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2010年長崎UBF、マタイの福音書、その6 --> 問題紙

完全でありなさい

Messenger:MSN.Caleb

御言葉:マタイの福音書 5章17節~48節
要 節:マタイの福音書、5章48節 「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」

今日の御言葉は、先週から始まった山上の説教の続きです。イエス様は弟子達がこの世でどんな姿勢を持って生き、どこまで成長すべきかについて教えてくださいます。イエス様は律法による罪の定めから私たちを自由にしてくださいました。しかし、イエス様は律法を廃棄するためではなく、成就するために来られたと言われます。今日の御言葉を通して、律法の中に隠されている神様の御心を学び、私たちの信仰生活の目標を立てることができますように祈ります。

17節をご覧ください。「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」イエス様の普段の生活ぶりを見ると、休むべき安息日に病人を癒したり、手も洗わずに食べ物を食べたりする行為は、非常識で当時の律法を廃棄する者のように見えました。しかし、イエス様は、ご自分が来られたのは、律法や預言者を廃棄すうるためではなく、成就するために来れれたと言われます。律法学者やパリサイ人は律法の形だけを守りましたが、イエス様は律法をくださった神様の御心を行われました。そして旧約の律法と預言者たちの予言をすべて成就されました。

18、19節をご覧ください。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部成就されます。イエス様は戒めのうち最も小さいものの一つでも、破ったり、また破るように人に教えたりしてはいけないと言われました。また、20節をご覧ください。「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」当時の律法学者やパリサイ人たちの徹底的な律法生活を送っていました。今の時代にもユダヤ人たちはそれを徹底的に守っています。どうすれば、私たちの義が、彼らの義よりまさることができますか。非常にプレッシャの掛かる言葉です。しかし、イエス様がこのように言われた理由は、律法の根本精神を教えるためです。律法をくださった神様を正しく知るように助けるためです。実際律法学者やパリサイ人たちは、律法の文字を丸暗記していても、神様の御心がわかりませんでした。そのために、イエス様は旧約の律法からいくつかの例をあげて、その戒めの真の意味について教えてくださいました。

21節をご覧ください。「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのをあなたがたは聞いています。10個の戒め、つまり十戒には殺人に対する項目があります。昔も今も人を殺した罪に関しては厳しく、さばきを受けなれればなりませんでした。律法学者とパリサイ人たちは、実際に人を殺していないので、戒めをしっかり守っていると思っていました。しかし、イエス様はなんと言われましたか。22節をご覧ください。「しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」

イエス様は、実際に人を殺した人だけが裁かれるのではなく、兄弟に腹を立てる者、悪口を言う者、傷つける者までが裁きを受けなければならないと言われます。私たちもパリサイ人のような考え方を持ちやすいです。私たちは子供を虐待して殺した人や無差別殺人の罪を犯した通り魔のような人を見ると、「あいつらは人間ではない」、「死刑は当然だ」といいます。ではこのように言う私たちの心はどうでしょうか。人々は大体自分は無罪で正しい人生を送っていると考えます。今まで、大きな罪を犯して警察のお世話になったこともないし、法律がなくても生けると自信満々に言います。私も以前はそのような勘違いをしていました。しかし、私たちは、少し自分の気に入らなければ、兄弟に向かって腹を立てます。夫婦の間でも互いに無視したり、トゲのある言葉で傷つけたりします。親は子供に『ばか者』と言ったり、子供は親に反発して無礼な行動をしたりします。イエス様はこれらの行動も殺人の罪を犯した人と同じく神様の前で厳しい裁きを受けなければならないと言われます。私たちは実行までには至っていないものの、どれだけ心の中で人を殺す罪を犯したのでしょうか。神様の御前では一人も自己義を主張できるものはいません。ローマ人への手紙で主は言われます。「義人はいない。ひとりもいない」

23節をご覧ください。祭壇の上に供え物ををささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したならどうしますか。イエス様は言われます。「供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」兄弟を殴って怪我をさせた人が平気に礼拝に来て、賛美をして祈ると、神様がその賛美と祈りを受けられるのでしょうか。人を殺した人が、その口から愛のメッセージを伝えても神様は喜ばれるのでしょうか。これは常識はずれのことです。ところが、実を言うと、私たちはこのような常識はずれのことをよくしています。他の人の小さい過ちは決して赦せないくせに、自分の大きな過ちは悔い改めず神様に祝福だけを求めます。他の人を苦しめているくせに、自分は神様からの恵みを受けようとします。しかし、イエス様はこのような人に、まず兄弟と仲直りをしなさいと言われます。私にも子供が二人いますが、兄弟喧嘩をしながら、いくら親の愛を求めても快く聞いてあげることができません。まずは二人で仲直りをすることを期待します。また、たまに夫婦喧嘩をした時は、それが心に引っかり祈ることができません。しかし、仲直りをすると喜びと平安が訪れます。私たちは人間ですからだれでもトラブルに直面する場合があります。兄弟喧嘩や夫婦喧嘩、親子間の不和、職場の同慮や上司とのトラブルもあるかもしれません。しかし、私たちが神様の祝福を頂き、力強く主の御わざに仕えるためには、まず恨まれている人と仲直りをしなければなりません。もし、今でも自分のせいで傷つけられていた人が周りにいれば、すぐに謝って仲直りをするべきです。仲直りできない時期が来るからです。

27節をご覧ください。十戒の中に「姦淫してはならない」という戒めがあります。殺人と同様に、律法学者やパリサイ人たちは、実際に姦淫をしなければ、義人だと思っていました。しかし、イエス様はどう言われますか。28節をご覧ください。「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」イエス様の要求は厳しすぎるように見えます。心の中で想像しただけでも姦淫を犯したのと同じであると言われます。面接の時間に間に合わせるために信号を無視して道路を渡った人ときれいな女を見て、ただ心の中で楽しんだ人とどちが悪いと思いますか。大体の人は信号を無視した人がもっと悪いと思うでしょう。後者の人はただ心に思っただけで人にまったく迷惑をかけることも被害を与えることもしていないからです。しかし、これは人の考え方です。イエス様は、情欲を抱いて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したと言われます。29節、30節にはさらに厳しく要求されます。もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐりだして捨ててしまうように言われます。もし、右の手がつまずかせるなら、切って捨ててしまうように言われます。なぜなら、体の一部を失っても、からだ全体地獄に投げ込まれるよりはましだからです。しかし、言葉に従順するために、本当に目をえぐり出し、手を切ってはいけません。そうすると世の中のほとんどの人が障害者になるでしょう。そのように罪に対して真剣に考え、血が出るほど戦わなければならないことを教えているのです。私たちは自分の力では罪に勝つことができません。一勝を挙げることなく全敗します。罪に勝つためには積極的に聖書の御言葉をつかみ、祈る闘争が必要です。真理の御言葉が私たちの心に住まわれ聖霊に満たされるとき、、私たちは聖なる生活を送ることができます。

31節32節は離婚に関する内容です。最近は年々離婚率が増加していますが、旧約時代にも離婚は社会問題だったようです。モーセの律法によれば、だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよと言われていました。これは、離婚後の女性を保護するための趣旨がありました。しかし、当時の人々は、この律法を根拠に、少し気に入らなければ、例えば、ご飯がまずくても、細かいことをうるさく言っても、離婚状を書いて妻を追い出したりしました。イエス様はこれに対して、だれでも不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させることであると言われました。離婚理由のベスト5のうち第1位は、性格の不一致、2位は暴力、DV、3位は浮気・不倫、4位は経済力の無さ・働かない、5位は精神的虐待という調査結果が公開されています。第1位に性格の不一致が堂々とランクしていますが、しかし、異なる生活環境で育った二人の性格が異なるのは当たり前なことです。結婚というのは、異なる性格、相手の弱点までも理解し、助け合うことを覚悟して行うべきです。お互い、ごく一部の良さそうなところだけみて結婚するとすぐに性格云々といって離婚活動が始まるのです。

ある統計調査によれば、結婚後も相手が自分の配偶者でよかったと思う人は、一年目で95%でした。しかし、2年後は急に減少して50%、10年目は5%にまで下がりました。それでは、結婚して30年が経つと何パーセントになると思いますか。正解は90%です。30年も経つと、ほとんどの人がやはりこの人しかないということを悟るようです。ですから、もし離婚を考える人は少なくとも30年は我慢して待つ必要があるかもしれません。ただ、イエス様も不貞の場合は例外にされたように、不貞だけは行わないように気をつけるべきです。有名なビリーグラハム牧師は、幸せな結婚生活について、次の3つの秘訣を教えてくれました。一つ目に一緒に礼拝すること。二つ目に、一緒に祈ること。三つ目に一緒に聖書を読むこと。私は、一つ目は毎週、二つ目はたまにしていますが、三つ目に関して礼拝の時間以外はあまりしたことがありません。これからは、夫婦だけではなく、子供も入れて、一緒に礼拝し、一緒に祈り、一緒に聖書を読む生活を送りたいと思います。それが家庭教会であり、幸せの秘訣であると信じます。

33節から37節までは誓うことに関する内容です。律法には、偽りの誓いを立ててはならないとありますが、イエス様はさらにきびしく、決して誓ってはいけないと言われました。人々は誰かに疑われると、天をさして誓って自分の潔白を証明しようと思います。しかし、その奥底には自分自身に信頼を置こうとしており、その誓いを守る能力もないので、それによって躓く可能性もあるのです。イエス様は、言われます。「だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。」私たちは神様の前で素直な人になるべきです。

38節をご覧ください。「『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。」これは旧約の律法です。もちろん、これは復讐を正当化したものではありません。このように厳しくすることによって事前に悪を防ぐためのものでした。また復讐がエスカレートするのを防ぐためでもありました。大体人はプレゼントやお祝い金の場合は、もらった分の同等のものか少し少なめのもので返そうとしますが、損害を受けた場合には、何倍を上乗せして仕返そうとします。目がやられたら、目だけではなく顔全体をつぶさないと気がすまないのです。しかし、イエス様はどう対応するように言われますか。39節から41節をご覧ください。「しかし、あなたがたに言います。悪いものに手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。」

これは、かなり難しいものです。頬を打たれたことがありますか。私は軍隊で頭を打たれたことがあります。自分だけではありませんでしたが、親からも打たれたことのない頭を打たれて、頭に来ました。しかし、この御言葉を思い出してなんとかその場をしのぐことができました。自分に害を与える者、疲れているのに面度をかける者、要求ばかりする者を受け入れることはなかなか難しいです。しかし、イエス様は悪に対して善を持って勝つように言われます。悪に対して悪で対抗しようとすると、二人とも同じ者になってしまい、その復讐劇は無限ループになって永遠と続くのです。

引き続き43節、44節をご覧ください。「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」自分の隣人とは自分を愛してくれる人です。自分に良くしてくれる人のことです。このような人を愛することはだれでもできます。ヤクザのような人でもできます。しかし、自分の敵をも愛することは簡単ではありません。常識からすると敵愛せない存在です。憎みの対象です。しかし、イエス様は自分の敵を愛し、迫害する者のために祈るように言われます。どうすればこれが可能になるのでしょうか。自分の力と意思ではできません。無理です。しかし、イエス様の愛に満たされるとできます。イエス様は神様でありながら、兵士たちに打たれ、鞭打ちされ、蔑視され、十字架につけられました。しかし、イエス様はほふり場に引かれていく子羊のように、また、毛を切る者の前に黙っている羊のように、全ての屈辱を耐え忍ばれました。そして、祈られました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

韓国のソンヤンウォン牧師は、暴動を起こして自分の二人の息子を殺した犯人を養子として受け入れました。敵を赦し息子のように愛したのです。これは人間的には不可能なことです。愚かな行動のようにまで見えます。しかし、イエス様の愛は不可能を可能にしたのです。ソンヤンウォン牧師はイエス様の愛を実践した主の僕として、今でも多くの人々から尊敬されています。私たちは、敵ではなく近くにいる一人さえも愛することが難しく感じる場合があります。私たちは愛のない心を悔い改めるべきです。そして、敵までも愛せる力をくださるように祈るべきです。敵の小さな子供が道に迷っていたら家を探してあげるべきです。敵の犬を見たら足で蹴らないで、えさでもやるべきです。そして、クリスチャンであるだけで迫害する人のためには、感情に負けてぶつけず、切に祈るべきです。 旧約のヨセフも自分を外国に売った兄たちを憎まず、神様の摂理を信じて祈り続けました。神様はこのようなヨセフの人生を大きく祝福し、エジプトの総理大臣にまで高くしてくださいました。ダビデは自分を何度も殺そうとしていたサウルを赦しました。サウルを殺す機会があっても決して復讐しませんでした。神様はこのようなダビデを大きく祝福してくださいました。

48節を一緒に読んでみましょう。「だから、あなたがたは天の父が完全でなように、完全でありなさい。」これが、信者の望むべき最終的な目標です。神様になりなさいという意味ではありません。神様の品性に見習い、成長していくべきことを教えています。これが弟子である私たちに向けたイエス様の御志であり切なる願いです。私たちの力ではできません。神様に完全な信頼を置くべきです。聖霊に頼るべきです。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23