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** 2009年長崎UBF Ten Step 1stメッセージ --> [[問題紙>2012TenStep01q]] [#u1d80726]
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|SIZE(20){初めに神が天と地を創造した}|


御言葉:創世記1:1-25&br;
要節:創世記1:1「初めに神が天と地を創造した。」

年度初めに、神様がテン・ステップの基礎勉強をするように導いてくださいました。ひとえに神様の恵みです。信仰生活は知識を増やすことに目的があるのではありません。内面の成長、霊的な神様への従順、神様に対する感謝、罪びとである自分自身についての悔い改めが深まることです。その意味で、信仰生活の基本となるテン・ステップを改めて勉強することはとても大事なことであります。今日は信仰生活の基本である聖書の、しかも、その一番最初の本である「創世記」の、一番初めに出ている文書、第1章を勉強しますので、クリスチャンの考え方、価値観の基本中の基本であります。

創世記は起源の本と呼ばれ、Genesisと書くギリシャ語での「起源」から由来します。この本はモーセが記録したとされていますが、モーセはこの本の他に四つの出エジプト記、レビ記、民数記、申命記を記録しています。出エジプト記を見ると、モーセはユダヤ人を祖先としていますが、パロ王の王子として育ちます。実に40年間、モーセは当時としては最先端の学問と最先端の技術に接し、太陽神の息子とされるパロ王の王子としての教育を受けたのです。知識にも知恵にもすぐれ、誰が見てもモーセは世界を支配することのできる人物として仕上がっていたのです。しかし、モーセは自分の出身がユダヤ人であることに気づかされた時、あの独特な生活をしているユダヤ人、神様を信じているあの独特な信仰生活、安息日を守り、神に感謝し、奴隷として生きていたがどこか、違った香りのある彼らの姿に興味と関心がわいてきたのです。しかも、自分自身、彼らと同じ神様を信じる民族の一人であることに不思議さを感じたのです。気づいてみたら、私はパロが信じる太陽神とは違って、エホバの神様、唯一の神様、安息日のある神様と関係している自分自身に気付かされたのです。モーセは40歳になった時、育ってきた王宮を離れ、まったく違った世界に身を投じることを決心します。自分探しの旅に出たのです。そして砂漠で、山で、ユダヤ人の神様について熟慮し、祈りし、ある日、紫の火の中から聞こえる神の声に出会ったのです。「モーセ、モーセ」と。神様はモーセを悩ませたのです。モーセは自ら自分探しを始めたのだと思っていたのですが、神様はアブラハムの時代からモーセを見守っていたのです。神様の前で一人立ちを始めたモーセに神様は言われました。「モーセ、モーセ。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」私たちは誰でも、神様の前で一人旅をするときがきます。今がその時です。私たちは足の靴を脱いで、神様を見上げ、新しい旅道に立つべきです。今立っている地が、今与えられている仕事が、神様の大事な使命であることを悟る必要があります。アブラハムの時から、神様が私たちを知っていて、今に至り、ここに導いてくださったのです。そして、今もなお私たちを見守っていることを信じるべきです。モーセの人生はこれからスタートしたのです。40歳の宮殿での暮らしは真の人生の前触れに過ぎなかったのです。

このモーセが記録した創世記は、すべての初めについて記録しています。特に、1章と2章では神様について、書かれてあります。モーセは神様について、パロ王に、また奴隷であるユダヤ人たちにどう説明すればいいのか悩みました。彼らは全く、神様を知りませんでした。聞いたこともありませんでした。神様と言う存在について、何のことがすら気が付ついていませんでした。紫の火の中にあらわれた神様をどう表現すればいいのか、モーセはわかりませんでした。神様は一体、どんな方なのか、どんな形で説明すればいいのか、わかりませんでした。モーセは神様についてどんなインスピレーションを受けましたか。

''第一に、神様はは既に存在された方です。''

1章1節をご覧ください。「初めに神が天と地を創造した。」「初めに神が・・・」とありますが、これは神様がすべての始まりの前に、すでに存在されたことを意味します。聖書が示す神様は昔の永遠から後に来る永遠にまでおられる方です。時間が始まる前に、地球が始まる前に、空が始まる前に、私が存在する前に、すべての物事が始まる前に、夢も希望も、喜びも賛美も、悲しみも苦しみも、恐れも、裁くも、戦争も、平和の概念もが始まる前から、神様は存在していたことを教えています。神様ははじめのはじめに、すでにおられました。

