた家族の婚礼であったことがわかります。マリヤはその家族の婚礼に手伝いをしていました。しかも、宴会には欠かせない酒の世話役として働いていました。マリヤの長男であったイエス様が招かれた時、漁師出身の弟子たちも一緒に婚礼に招かれました。イエス様と漁師たちはこの頃常に、一緒に行動していたので、一緒に招かれたいたのでしょう。

3節をご覧ください。マリヤがお手伝いをしている婚礼の、イエス様も弟子たちも招かれていたあの家で、大変困ったことが生じました。それは婚礼の宴会には欠かせないぶどう酒がなくなってしまったことでした。楽しむべき宴会が突然暗くなりかけていたとき、母がイエスに向かって言いました。「ぶどう酒がありません。」マリヤは宴会の総責任者にこのことを尋ねるべきでした。また、酒屋さんにこの事実を早く知らせるべきでした。葡萄酒の代わりを探すために、関係者と相談すべきでした。しかし、本文の内容を見ると、マリヤはイエスにこの事実を知らせていました。「ぶどう酒がありません。」

これを見ると、マリヤにとってイエス様は常日頃の相談役であり、頼めばなんとかしてくれる長男坊であったことがわかります。マリヤにとってイエス様は頼もしい存在でした。いつも頼まれたことに真剣に取り組んでくれる息子でした。葡萄酒がなくなった時、マリヤはすぐさま、イエス様が来ていることに気が付きました。この子に頼めば、なんとかしてくれるかも、と考えていました。マリヤはイエス様と深い信頼関係を築いていました。

マリヤの話を聞いて、イエス様はどう反応していますか。4節をご覧ください。すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」とても冷たく反応しています。英語の文書(Why do you involve me?)からしてみると、なんでこのことに私を関わらせるのですか、と尋ねています。そして、ご自分のときがまだ来ていないことを知らせています。イエス様は係るものと係わらないものを常に判断していました。それはご自分の時かどうかがその判断の根底にありました。「私の時がまだ来ていません("My time has not yet come." )。」とお話をしていることを見ると、イエス様はご自分の時を常に認識していました。ご自分の時とは、神様が用意した時のことを指します。神様がこのことを用意されたのか、その時であるのか、神様が喜ばしいことなのかどうか、常に神様と関連付けていました。マリヤから葡萄酒の相談を受けた時、イエス様はかかわりを持つべきなのかどうか、神様は喜んでおられるのかどうかを考えておられました。イエス様はまだ、ご自分の時ではないと判断されました。

一般的に、このような反応が出ると、私たちはあきらめやすいです。普通の人であれば、お母さんの頼み事を拒否したことに腹を立てることもできたことでしょう。しかし、マリヤはそのような反応を見せませんでした。マリヤの反応を見てみましょう。5節、「母は手伝いの人たちに言った。『あの方が言われることを、何でもしてあげてください。』」マリヤは神様の時、イエス様の時になると、頼んでいたことについてイエス様が真剣に取り組んでくれることを確信していました。マリヤは否定的な反応を前向きにとらえました。これはマリヤが神様とのかかわりの中で、イエス様とのかかわりの中で常に守っていた姿勢でした。どんなことでも、困ることは神様に頼むこと、また、その頼み事が神様の時になると、必ず何らかの形で帰ってくることへの確信でした。葡萄酒のことがイエス様と係われないことでも、マリヤはイエス様に尋ねましたし、神様の時ではないことを知った時には、いずれ神様の時が訪れた時には、神様が働ける環境を用意していました。イエス様が動き出すときにはいつでも対応できるように、お手伝いの人々を用意しました。『あの方が言われることを、何でもしてあげてください。』

以上から、私たちはマリヤの信仰について学びます。

マリヤの信仰は祈りの信仰です。

マリヤはどのような題材であっても、祈りの対象となりました。それが葡萄酒であっても例外にはしませんでした。困ること、必要なこと、求めたいことを、すべて祈りの対象としました。私は祈りの時に、特定のことについては、これはちょっとふさわしくない、と考え、祈りの課題から外す場合があります。自分と係わる者は避けて、センターと係わるもの、人とかかわるものを祈りの対象としていることが多かったように思います。しかし、こころのなかではもっぱら自分のことを考え、対象としているのです。ましてや葡萄酒のことについては、わたしなら祈りの対象外だと思いがちなところです。しかし、マリヤはそうではなかったのです。マリヤの信仰は実質的で、生活に密着したものです。私はもうチョット実質的な祈りの人になるべきであることを悟ります。

マリヤの信仰は常に前向きな確信を持つ信仰です。

マリヤは神様の時になると、イエス様が働くときになると、頼んだことが必ず、実現される時が来ることを確信していたのです。マリヤは祈りをして、不安に思ったり、否定的に考えたり、後ろ向きになったりすることはありませんでした。イエス様の反応が自分の思い通りに進まなくても、前向きの確信を崩せませんでした。イエス様の時ではないと言われた時にも、マリヤはいずれ、神様のふさわしい時が来ることを信じて、その準備を始めました。『あの方が言われることを、何でもしてあげてください。』

祈りは信仰人の呼吸にたとえます。祈りがない信仰人は存在価値がない、死に直面します。もう一つ、祈ったことに対して、信仰人は前向きな確信を常に維持すべきです。祈ったことに対して神様が必ず反応して下さるからです。神様の時になると、その祈りは必ず帰ってくるのです。先先週、九州の別の大学で礼拝をしました。その大学で学位を取って、今は自分の故郷で仕事をしているある大学の先生が、UBFの集会で自分は日本宣教師の夢を見ましたし、祈りをしていて、今考えてみれば、それを神様はお答えして下さったのだと、証言していることを聞きました。神様は信仰人に祈りを求められますし、その祈りには必ずお答えして下さる方です。この方を感謝賛美いたします。

Ⅱ.イエス様の最初のしるし(6-11)

6節をご覧ください。さて、宴会場には、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてありました。ユダヤ人のきよめのしきたりとは手や足を洗う習慣のことで、外から帰って来るとユダヤ人たちは手や足を洗う習慣のしきたりがありました。イエス様がマリヤの祈りに動き始めまたこと、著者ヨハネはユダヤ人のしきたりの水がめから始まったことを記しています。7節をご覧ください。イエスは彼らに言われました。「水がめに水を満たしなさい。」今、宴会場は葡萄酒がないことでそわそわしていました。宴会のスタッフたちはお手伝いをする人々も含めて、葡萄酒を何とかしないとけないと考えていました。しきたりのことは二の次の問題でした。その時に、手伝いの人たちにイエス様が言われました。「水がめに水を満たしなさい。」今、そのような暇なんかありませんでした。葡萄酒が必要でした。水がめはどうでもいいものでした。しかし、彼らはどう反応していますか。7節の後半部を見ると、「彼らは水がめを縁までいっぱいにした。」とあります。彼らはイエス様の言われたことを、できる限りのことをして終わらせませんでした。彼らは彼らができることを精いっぱい行いました。六つの水がめを縁まで、水がいっぱいになるように水を満たしました。これにはかなりの労力が必要でした。六つの水ガメを縁までいっぱいに満たすためには時間も必要でした。しかし、彼らは普段から、任せられた仕事に対してできる限りのことを精いっぱい行う人たちでした。彼らは誠実な人たちでした。

イエス様はこの彼らに何を命じられましたか。8節をご覧ください。イエスは彼らに言われました。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」世話役は葡萄酒のことでそわそわしていました。葡萄酒がないことで心配していました。なんとかして葡萄酒の問題を解決しないといけないと考えていました。イエス様はお手伝いの人々に、葡萄酒を期待している世話役の人に、水をくんで、持っていくようにと命じられました。与えられた仕事を、精一杯、縁までに水を満たすことは誠実な彼らにとって、まあ、できることでした。しかし、葡萄酒を求める世話役の人に水を持っていくことはやさしいことではありませんでした。これは労力も、時間も必要としないものですが、自分の考えを持たず、自分を捨てることがなければ、したがうことができないものでした。自分たちの目で確認していた、また、自分たちの手で満たしていたあの水を、世話役の人に持っていくことは理性的な判断をする人にとってはかなり難しいことでした。しかし、彼らはどうしましたか。8節の後半部は次のように記録しています。「彼らは持って行った。」そして、続いてびっくりするほどの報告をしています。9節と10節をご覧ください。「宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、・・しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。・・彼は、花婿を呼んで、言った。『だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。』」

この記録の中でも特に、8節後半部、「彼らは持って行った。」、そして9節の中盤部「・・しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。・・」はヨハネが注目した手伝う人たちの動きです。手伝う人たちは自分を捨てて、水ガメから水を運びましたし、その水が葡萄酒になっていく過程をだれよりも生々しくキャッチしていた張本人たちでした。自分を捨てて、水をもっていた時、水が葡萄酒になる体験をしたのでした。

NHK番組に、「その時歴史は動いた」という番組があります。今年で9年目を迎える番組のスタッフ、松平キャスターは「歴史は数字(年号)と歴史事項の無機的な、暗記の集積ではなく、切れば血が出る“人間ドラマ”だ」と話しています。歴史が動いたのは、その自分を捨ててにじむ血が出る人間ドラマであることを、ヨハネが記録していたのです。

コリント人への手紙IIの9:8節には次のように神のことを記録しています。「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」信仰はこの祝福を享受するものです。そのために信仰人には求められることがあります。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うのです。」この御言葉はマタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書に全部、同様に記録されています。ヨハネは語り口を通して、そのメッセージを私たちに伝えています。

イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされました。それで、弟子たちはイエスを信じました。弟子たちが信仰したのは、見えないところで働いた従順のしもべたちによるものでした。ヨハネはこの記録の結論として、「その時歴史は動いた」の主役は、従順のしもべ、自分を捨てて従順したしもべ、自分を捨てて水をもっていたしもべであったことをはっきりと示しています。

神様は私たちがしもべたちのように従順と自分を捨てることに専念するとき、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。祝福するために来られましたイエス様を感謝賛美いたします。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23