#norelated
#counter
*** 2009年長崎UBF、マルコの福音書、その1 --> [[問題紙>2009MarkGospel01q]] [#zfd23fc9]
&br;
|SIZE(20){神の子イエス・キリストの福音のはじめ}|

Messenger:MSN.David

御言葉:マルコ1:1-13&br;
要 節:マルコ1:10-11「そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。そして天から声がした。『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』」

マルコの福音書は福音書の中でも一番早く書かれたとものと思われています。特に、マルコの福音書はユダヤ人のためにではなく、ローマの人々、異邦人のためにローマで、あるいは初めての異邦人のための教会、アンテオケで書かれたとも推察されています。初代の教父・ペテロのメッセージを通訳していたマルコは、ペテロが殉教した後、ペテロの伝えていた福音を真実にまとめたものだとも言われています。歴史的にユダヤ教の影響のない人々に置いて必要な、最適な福音の教科書であるとも言われています。UBFを始められたSamuel H. Lee宣教師は「UBFの難しい時ごと、神様はマルコの福音書を通じて恵みをくださいました。」との証言を聞いたことがあります。マルコの福音書を勉強しながら、日本のような難しい福音の荒野で、恵みの力を得ますように祈ります。

''I. 福音の初め''

1節をご覧ください。「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」マルコは、この著書のはじめに「福音のはじめ」について記録しています。この著書で語りたいことは「福音」なのですが、どのような福音かというと、神の子イエス・キリストの福音、であると記しています。福音とはGood Newsを意味します。つまり「良い知らせ」のことです。良い知らせとはいろいろあるでしょう。受験生にとっては合格の知らせであり、WBCに参加した野球選手にとっては優勝の知らせでしょう。元々の言葉は「ユアンゲリオン、Euaggelion」と書いてあって、戦争で勝利を伝える「勝利のメッセージ」、または「それに付帯する補償等」を意味したものです。戦争での処理は平和を意味し、多くの財産と奴隷の獲得を意味します。しかし、マルコはそのユアンゲリオンの、「神の子イエス・キリストバージョン」を記録しています。16章にまたがるマルコの福音書の中で、マルコは、神の子イエス・キリストが「福音」であることをしっかりと記録しています。16章にまたがる長い記録の中で、今日は序論に当たります。

2-4節をご覧ください。マルコはまず、イエス・キリストの福音・イエス・キリストによるユアンゲリオンを説明するために、旧約聖書のイザヤ書を取り上げています。旧約聖書とは預言者たちによって書かれた神様のお約束のことで、預言者イザヤの書にはこう書いてあります。「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』と。」そのお言葉とおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いていました。この事実は、当時の人々がが目撃したもので、彼らの時代の話題の一つでした。秘密でない事実であり、聖書に書かれた神様のお約束の実現でした。そのとおり、荒野で叫ぶ者の声がしていました。バプテスマのヨハネの出現は、彼らを驚かせるものでした。バプテスマのヨハネは徹底して聖書の預言通りに過ごしていました。徹底して聖書の言葉に沿って生きていました。バプテスマのヨハネの生活は、聖書の実現を物語る証拠でした。バプテスマのヨハネはヨルダン川に現れて、「罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いて」いました。つまり、罪が許されるためには、罪を告白して、バプテスマを受けるべきだ、と説明しました。それで、ヨハネは誰にでも、罪の指摘と罪の告白を要求しました。それがどのような人であろうとも関係ありませんでした。当時の王様だった「ヘロデ」にも例外にされませんでした。ヘロデの罪をことごとく指摘し、その罪を告白して、罪が許されるためのバプテスマを受けるよう、要求しました。

5節をご覧ください。「そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。」とあります。彼のメッセージはユダヤ全国の人々に感銘を与えました。彼の人間の罪の問題意識と、悔い改めによる赦しの救いは、全住民に感動を呼びました。人々は彼のところに行き、自分の罪をことごとく告白しました。そして、ヨルダン川で行われるバプテスマの儀式に参加しました。水によるバプテスマの儀式を受けた人々は新しい人生への誓いを決心しました。このヨハネをヨハネらしくしたのは、彼の生活ぶりでした。6節をご覧ください。「ヨハネは、ラクダの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。」とあります。ヨハネは荒野で、自然の恵みだけに頼り、生活していました。何一つ、叱られる所のない彼の生活ぶりに、人々は感動を呼びました。人々は彼が「神様がお約束したメシア」かもしれないと考えるほどでした。当時の王様が、恐れるヨハネは、まるでヒーローでした。憧れの人でした。

普通、注目を集めるようになると、人間は高慢になります。メシアではなくても、まるで自分がメシアになったかのように錯覚します。今でも、自分が時代のヒーローであり、救い主であると自称している人々がいます。ある国の統計によれば、一つの国に神様と自称している人が7名、自称・キリストだとしている人が30人を超えていると言っています。日本でも新興宗教の教祖はみんな、時代のヒーローであり、神様であり、キリストだと主張しています。しかし、ヨハネはどうだったのでしょうか。

7-8節の御言葉をご覧ください。ヨハネは宣べ伝えて言いました。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」ヨハネは積極的に、後から来られる力のある方、キリストを証言しています。そして、自分自身、あの方に比べると、靴のひもを解く値打ちもない、と説明しています。靴のひもを解くのは奴隷であるしもべの仕事です。当時のヒーロー、ヨハネは自分があの方に比べると、あの方の奴隷になる資格さえもないと説明しています。その根拠が何ですか。8節をもう一度ご覧ください。「私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」

