#norelated
#counter
*** 2010年長崎UBF、ペテロの手紙第一、その5 --> [[問題紙>2010Peter-1-5q]] [#o9799f05]

|SIZE(20){キリストを主として}|

Messenger:MSN.David

御言葉:ペテロの手紙第一、3:1-22&br;
要 節:ペテロの手紙第一、3:15「むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」

ペテロの手紙はAD60年代の時代を背景に記録されています。今日の話の中に女性、妻が登場しますが、ペテロが生きていたローマ時代、女性はどんな地位にあったのか説明している資料は数多く存在します。例えば、二千年前のローマでは、夫人の立場は奴隷か、せいぜい子供に近い存在であったと伝えられています。お酒を飲むのも禁じられていましたし、妻が酒を飲んでいるというとことで、殺されてしまった事例が記録に残っているようです。さらに、夫は持参金を返せばいつでもどんな場合でも、離縁ができたと言われています。身近なことで、日本でも、つい60年前までは、夫人は政治に参加することは出来ませんでした。アメリカでも80年前まではもちろん女性が政治家になることは禁じられていたのです。

今日の御言葉のこのような時代背景の中に繰り広げられています。二千年前の当時の小アジア(今のトルコ近辺)のガラテヤ等の、キリスト教会で、女性がどういう立場で教会に来ていたのか、私たちはよく分かりませんが、想像してみれば、妻が夫の信じている宗教以外の宗教を信じるということは、極めて困難であったという事です。いや、むしろ考えられないことであったことが容易に分かります。その中で女性たちは教会に通っていたのです。奴隷たちは金で買い取られる時代、動物扱いされている時代、ペテロは「しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。」と言っていました。「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」

1節をご覧ください。「同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。」と言っています。奴隷の事例、しもべたちの事例を挙げて、また、キリストの事例を挙げて説明した後に、同じように、妻たちへの勧めの言葉を述べています。イエス・キリストが、罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでしたが、ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになったように、同じように、自分の夫に服従しなさい、と言っています。みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためだ、と言っています。神のものとされるとは、生かされることを意味します。生かされるとは神によるものです。生かされるとは、神様の御業が働く環境が作られるときに行われます。イエス様は徹底して、神様が働く環境に服従されたのです。同じように、生かされるのは、神様への服従によるのです。神様が働く環境を作るとき、生かされる技が行われるのです。

それは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りることから始まるのです。これこそが、神の御前に価値あるものだからです。

長崎UBFでは12弟子が生まれることを、祈りの課題としています。長崎に信仰の家庭が生まれ、長崎大学の3パーセントの学生がキリストを信じる人として生まれ変わることを祈っています。このような神様の御業は私たちの努力と力によるものではなく、柔和で穏やかな霊を持って、イエス・キリストに習って、神様がおつくりになられた全ての環境の中に従順することが求められます。妻たちは自分の夫に服従することが求められます。みことばに従わない夫であっても、そうすべきです。それをもって私よりも神様の義がまず第一に優先されるべきです。私たちの義と私たちの主張、私たちの意見が神様により支配されるとき、生かされる神様の御業が行われます。長崎に12弟子が生まれ、長崎に信仰の家庭が生まれ、長崎大学の3パーセントの学生がキリストを主として告白するのです。これこそ、神の御前に価値あるものだからです。これこそ神様の御業が働く環境だからです。

6節にはサラの事例を挙げています。サラにとって、アブラハムは自分を奴隷のように扱っていました。時には妻として、命乞いをするときには姉として、人の妻に売り出したりしていました。こんなにも情けない夫を、サラは主と呼んで、従いました。アブラハムはサラの従順により、神様の働きを受ける祝福されたものとなりました。アブラハムが祝福となったのは、サラの信仰によるものであり、神様への信頼、犠牲と従順によるものであることを、ペテロは証言しています。

