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2010年クリスマス聖書勉強、その2 --> 問題紙

救いの角・日の出であるイエス様

Messenger:MSN.David

御言葉:ルカの福音書、1:57-80
要 節:ルカの福音書、1:78-79「これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」

Merry Christmas !!

今週と来週の礼拝では牧者ルカが伝えるイエス・キリストの誕生の物語の中からクリスマスの意味を学びたいと思います。ルカはイエス・キリストの誕生の物語を、預言者ヨハネの誕生物語からスタートしています。それはなぜでしょうか。

「沈黙」「深い河」など、日本人とキリスト教信仰という重いテーマを深く追求し、自らの信仰を繰り返し問い続けた作家がいます。その名前は、「遠藤周作」です。私がはじめて、遠藤周作と出会ったのは「沈黙」という小説からですが、名字は遠藤さんで、名前は「周」だと思っていました。遠藤周が作った作品の「沈黙」と理解していました。遠藤さんはキリスト教文学の純文学作品だけでなく、「孤狸庵シリーズ」に代表されるユーモアに富んだエッセイは、多くの読者に愛され、テレビにも出演するなど、国民的な作家として親しまれた。アメリカの映画監督のマーティン・スコセッシ氏はこの「沈黙」を原作にした映画の構想を発表していて、今なお、多くの人々から共感を集めている作家です。

水曜日、東京出張をしていて、ホテルについてテレビをつけると、NHKの「水曜・こだわりの人物伝」という番組の中で、沈黙の著者・遠藤周作を紹介していました。四名の作家が伝える遠藤さんの人物伝でしたが、私が見たのは、作家・加賀乙彦さんでした。加賀さんは1929年、東京都で生まれ、東京大学医学部卒業したのち、精神科医として東京拘置所医務部、東京大学附属病院、東京医科歯科大学犯罪心理学研究室などに勤務したのち、69年から上智大学文学部教授となり、死刑囚との交流をもとに「宣告」という作品を発表しました。この作品は79年に、日本文学大賞受賞しています。加賀さんは文学活動とともに、死刑廃止運動についても活動している人で有名です。68年に「フランドルの冬」で芸術選奨文部大臣新人賞受賞し、73年「帰らざる夏」で谷崎潤一郎賞受賞、98年には「永遠の都」で芸術選奨文部大臣賞をまたも受賞しています。加賀さんはこの番組の中で、87年に夫人とともに遠藤周作夫妻を代父としてカトリックの洗礼を受けた事実を物語っています。

私は加賀さんの特に、聖霊に出会った時の表現について、あまりにも私と同じような体験で、神様に出会った人々の体験は不思議にも似たようなものがある、ことを改めて感じ取りました。信仰への誘いがあった遠藤さんとの、五日間の対談(修養会のようなものではないかと思われる)の中で、加賀さんは徹底して信仰の世界への疑問をぶち明けようと心決めていたようです。二人だけの言葉の喧嘩のような、対談は五日で終わることがないと考えたことでしょう。しかし、加賀さんは二日目になったときに、もう話すことがない、これ信仰の世界についての以上疑問の言葉が出てこない、不思議な状況にぶつかった時、「ふわー、と体が浮き上がるような、別世界に映っているような感じを受けながら、何とも説明できない幸せと喜びに包まれていた」と言っていました。加賀さんはそのとき、遠藤さんを代父とするキリスト教への入門を決心したそうです。聖霊に出会った瞬間でしたし、神様の存在を確かめた聖霊の体験談でした。

加賀さんの聖霊の世界への体験は私のそれとあまりにも似ていますが、今日の言葉の中にはザカリヤが似たような聖霊の体験をしています。そして、ルカはその体験を記録として残しています。

今日の本文にはザカリヤという神様の御業に仕える祭司とその妻、エリサベツの物語です。ザカリヤはユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者で祭司職を務めていた人物でした。また、彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといっていました。聖書は彼らの生きざまについて、「ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた」と記録しています。神様の前で真実に生きる信仰人でした。しかし、彼らには子どもに恵まれず、エリサベツは不妊の女と称されていました。当時は不妊の女は追い出され、離婚の対象でした。しかし、ザカリヤはエリサベツを愛しました。何よりも、神様を愛していたがために、彼はエリサベツを愛し続けることができました。子どもへの夢は年をとるにつれて薄れて行きました。彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていました。

しかし、ザカリヤが祈りの中で、御使いからの声を聞いたのです。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子供たちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」ザカリヤはこのお話を耳にした時、「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」と否定的でした。しかし、御使いは「私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、おしになって、ものが言えなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。」とザカリヤの不信仰叱り、おしの訓練を与えたのです。

57節は、その時が来て、月が満ち、エリサベツは男の子が生まれたことを説明しています。近所の人々や親族は、主がエリサベツに大きなあわれみをおかけになったと聞いて、彼女とともに喜んでくれました。エリサベツは不妊の女として、蔑視されていました。しかし、月が満ちて男の子が生まれた時、人々は主がエリサベツに大きなあわれみを施してくださったのだと、神様に感謝しました。子どもが生まれて、八日目に、人々は幼子に聖霊の儀式である「割礼」をするためにやって来て、ついでに、幼子を父の名にちなんで「ザカリヤ」と名をづけようとしました。それにはザカリヤ系の期待が込められていました。蔑視され、無視されていたエリサベツにとって、当然のことながら「ザカリヤ」と名付けるのが当たり前でした。しかし、エリサベツは答えて、「いいえ、そうではなくて、ヨハネという名にしなければなりません。」と言いました。割礼のために来ていた人々は彼女に、「あなたの親族にはそのような名の人はひとりもいません。」と彼女の提案に大反対をしました。そして、身振りで父親に合図して、幼子に何という名をつけるつもりかと尋ねたところ、ザカリヤは書き板を持って来させて子どもの名前を書きあげました。「彼の名はヨハネ。」

私たちは誰でも、自分によって生まれたものを、自分のものとします。努力して得た収穫や給料も、自分のものであり、自分のためにだけ使おうとします。ましてや子どもも、同じで、自分の名前にちなんで名前をつけたいところです。しかし、ザカリヤとエリサベツは自分たちにちなんで生まれた子どもを、しかも、待ちに待っていた子どもを、自分のものにしようとするより、神様ものとしました。神様が示した「ヨハネ」という名を付けました。その時、ザカリヤは口が開けました。舌は解け、ものが言えるようになりました。それを目の当たりにしていた近所の人々はみな恐れおののきました。さらにこれらのことの一部始終が、ユダヤの山地全体にも語り伝えらました。これを聞いた人々はみな、それを心にとどめて、「いったいこの子は何になるのでしょう。」と言いました。主の御手が彼とともにあったからでした。ザカリヤは聖霊に満たされました。そして、預言をしました。

「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」

ザカリヤが聖霊に満たされて予言したはイエス・キリストです。ザカリヤはイエス・キリストを指して、救いの角と称しています。角は力を意味します。角は栄光を意味します。角は権威を意味します。角は武器にもなります。信者にとってイエス・キリストは、特に、救いの角です。絶望からの救いであり、病気からの救いであり、恐れからの救いとなります。それだけではありません。イエスさまは心配と暗闇の陰に座る人々には日の出となります。日の出は暗黒と死の影に座る人々を照らします。道が開かれず、先行きが建てられない人々の道案内人となられます。彼らの足を、平和の道に導いてくださいます。喜びと賛美に包まれるように案内されます。イエス・キリストの聖霊に出会った人々はその人生が角となります。イエス・キリストの栄光と権威と力に包まれていきます。イエス・キリストは私たちの武器となり、私たちの代父となってくださるのです。

加賀さんが遠藤さんを代父として、キリスト教に導かれたように、イエス・キリストは私たちを神様に導き、天の御国に導くのです。その人生を、平和と喜びに導いてくださるのです。私たち一人一人が、このクリスマスには、ひとりひとり、キリストの御霊に包まれ、平和と喜びに包まれますように祈ります。

ハレルヤ

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Last-modified: 2020-12-26 (土) 22:07:23