当時、水のバプテスマは素晴らしいものでした。驚く活動でした。罪を告白させ、水によるバプテスマを持って人々の新しい人生を出発させるヨハネの活動は、人々に感動を与えました。涙を持って罪を告白させ、人々を生かす神の業でした。やりがいのある、誇らしい活動でした。多くの人々が水のバプテスマにより人生が新しくなり、新しい人生を営むようになりました。聖書はその活動ぶりを、ユダヤの全国から人々が集まってきたこと、さらには、エルサレムの全住民がみんな、この水によるバプテスマを受けていたことを記録しています。どれだけ、水によるバプテスマの活動が当時の人々に受けていたのかを説明しています。しかし、ヨハネはこのような活動の張本人として、その活動を誇るより、次のように言ったのです。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」

水によるバプテスマは、水を浴びることです。水を浴びると、私たちはすっきりします。涙を持って罪を告白し、水を浴びるバプテスマの儀式は、人々をすっきりさせるものがあります。聖霊のバプテスマは同じく、聖霊によるバプテスマを意味します。聖霊によるバプテスマは私たちを、心から燃えさせます。涙を持って罪を告白し、聖霊のバプテスマを受ける時、私たちはワシのようになります。力強く空に飛び、餌を探すものとなります。詩篇の103篇5節には、このような人生のことを次のように記録しています。「あなたの一生を良いもので滿たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。」聖霊のバプテスマを受ける人は、ワシの若さの力を得るのです。ヨハネは聖霊のバプテスマを求めていたのです。救い主、福音を求めていたのです。イエス・キリストを待っていたのです。

''II. キリストの出現と訓練''

9節をご覧ください。そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになりました。ヨハネのバプテスマはイエスをヨルダン川に導きました。そして、10-11節をご覧ください。「そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。そして天から声がした。『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』」ヨハネのバプテスマは、イエス様に神の子としての確信をもたらしました。水のバプテスマにより、イエスさまは神の子としての確信ある御声を聞きました。

水のバプテスマは形式だけのものかもしれません。水のバプテスマは聖霊のバプテスマのひな型かもしれません。しかし、水のバプテスマはイエス様をガリラヤのナザレから、ヨルダン川に導いたものです。水のバプテスマはイエス様を、神の子としての確信をもたらせたもんどえす。日曜日の礼拝は水のバプテスマのようなものです。修養会の集会は水のバプテスマのようなものです。しかし、水のバプテスマの後に、聖霊のバプテスマがあります。水のバプテスマにより聖霊のバプテスマがもたらされるのです。形と形式を無視しては、聖霊のバプテスマもないのです。イエス・キリストの出現は、水のバプテスマによるものです。つまり、イエス・キリストの出現は神様によるものです。現在行われている、主の御業によるものです。現在行われている、私たちの間の、主の御業によるものです。長崎大学で、私たちのセンターで、私たちの間で行われている神様の御業、これを通して、イエス・キリストの出現があり、聖霊のバプテスマががあるのです。現在、私たちにある主の業を感謝し、真実に仕える時、私たちは神様の業に仕え、さらに、聖霊のバプテスマを受ける祝福を受けるようになります。

12節をご覧ください。「そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。」とあります。これはイエス様が水のバプテスマを受けて、神の子としての確信を受けてから、すぐ、御霊により、イエス様が荒野に追いやられたことを記録しています。御霊がなぜ、イエスさまは荒野に追いやられたのでしょうか。追いやられたとは十分に故意的なところが見られます。御霊は故意的に、主のものとしての確信をもったイエス様を、荒野に追いやられたのだと記録しています。神様の子どもとしての確信と、神様の御言葉を受けたものを、何故、御霊は故意的に、荒野に追いやられたのでしょうか。荒野での生活ぶりを、13節でマルコはこう記録しています。「イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。」

イエスさまはサタンの誘惑の中にいました。サタンの誘惑とは、神の子どもとしての確信を疑うようにする誘惑でした。神の子としての確信を持っていたイエスさまは、「それはうそだよ。それは勘違いだよ。本当だったら建物の上から下りてみて、試してこらん。」など、疑いの誘惑を受けていました。神のものとしての確信があったとき、イエスさまはサタンの誘惑にさいなまれていました。また、イエスさまは野の獣と一緒でした。獣は怖いものです。衝動的な動きを取るもので、いつ食われるか、いつ傷つけられるかわからない、厳しい環境の中にいたことを意味します。人の助けを受けることがなく、人との相談もする環境ではなかったことを意味します。誰一人、味方になってない厳しい試練の中に追いやられていたことを意味します。しかしながら、聖書は一つ、大事なことを記録しています。それは、「野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。」という記録です。これは、イエスさまが試練の時に、イエスさまが訓練の時に、徹底して御使いに助けを求めていたことを意味するものです。イエスさまはこのとき、御使いの助けを確信されたのです。御使いの仕えを肌で感じ取ったのです。

わたしたちは水のバプテスマを受けた後、イエスさまのような荒野の生活を始めます。私たちはその時に、イエスさまのように、野の獣とともにいる自分自身を見つけるべきです。サタンにさいなまれていることを認めるべきです。しかしながら、その中でも御使いたちが私たちの一つ一つの行動や悩みとともにしていることを確かめるべきです。体で体得すべきです。あたえられた御言葉を確信を持ってつかみ続けるべきです。その時、私たちは、神様が私たちに与えられた使命を全うすることができます。神様の使命を受け取ることができます。

旧約聖書のお約束通り、福音をお送りくださいました神様、その福音を確かなものとするために、荒野に追いやられた神様、その中で、御使いの助けを確信を持って体得したイエス様を、この時間学びます。私たちが一人一人、Little Jususとして、この時代、出現を喜びとし、訓練を喜びとし、御使いを発見する祝福されたものとなりますように、祈ります。

 ハレルヤ

トップ   編集 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS