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2012年長崎UBF Ten Step 7thメッセージ --> 問題紙

あなたはキリストです

Messenger:MSN.David

御言葉:マルコ8:27-38
要 節:マルコ8:29「するとイエスは、彼らに尋ねられた。『では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』ペテロが答えてイエスに言った。『あなたは、キリストです。』」

先週、私たちはサマリヤの女がキリストに出会い、喜びと賛美にあふれて、聖霊に包まれた姿を学びました。今日の御言葉ではイエス・キリストの首弟子、ペテロが自分の先生を、キリストとして告白する場面です。以降、ペテロは選ばれた種族となり、聖なる国民として生まれ変わったことを、自分の手紙に残しています。マタイの福音書を見ると、ペテロの告白が信仰人としてのスタート時点であること、また、教会コミュニティのスタート時点であることを教えています。今日の御言葉を通してペテロの信仰告白について学びますよう祈ります。

Ⅰ.あなた方は私を誰だと言いますか(27-33)

イエス様はベツサイダで盲人の目をいやしてから、弟子たちと一緒にピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられました。ピリポ・カイザリヤは異邦人の地でローマの神パンの礼拝所がありました。イエスはそこで弟子たちに尋ねて言われました。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」

当時の人々はイエス様のことを、バプテスマのヨハネだとか、エリヤだとか、また預言者のひとりだとかと言っていました。いずれにしてもイエスは偉大な神のしもべとして知られていました。人々はイエス様が預言者の一人で、生き返ったエリヤのような人物で、もしかしたら生き返ったかもしれない「バプテスマのヨハネ」だと思っていました。イエスさまは確かに、そのような神様のしもべ出し、むしろ、それ以上の人物に違いありません。神の子なので、当然のことでしょう。

29節の御言葉をご覧ください。「するとイエスは、彼らに尋ねられた。『では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』」イエス様は弟子たちに向って、人々の反応をお聞きした上で、質問されました。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」この質問の意図が何でしょうか。

第一に、弟子たち個人の見解を求められたのです。

イエス様は弟子たちが個人的に、イエス様のことを理解しておくことを求められたのです。イエス様は弟子たちが人々の反応と関係なく、自分の見解を持つことを願っていたのです。キリスト教の信仰とは、イエス・キリストをどう見るか、にかかっています。私たちはイエス様のことを、本で、あるいは友人を通して、あるいは知人を通して紹介されていたのかもしれません。あるいは偶然に、イエス様のことに出会ったのかもしれません。しかし、イエスは言われます。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」信仰はイエスを誰だと思うのかにかかわります。信仰とはイエス・キリストと深くかかわっているからです。信仰はイエス・キリストを誰だと思うか、にかかわる問題です。

第二に、弟子たちに信仰告白を求めています。

「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」という質問の中では、弟子たちに何かの答えを求めています。私は25歳の時に、UBFの修養会で、一緒に参加していた先輩の勧めで、「主はキリスト」と告白しました。そして私は不思議な体験しました。はじめて、見えない霊的な世界を感じ取るようになりました。「主はキリスト」と口で告白して、現れる魂の救いの形を体験しました。心に不思議な世界や宝石を保つようになりました。その後ずっと、私には聖霊が伴う人生を生きる祝福されたものとなりました。

イエス様の質問にもペテロは次のように答えて言いました。「あなたは、キリストです。」ペテロは信仰告白をしました。ペテロは自分の人生の主人として、イエス様を迎え入れていました。するとイエスは、自分のことをだれにも言わないようにと、彼らを戒められました。それはこれからのイエス様の任務があるからでした。その使命と任務が何でしょうか。

31節の御言葉をご覧ください。「それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。」とあります。イエス様はご自分がキリストであることを認める意味で、キリストとしての任務、キリストとしての使命を弟子たちに紹介されました。32節を見ると、「しかも、はっきりとこの事がらを話された。」とあります。これは英語で見ると、「はっきり聞こえるようにしっかりと話された」ことを意味します。弟子たちがこのことをしっかり聞いておくことを願っていましたし、信仰告白したペテロには特に、キリストの任務をお知らせたいと強く願っていたことがわかります。これは信仰告白したものが必ず理解しておくべき避けて通れない真理の事柄であるからでした。

キリストであるイエス様は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないのです。それを通して、キリストは救いを完成されたのです。キリストは「多くの苦しみと、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられたこと、殺されたこと、三日の後によみがえら」完璧に私たちのキリストとなられたのです。ですから、十字架は勝利の宣言なのです。復活はその完璧な証拠なのです。

するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めました。ペテロは十字架なしの栄光を求めていました。イエス様はそのペテロに向けて、言われました。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

これを見ると、サタンは神のことを思わない隙間に漂着することを悟ります。サタンは人のことをもっぱら思う心に漂着してくるのです。サタンはイエスさまの首弟子であろうともそうでない人も、神のことを思わないところに漂着します。しかし、主をキリストとして告白する人に聖霊は恵みをくださいます。聖霊に包まれるようにしてくださいます。私たちを神のものとしてくださいます。

以上から、イエス様を主として、神として、主人として告白することも大事ですが、主に告白がすんだ人々にとっては神の御心を探ることが最も大事であることがわかります。告白が先ですが、人のことを思うより、神のことを思うことがサタンの仕業から救い出す、近道なのです。信者として幸せを手にする秘訣は神のことを思う心です。

Ⅱ.自分の十字架を負い(34-38)

それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われました。群衆とは当時、12名の弟子とは違って常にイエスさまに付き添っていたとされる70名程度の群れを指していると言われていますが、イエスさまはこの群衆と弟子たちに同じメッセージを伝えたいと思われたのでした。その内容が何でしょうか。34-35節をご覧ください。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」

これは弟子たちに、また群衆たちの中でもイエスさまについてきたいと願っている人々に求めるイエス様の声です。それが何でしょうか。ひとつは、自分を捨てること、でした。自分を捨てるとは自分の計画、自分の考え、自分のスケジュール等を捨てることを意味します。これは逆にいえば、神様の自分に対する計画を考えることであり、神様の私への考えやスケジュール等を考えることを意味します。イエスさまは私たちよりも神様の私への計画や考え、スケジュールがあることを教えています。私たちは自分のものより、神様のものを優先しなければ、イエスさまの弟子にはなれないのです。二つ目は、自分の十字架を負うこと、です。つまり、神様が私たちに下さった十字架のことを追うことです。それが何でしょうか。私であれば、家族ですし、教会ですし、世の仕事です。この中でひとつもないがしろにせずに、与えられたことを逃げずに、真剣に取り組むこと、これが弟子として必要な姿勢です。何一つ、神様が与えられてない十字架はありません。目の前に現れるすべての十字架、負うべきものを、しっかり負うこと、これが弟子としての正しい姿勢です。すべての目の前の十字架を前向きにぶつかること、逃げようとしないこと、軽くしようと考えないこと、が十字架を負う姿です。そして、最後に、この二つのことがまっとうできてから、イエスさまについていかねばならないのです。自分を捨てること、十字架を負わすに、イエスさまについていく人は真の弟子にはなりません。イエスさまは言われます。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」

神様を優先し、神様の十字架をしっかり負う人、その人は救いを得ます。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23