私たちはふっと、思う時があります。「なぜ、私は私なのかなぁ。」「なぜ、あなたはあなたなのか。」「なぜ、私は日本人なのか。」「なぜ、あなたはアメリカ人なのか。」「なぜ、朝があり、夕があり、涙があり、感動があり、恐れがあり、心配があり、喜びがあるのか。」これはすべて、はじめの問題を問うものです。はじめに何があって、今に至ったのかを聞いている質問です。しかし、その答えを確実な回答を出してくれるものはありません。だれもその答えに明確な答えを出していません。どんなに優れた哲学者も、どんなに優れた科学者も政治家も、この質問に答えることができません。しかし、聖書は応えています。「はじめに神が天と地を創造した。」初めに神が存在したのです。神様がすべての原因であり、その見守りの方なのです。私もこの地球も、宇宙も、しかも、私たちの人生も、神様によって出来上がっていて、なりえていて、進んでいるのです。「はじめに、神が天と地を創造しました。」

''第二に、神様が計画され、天と地が造られました。''

「創造されました」とは、おつくりになられたことを意味します。これは、何億年、何百億年をかけて、今の状態にじわりじわりと進化したこの地球や宇宙は、はじめに、神様の知恵とお力とによっておつくりになられたのです。聖書はこの世の始まりやすべてのスタートが、偶然ではなく、神様によって、必然的に出来上がったことを教えています。

青く見えるお空も、偶然に、たまたま、このような青い色の空になったのではなく、神様の願いと必要に応じて作られたのです。すべての始まりに神様が関与し、神様の意図が描かれていて、神様の目的が掲示されているのです。1809年2月8日に、進化論を主張したダーウィンが出生しました。そして「すべては偶然と偶然を重ねて、進化した」ことを主張は近年、多くの科学者たちによって疑わしく思われています。しかしながら、進化論は不思議にも圧倒的多数の支持を受けています。残念ながら、現代の科学者たちは誰れひとり、アメバから人間にまで偶然と偶然を重ねに進化したのだと、信じません。なぜなら、進化論のいくつかの説明は理解できるが、すべてをこの説明に任せられない疑問があるからです。それで、小進化とか大進化とかの理論が唱えられたり、近年は「超能力設計論」が支持を得ています。設計図面があるのだ、というものです。進化論より創造論が重みを重ねています。

なにはともあれ、聖書は偶然にこの世が作られたことに反対します。聖書はこの世が全能な神様によって設計され、計画され、その目的に沿って立派に作られたのだと宣言します。「神が天と地を創造した。」全能な神様が、支配者の神様がこの宇宙を、この世界を、この自然を、この私を、この私の人生を、私の子供を、私のこれからのすべてを、そのご計画と目的と美しい志を示すために、おつくりになったと教えています。これが、創世記1章1節の結論です。神様が天と地の、またすべてのものの作り主です。信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟ります(へブル11章 2節)。

私たちは偶然に、たまたま、優勢な生物学的な要素が生き延びて、偶然と偶然を重ねてここにいるのではなく、神様の完全な設計図面によって計画され、神様によって関与され、いまここにいて、喜び、悲しみ、驚き、歩き、笑う、自己表現をしているのです。

2節は次のように記録されています。「地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。」神様の霊が何もない世界、地の形もなく、すべての物事がまだ始まってないときに、すでに動いていて、設計図面を描いていたのです。

''第三に、この神様は光を作られました。''

3節をご覧ください。「そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。」創世記は神様の創造の中でも、一番初めに造られたものについて、「光」を取り上げています。光は不思議です。太陽からの光があれば、蛍光灯からの光もあります。長崎大学出身でノーベル化学賞をもらった下村さんが発見したとされる「GFP」も生物発光により得られる光です。使徒パウロが見て目が暗くなり、何日間も目が見えなくなってしまった、イエス・キリストの光も不思議です。光はいろんなものがあります。テレビやラジオ電波も光の一種ですし、レントゲンで骨が形を表すようにするX線も光です。電話ができるのも、光のおかげです。光は不思議の満載です。この光を、神様ははじめにおつくりになりました。そして、その不思議さを聖書は、「神はその光をよしと見られた。」と記録しています。神様も感動されたのです。神様はこの光を、「やみとを区別された。」とあります。神様は光をもって、闇と対抗されたのです。何もない、暗闇、無意味、無味乾燥に対抗されたのです。闇とは違ったものを作られたのです。それが「光」です。その意味で、光は明るく、意味があり、はっきりしていて、気持ちがいいのです。神様はこの光をご自分の名刺としています。ですから、光は神様を代表します。神様そのものです。光は神様を指します。この光と一緒なら、暗闇に打ち勝つ、力が湧いてきます。この光と一緒ならその人生は明るく、はっきりした人生の道のりを歩みます。しかし、この光に抵抗するとしたら、残念ながら燃えてしまいます。光の速度で走ろうとしたら、体は燃えてしまうように、また、光の速度を超えてはこの世のすべての物質やものごとは存在することができないのです。同じように、暗闇に包まれるとは死を意味します。同じように、人間は光に暮らす時には生かされますが、抵抗するときに死に至ります。光と一緒なら、人間は暖かくはっきりした世界を、生き延びることができます。しかし、暗闇と暮らす人生は死に至ります。神様は光です。神様は光を創造され、闇とはっきり区別されたのです。

''第四に、神様はすべてのものを種類に従って造られました。''

神様は四日目に、宇宙空間に大空を創造され、太陽、月、星を、また秩序を立てられました。また、神様は五日目、六日目、動物を創造されました。しかし、特に生命体については、「その種類にしたがって」作られたました。これは一つも同じものにはならないように作られたことを意味します。神様は同じくなることよりも、種類に従って造られた生命体がその素晴らしさを発揮して生きることを望んでいます。また、みんな違って、みんないい、不思議な世界を作り上げることを願っています。

神様は種類に従って、動物や生命体を作られたのです。そして、「よし」とされたのです。「みんな違って、みんないい」のです。しかし、日本人だけでなく、人間はみんなみんな違ってとても不便だと思ったりします。みんな同じでよい、あるいは、みんな私と同じになってほしいと願うのが人間の自然の欲望です。ケンカや戦争もここから生まれるような気がします。考えてみれば、怒り心頭する私のこころはこのような心から生まれるような気がします。私に合わせることを要求するから、怒りが生じます。それが正しいと思うから怒りが生じます。しかし、神様はそう思ってはないことを、この御言葉をもって学びます。神様はみんな違って、みんなその種類に従って違う形をもつことが、「よい」とされたのです。「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」生物だけではありません。それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造されました。」そして、「神は見て、それをよし」とされました。神様にとっては「みんな違って、みんないい」のです。ですから、違った私にはほかにない特別な計画が施されているのです。神様の立場からすれば、私はこの世の中でも特別に、私だけに与えられた設計図面と計画を持って、造られた存在なのです。ですから私のDNAは私だけで、同じDNAを持つ人は世界、どこにもないのです。私は神様の前で特別な存在なのです。

''第五に、神様はすべてをお言葉で造られました。''

神様は万物を創造するとき、何を持って創造されましたか。3節、6節、9節、11節、14節、20節、24節を見ると、「・・・と仰せられた。」ということばが続いています。これは神様のことばによって、すべてのものが作られたことを意味します。「光よあれ、するとそのようになった」とありますが、これは言葉の力、言葉の威力、ことばの創造力を示すものです。あの不思議な光が、お言葉一つで作られたのです。神様はすべての物事、すべての創造の力を、言葉で発揮されました。神様のお言葉には力があり、知恵があり、すぐれたものが秘められています。アインシュタインはこの神様のことばに常に関心があり、あの理論物理学が誕生したのです。ことばに関心があれば、また、言葉が私たちを感動に導くのであれば、私たちは一人一人、アインシュタインのような新発見をつかみとる人になれるかもしれません。

神様の言葉は力があります。神様の言葉は知恵があります。神様の言葉は私たちの人生を引っ張っていける不思議なものが秘められています。今回のTen Step勉強を通して、神様の言葉の力を私たち一人一人が体験できますように祈ります。

 ハレルヤ

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