妻たちへの勧めの言葉の後、ペテロは夫たちに話を戻しています。

7節をご覧ください。「同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。」夫たちには、二つのことを伝えています。一つはわきまえて妻とともに生活することです。何をわきまえるようにと言っていますか。自分より弱い器だということです。壊れやすく、傷つきやすい器であることをわきまえて生活するように、と勧めています。もう一つは、命の恵みをともに受け継ぐものとして尊敬するよう、言っています。命の恵みを受け継ぐとは、永遠の命を受けるものとして、また、継がせるものとして、神様の痕跡があるものとして、尊敬するようにと言っています。


私は結婚して、そろそろ22年目を迎えるようになりますが、考えてみれば、この二つについてわきまえが足りなかったことを、素直に認めざるをえません。むしろ、自分の弱さを分かってほしい、大人げない姿を持って妻と接したことを、今更、考えるときが多いです。また、尊敬の心が少なく、無視したり教えようとする心が多かったことを、この言葉の前にして、心から悔い改める気持ちになります。わたしはこれから、めぐりあって、何年続くか分かりませんが、命の恵みをともに受け継ぐものとして、尊敬して暮らすことを心から誓います。重みのある夫として、生まれ変わりますよう祈ります。
私は結婚して、そろそろ22年目を迎えるようになりますが、考えてみれば、この二つについてわきまえが足りなかったことを、素直に認めざるをえません。むしろ、自分の弱さを分かってほしい、大人げない姿を持って妻と接したことを、今更、考えるときが多いです。また、尊敬の心が少なく、無視したり教えようとする心が多かったことを、この言葉の前にして、心から悔い改める気持ちになります。妻とわたしはこれから、めぐりあって、何年続くか分かりませんが、命の恵みをともに受け継ぐものとして、尊敬して暮らすことを心から誓います。重みのある夫として、生まれ変わりますよう祈ります。

従順し切れない夫でも、従うように、また、妻を尊敬することで、神様の義を全うするように勧めた、ペテロは最後にこう言っています。8節をご覧ください。「最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」この言葉は、妻と夫へのお勧めの結論のようなものです。信者は悪を持って悪御報いない人として選ばれています。侮辱をもって侮辱に報いない存在として、神様に選ばれています。むしろ、信者は祝福を受け継ぐために選ばれたものです。祝福を受け継ぐとは、祝福されたことを前提にしています。信者はすでに、祝福を受けたものです。信者はすでに、祝福の中に歩いているのです。信者は、すでに、完ぺきな補償と完ぺきな見守りの中で、歩いているのです。私は、また、私の妻は、また、私の家族や私たちはみな、完ぺきな神様の見守りの中に、保障された祝福の中に生きているのです。イエス・キリストの十字架の力を信じ、神様への信頼を置いている人は、既に報いがその人生の上に働いており、確実な保証された人生を生きているのです。その人生がどんなにみすぼらしく見えても、神様のお選びには後悔がなく、神様の祝福は変わることがないのです。その祝福を、私たちは与えるものとして選ばれたのです。侮辱する人ではなく、悪を行う人ではなく、祝福を行う人として、召されたのです。

それで、ペテロは詩編の御言葉を取り上げています。「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行なう者に立ち向かう。」信者の確信はこれです。もし、私たちが善に熱心であるなら、だれも私たちに害を加えることができないこと、しかし、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。それが私たちの脅かしになり、恐れになりません。むしろ、それによって私たちの心は強くなり、訓練されます。その理由は、私たちの心の中には、十字架の苦しみと悲しみの従順により、復活ををもたらし、勝利を着飾ったイエス・キリストがおられるからです。

