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*** 2010年長崎UBF、マタイの福音書、その29 --> [[問題紙>2010Matthew-29q]] [#kc538294]

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御言葉:マタイの福音書 26章31節~75節&br;
要 節:マタイの福音書、26章39節 「それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。『わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。』」

私たちは生きている生活の基準、判断基準、歴史が動き出す瞬間の基準をどこに置くのでしょうか。松平定和さんが解説をするNHKの有名な番組「その時歴史は動いた」は、そのような歴史の動きを見つめながら、何が、その歴史の主人公だったのか、何が時代のカギを握った人物だったのかを鋭く詰めていきます。この番組が人気があるのは、誰でも、歴史の主人公になりたがる心があるからです。一時、わたしたちUBF教会では「History Maker」という言葉が良く使われていました。私も大好きな言葉でした。なんだか、この言葉を聞くと心がわくわくして、何にもしなくても、自分が歴史の主人公になったかのような錯覚を引き起こすものです。

昨日、ある離島の某小学校で、これから始まる授業の内容について、学校の先生たちと一緒に相談をする時間がありました。国のプロジェクトで大型予算が決まり、業者を巻き込んだ動きが始まり、私はすでに二度目の離島訪問となりました。プロジェクトに参加するのは、大学のお偉いさんから小学校関係者、業者、サポータなど数多くの人々ですが、対象は「子ども」です。彼らがどのようにすれば自信たっぷりの大人になっていくのか、なのです。実力あるものとして、この世に通用するものとして育て上げるのか、これがテーマなのです。「やる気」と「根性」「粘り強さ」「自信感」「チャレンジ精神」など、子どもの時に身につけさせたいものは沢山あります。しかし、これらのものが身についても、実は、この世の動きはそんなに簡単なものではないのです。すべてがチャレンジ精神と粘り強さ、やる気などで解決できるものではなく、それ以上の、不思議な動きによって成り立っているのです。経済学者は市場でのものの値段が決まることすら、このような不思議な動きについて「見えない手」があると説明しています。このような見えない手の動きを逆らって、株の値段を操作したり、独占的に市場を動かそうとする人々を、犯罪者として厳しく規制しています。

犯罪者にならず、十分な利益を得る模範的な商売をするためには、どうすればいいでしょうか。規制を逃れる方法を身につけるべきでしょうか。何が独占取引で、どこまでが法の規制にギリギリ引っかからないのかを見極めるべきでしょうか。もちろん、そのようなことも一つの方法かもしれませんが、もっとも健全な方法は、実に見えない市場の動きを綿密に調べることです。市場分析です。どうすれば市場は動き、どうすれば消費者は動くのか、どうすれば資金が動くのかを調べることです。見えない手の動きを調べることです。そこに秘訣が隠されているのです。

私たちの人生を成功に導く秘訣は何でしょうか。私たちが歴史を動かすHistory Makerになる秘訣は何でしょうか。「やる気」と「根性」「粘り強さ」「自信感」「チャレンジ精神」でしょうか。昨日、離島の子どもたちのことをを話している時、ある方は、「心の純粋さ」こそがこの世を生き抜く、離島の子供たちが持つ良さだ、と言っておりましたが、それも意味深いお話です。しかし、今日の御言葉を見ると、これらよりももっとも大事なものがあることを悟ります。それは市場が形成される、そして主観的に動かす「見えない手」を理解するように、この世を動かす方の御手を認めることである、ということです。

31節の御言葉をご覧ください。そのとき、イエスは弟子たちに言われました。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。』と書いてあるからです。」イエスさまはこれから起こりえることについて、真理の言葉をもって予言をしています。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。』言葉のように、あなたたちはみな、私のゆえにつまずくはずだと、言われたのです。それは避けられない、ものだと予言されています。なぜなら、それは真理の御言葉だからです。しかしながら、イエスさまは真理の御言葉に基づいて、蘇りを確信しています。そして、彼らが失念して帰るであろう、ガリラヤに先に行き、そこで再会することを予言しています。

33節をご覧ください。すると、ペテロがイエスに答えて言いました。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」ペテロは12弟子の中でも一番の年長者でした。他の弟子たちはまだ、若い青年でしたが、ペテロは結婚をした年配でした。ペテロは他の弟子たちに比べれば、人生経験の豊富な人物でした。ペテロは弟子たちの中でもリーダ格で、他の弟子たちには負けてない自信もありました。彼の言葉から私たちは十分に、彼の心境を読み取ることができます。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」一方、イエス様への特別な愛情と責任感さえ感じられます。頼もしいものです。思わず「有難う」と言いたくなります。しかし、34節を見ると、イエスは彼に何と言われますか。

「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」

これは何を意味する言葉でしょうか。それは人間の限界を認めるように、という言葉です。私たちはいろんな場面で、歯を噛み締めて、心の決心をし、勝利への確信を持ち続け、自分トレーニングをし、自分に勝つための努力をします。信じ続ければ、夢は叶います。夢は夢で終わることなく、実現に向けて動き出される原動力となります。しかし、私たちは錯覚することがあります。その夢を追い続けてかなえれば、それは自分の手でかなえたものと勘違いするのです。確かに、自分の手でつかんだ勝利に間違いはありませんが、実は、その夢を後ろから動かし、その目標を主管している方がいるのです。人間は夢を持つことが大事ですが、夢を実現してくださる方がいるのです。ペテロが自信たっぷりの答をもって、イエス様を守ろうとする姿勢はありがたいものですが、その結果を動かす方は別におられるのです。イエスさまはペテロはその方を認めるように、とお話されたのです。私たちが人生を計画し、強力に進めていっても、それを主管する方がいるのです。神様なのです。

しかし、ペテロはこのようなイエス様のお話にどう応えていますか。35節をご覧ください。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」ペテロは一層、声を張り上げて自信たっぷりの話をしました。どんなことがあろうとも、イエス様を知らない、などとは、決してしない決意をしたのです。ペテロの決意は固いものでした。男の決意のようです。このペテロの姿を見て、他の弟子たちもみなそう言いだしました。つまり、ペテロだけでなく、その気持ちは12名の弟子たち全員、同じものでした。

イエスさまは彼らにどのように答えましたか。36節を見ると、イエスさまは彼らをゲツセマネという所に連れて行かれました。そして言われました。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」また、イエスは悲しみもだえ始められたお姿を弟子たちに見せられました。そして、言われました。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われましたた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

イエスさまは弟子たちに祈りの戦いを教えました。イエスさまは弟子たちが心の決意を大事にされました。それと同時に、祈りの戦いを始めるよう教えたました。それはなぜでしょうか。使徒パウロも、エペソの人々に書いた手紙の中に、次のように記録しています。エペソ人への手紙6章12節「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」自分との戦いで勝利をし、心の決心が出来上がりましたら、これからは最も大事な戦いが必要なのです。それは主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。つまり、戦いは自分との戦いで終わるものではなく、見えない勢力、悪霊との戦いが待ち伏せているということです。真の勝利は、この最後の戦いにより得られる者であることを教えられたのです。その戦いは祈りの戦いです。その戦いは、神様の御心を見極める戦いです。その戦いは神様のお心を見つめる戦いです。その戦いで勝利する時、弟子たちは本当の勝利者になれるからです。

弟子たちはイエス様の教えを無視しました。その教えの真剣さが分かりませんでした。その教えの意味が良く理解できませんでした。イエスが弟子たちのところに戻って来てみると、彼らは眠っていました。イエスはペテロに言われました。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。」そして、言われました。「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」弱い肉体を克服する秘訣が何でしょうか。弱い肉体を認め、主権者である神様に祈ることです。弱い肉体を素直に認め、神様に祈りをもって近づくことです。私たちがなぜ、心配しますか。自信がありませんか。人の目を意識しますか。それは根本を探ってみると、弱い肉体を認めないことから始まります。神様を認めないことから始まります。私たちはどのようにすれば、自信あふれる人生を生きることができますか。どのようにすれば心配を乗り越えて、人の実を意識しない人生を営むことができますか。弱い肉体を認めることです。そして、神様を認め、信じることです。そして、祈り始めることです。それは幸福な人生の始まりなのです。

イエス様の祈りは続けています。42節をご覧ください。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」また、三度目の祈りをされました。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」イエスさまは祈りの確信があるまで、祈り続けました。神様の御心を見極めるまで祈り続けました。神様の願いを確信するところまで、祈りました。神様から確信が得られるまで、粘り強い祈りをしました。

それから、45節、イエスは弟子たちのところに来て言われました。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」イエスさまが、祈りをもって、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に勝った時、イエス様の心には真の勝利に包まれました。裏切るものを恐れず、十字架を受け入れる勝利者になりました。
それから、45節、イエスは弟子たちのところに来て言われました。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」イエスさまが、祈りをもって、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に勝った時、イエス様の心には真の勝利に包まれました。裏切るものを恐れず、飲みたくなかった杯である十字架をも受け入れる勝利者になりました。いくら真実をもって決心しても、素直な気持ちを持って夢を持ち続けても、かたい決心を持って自決を誓っても、さらには、私たちが血肉の格闘でもって勝利をしたとしても、私たちには「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対する」戦いが残っています。この戦いの勝利は、聖霊にあり、イエス・キリストにあります。祈りを以て獲得できる上様のものです。イエス様の勝利は、祈る者への勝利を約束します。イエス様の勝利は聖霊に頼る人への勝利の約束です。

しかし、祈りをしなかったペテロは鶏が鳴く前に三度、イエス様を知らないと言いました。
しかし、聖霊に頼ることを怠り、誓った熱意と決心、心の熱い思いを大事に考え、祈りをしなかったペテロは鶏が鳴く前に三度、イエス様を知らないと言わざるをえませんでした。イエス様は言われます。「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」心は燃えても、私たちの体は弱いものです。心は燃えていても、私たちの体は祈りを以て神様の助けを要請すべき存在です。所詮、人間であることを、私たちは忘れてはいけないのです。心に祈りがたゆまない時、聖霊の働きがあるとき、勝利者のイエス様が共にする時、私たちは勝利を手にすることができます。

神様、私たちが自分の願うものではなく、あなたの御心のようになるよう祈りし、勝利を収めることができるよう、助けてください。



26:47 イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二弟子のひとりであるユダがやって来た。剣や棒を手にした大ぜいの群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、民の長老たちから差し向けられたものであった。&br;26:48 イエスを裏切る者は、彼らと合図を決めて、「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ。」と言っておいた。&br;26:49 それで、彼はすぐにイエスに近づき、「先生。お元気で。」と言って、口づけした。&br;26:50 イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか。」と言われた。そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕えた。&br;26:51 すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。&br;26:52 そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。&br;26:53 それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。&br;26:54 だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」&br;26:55 そのとき、イエスは群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしをつかまえに来たのですか。わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕えなかったのです。&br;26:56 しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現するためです。」そのとき、弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった。




26:57 イエスをつかまえた人たちは、イエスを大祭司カヤパのところへ連れて行った。そこには、律法学者、長老たちが集まっていた。&br;26:58 しかし、ペテロも遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の中庭まではいって行き、成り行きを見ようと役人たちといっしょにすわった。&br;26:59 さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える偽証を求めていた。&br;26:60 偽証者がたくさん出て来たが、証拠はつかめなかった。しかし、最後にふたりの者が進み出て、&br;26:61 言った。「この人は、『わたしは神の神殿をこわして、それを三日のうちに建て直せる。』と言いました。」&br;26:62 そこで、大祭司は立ち上がってイエスに言った。「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」&br;26:63 しかし、イエスは黙っておられた。それで、大祭司はイエスに言った。「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」&br;26:64 イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」&br;26:65 すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「神への冒涜だ。これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、今、神をけがすことばを聞いたのです。&br;26:66 どう考えますか。」彼らは答えて、「彼は死刑に当たる。」と言った。&br;26:67 そうして、彼らはイエスの顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ、また、他の者たちは、イエスを平手で打って、&br;26:68 こう言った。「当ててみろ。キリスト。あなたを打ったのはだれか。」




26:69 ペテロが外の中庭にすわっていると、女中のひとりが来て言った。「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」&br;26:70 しかし、ペテロはみなの前でそれを打ち消して、「何を言っているのか、私にはわからない。」と言った。&br;26:71 そして、ペテロが入口まで出て行くと、ほかの女中が、彼を見て、そこにいる人々に言った。「この人はナザレ人イエスといっしょでした。」&br;26:72 それで、ペテロは、またもそれを打ち消し、誓って、「そんな人は知らない。」と言った。&br;26:73 しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる。」と言った。&br;26:74 すると彼は、「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。&br;26:75 そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。


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