ザビエルは、日本に来た最初の宣教師ですが、彼がローマに送った彼の記録にこのような個所があります。「万物の創造主がおられることを伝えると、彼らはびっくりしました。しかし、世の中には悪いこともたくさんあるのだから、神は、悪いものも創るのかと食い下がったのです。いや、神は、全くの善なる方だと言うと、彼らは、もし神が善なら悪いものを創造するはずがないじゃないかと食い下がりました。また、人間が神を礼拝するためにつくられたとすれば、その人間が罪を犯しやすいのは何故かと聞きます。なぜ、人を、罪を犯さない人間につくらなかったのかと食い下がりました。」今と変わらない様子が、当時も行われていたことを示しています。当時の無知な民衆を相手に、西洋の優れた技術を見せびらかせて、キリシタンになっていったのでは、と思われると大間違いです。当時も、苦闘しながら伝道が行われたいたことが分かります。

しかし、当時、教会の指導的な立場にあったザビエルはこのように自分のことについて記録しています。「私は、日本人から言葉に尽くすことの出来ないほどの恩を受けています。神様は、日本人(という鏡)を通して、私の中に数え切れないほどの罪がある(傲慢さ?)ということを、気づかせて下さいました。自分の中に落とし穴に気づきませんでしたが、日本で多くの試練にあって目が開かれました。神様はそのようにして、私を丁寧に導いてくださって(証をすることが)することが出来たと思っています。どう考えてみても、私のような者が、日本で指導的立場に置かれるほどの指導力は全然ないのに。むしろ、私は、他のクリスチャンたちに、世話になり監督を受けるべき者なのに。」
しかし、当時、教会の指導的な立場にあったザビエルはこのように自分のことについて記録しています。「私は、日本人から言葉に尽くすことの出来ないほどの恩を受けています。神様は、日本人(という鏡)を通して、私の中に数え切れないほどの罪がある(傲慢さ?)ということを、気づかせて下さいました。自分の中に落とし穴に気づきませんでしたが、日本で多くの試練にあって目が開かれました。神様はそのようにして、私を丁寧に導いてくださって(証をすることが)することが出来たと思っています。どう考えてみても、私のような者が、日本で指導的立場に置かれるほどの指導力は全然ないのに。むしろ、私は、他のクリスチャンたちに、世話になり監督を受けるべき者なのに。」クリスチャンは処せられた環境の中で、神様の繊細な訓練項目をつかむべきです。また、善なる神様は決して無駄な環境は作りません。一人子を十字架に与えになったほど、罪びとを愛された神様は、一人ひとりの適した環境の中で、立派な主の僕として訓練されます。今の環境は神様がおつくりになられた最適なものです。

クリスチャンとしてお呼びになった信者の今の環境は、神様が関与しています。ザビエルが告白したように、私たちが心の中で、キリストを主として崇めるとき、私たちのよい行いが神様の働きを広げ、私たちを取り巻く環境が厳しく、むしろ悲しみと辛さに包まれるとしても、それは幸いなことです。われらを脅かし、恐れたりする勢力は神様によるものです。ザビエルを訓練したように、私たちに加えられた神様の動きです。心を動揺させたりしてはいけません。
クリスチャンとしてお呼びになった信者のすべての環境は、神様が関与しています。ザビエルが告白したように、私たちが心の中で、キリストを主として崇めるとき、私たちのよい行いが神様の働きを広げ、私たちを取り巻く環境が厳しくても、むしろ悲しみと辛さに包まれるとしても、それは幸いなことです。神様に目標が決まっていれば、主に心が向いていれば、われらを脅かし、恐ろしくさせるすべての勢力は神様によるものです。ザビエルを訓練したように、私たちに加えられた神様の動きです。心を動揺させたりしてはいけません。

15節をご覧ください。「むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。」
15節をご覧ください。「むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。」とペテロは忠告しています。なぜなら、キリストも一度罪のために死なれたためです。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためです。私たちの霊はイエス・キリストの御霊によって生かされます。その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられています。心の中でキリストを主としてあがめるべきです。主は私たちを、使命人として、最後には永遠の命を保障してくださいます。

キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。

霊は神様によって生かされます。

3:19 その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。

 ハレルヤ

トップ   編集 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS