[[2010NewYear02m]]
|SIZE(20){借りた家で}|

借りた家で

御言葉:使徒の働き28:11-31

要節:使徒の働き28:30、31 こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。 

メッセージに入る前に、私が尊敬するある先輩宣教師をご紹介したいと思います。彼は、29歳に牧者になり、41歳に宣教師として遣わされました。約20年間宣教活動に励み、七つのセンターを開拓しました。独身宣教師でした。眼が悪く、苦労したそうです。約6年間は、刑務所で生活しました。最後は、首がはねられ殺されました。誰でしょうか。はい、そうです。彼は本文に出ている、使徒パウロです。 

使徒パウロは世界宣教歴史において、基礎を置いた人です。使徒パウロほど世界宣教に大きく貢献した人はいないでしょう。使徒パウロほど、世界宣教で多くの実を結んだ人はいないでしょう。まさに、使徒パウロは宣教師達の模範となっています。特に、平信徒宣教師でしたので、我々にはもっと励みになります。私達には、使徒パウロのような、世界宣教への情熱があります。また、多くの実を結びたい、という切なる願いがあります。 

それでは、パウロの情熱は、どこから来たのでしょうか。パウロが多くの実を結んだ秘訣は、何でしょうか。 

''Ⅰ.イスラエルの望みのために(1-20)''

1~16節をご覧ください。ここには、パウロがローマに入るまでの道筋が記されています。ただし、本文の地名はなじみがなく、私達の心に伝わってきません。距離を換算して、日本の地図に置き換えてみると、次のようになります。パウロ一行は中国の香港から東京へ向かっていました。ところが、台湾付近で台風に会い、漂流しました。船が暗礁に上げられて難破しましたが、四国の高知に無事に上陸することができました。四国の高知で3ヶ月間過ごし、出帆しました。和歌山港、津港、浜松港、清水港に寄港し、最後は横浜港に入港しました。慶応センターの牧者たちに会い、勧められるままに慶応センターで七日間滞在し、東京へ向かいました。すると、何と東京センターから牧者たちが出迎えに来てくれました。ちょうど川崎市で出会いました。東京センターの牧者達を見たパウロは、神様に感謝し、勇気付けられました。今日でも、このような旅ならば、相当疲れます。さらに、当時パウロは58歳だったため、もっと大変だったと思われます。 

16節をご覧ください。パウロは、三日間ゆっくり休み、健康を回復しました。三日の後、パウロは働き始めました。それは、釈放されるための働きではありません。ユダヤ人たちに福音を証するためでした。パウロはユダヤ人のリーダー達を呼び集め、自分が無罪であることを説明しました。やむをえずカイザルに上訴しており、ユダヤ人たちを訴えようとしたのではないと説明しました。これによって、パウロに対する誤解は解けました。 

それから、パウロは本論に入り、ユダヤ人達を招いた理由を話し始めました。20節をご覧ください。一緒に読んでみましょう。「このようなわけで、私は、あなたがたに会ってお話しようと思い、お招きしました。私はイスラエルの望みのためにこの鎖につながれているのです。」パウロは自分の手につながっている鎖を持ち上げました。鎖は、さびた鉄の鎖であり、呪われた囚人の象徴でした。 

ところが、パウロは喜びに満たされて、その鎖を持ち上げました。そして、叫びました。「イスラエルの望みのために、この鎖につながれているのです。」「イスラエルの望みのために、この鎖につながれているのです。」「イスラエルの望みのために、この鎖につながれているのです。」ここで、イスラエルの望みとは、イスラエルの民達が待ち望んでいたものです。イスラエルの12部族は、夜も昼も熱心に神様に仕えながら、神様の約束を待ち望んでいました(使徒16:6)。その約束とは、「救い主・メシヤ」が来られることです。イスラエルの民達は、約2000年間も、その約束を待ち望んでいました。特に、時代が暗くなるほど、その望みはもっと強くなりました。その望みは、やがてイエス・キリストが来られることによって、完成されました。イエス様の十字架と復活によって、すべての罪が赦され、永遠の命が与えられました。一言で、イスラエルの望みとは、イエス・キリストのことです。 

パウロにとって、「イスラエルの望み」は特別な意味を持っています。パウロは、イエス様を迫害していた、サタンの奴隷でした。国内の迫害で気が済まず、シリヤのダマスコにまで向かっていました。その時、中東の太陽より強い光が、パウロを照らしました。そして、よみがえられたイエス様の御声が聞こえました。「サウロ、サウロ、何故私を迫害するのか。わたしは、はあなたが迫害しているイエスである。・・・・わたしは、あなたを異邦人のところに遣わす。(使徒26:15-18)」と言われました。イエス様は、パウロの罪を赦されました。更に、迫害者だったパウロを、使徒と任命されました。そして、「異邦人の光」として遣わされました。パウロにとって、それは言い表せない大きな恵みでした。 

その日の感動を、パウロは一生忘れることができませんでした。そして、その恵みを証ししなければ気が済みませんでした。「イスラエルの望み」であるキリストを証すること、これがパウロの生きる目的となりました。パウロは、翌日から、すぐ宣教師となりました。「イエス様こそ、イスラエルの望みである」と証し始めました。ダマスコにて、エルサレムにて、トルコにて、ギリシャにて、証し続けました。しかし、その宣教旅行は、苦難の連続でした。ユダヤ人から「39回の鞭」を5回も受けました。ローマ市民権を持っているのに、「ローマの鞭」で3度も打たれました。石で1度打たれました。一昼夜海の中で漂ったこともあります。泥棒に会ったこともあります。寒さに凍えたこともあります。裸でいた経験もあります。それでも、パウロは決してくじけませんでした。それは、「イスラエルの望み」を証しする任務があったからです。その任務を果たし終えることができるなら、パウロは命も惜しまない、と語っています(使徒20:24)。「イスラエルの望み」を証すること、これがパウロの人生を燃やした原動力でした。 

ローマに着いてからも、パウロの状況は変わりませんでした。現実を見ると、パウロは刑務所に入っている囚人に過ぎませんでした。パウロには24時間、番兵が付いていました。番兵の手とパウロの手は、鎖でつながっていました。トイレも一緒、食事も一緒、寝るときも一緒でした。普通の人ならば、24時間、鎖につながっていると、気が狂ってしまいます。いらいらします。何とか早く自由になろうと、もがきます。鎖さえなければ、いいな、と思います。しかし、パウロは現実に対してつぶやきませんでした。むしろ、現実を喜んで証ししました。「私はイスラエルの望みのためにこの鎖につながれているのです。」パウロにとって、鎖は呪いの象徴ではありませんでした。鎖のお陰で、ローマまで来ることができたからです。鎖のお陰で、ローマの人々に福音を伝えることができたからです。だから、パウロにとって、鎖は、イエス様の導きの記しでした。 

私達にとっても、パウロのような鎖があります。一言で言えば、辛い現実です。私にとっては、辛い職場生活です。今年は、100年一度の不況によって、毎日が緊張の連続でした。生産量が40%以下に落ちてしまい、赤字になりました。もし、来年も赤字になると、リストラに走ると予測されます。私の上司は、そのストレスを私にぶつけて来ました。毎日、酷く怒られました。「やること、なすこと、全部が失敗だ。センスが悪すぎる。このままでは、首が危ないよ。」毎日、こう怒られると、ストレスが爆発するところまで行きました。上司の顔を見ることすら嫌になりました。会社に行きたくありませんでした。どこかに失そうしたい、という気持ちが生じました。でも、不況ですので、行くところがありませんでした。 

しかし、使徒パウロを見ながら、悔い改めるようになりました。上司に耐えられることは、「イスラエルの望みのために」与えられたものでした。この上司のお陰で、日大の学生たちに仕えることができます。この上司のお陰で、日本宣教に仕えることが出来ます。さらに、この上司のお陰で、神様に叫び求めることになり、信仰が強くなります。私が、パウロのように、鎖を感謝する生活が出来るように祈ります。イエス様は、私を情欲と無気力から救ってくださいました。そして、1997年に、三島開拓のために、遣わしてくださいました。三島センターから世界に宣教師達を遣わす、という大きなビジョンを与えてくださいました。この恵みとビジョンを考えると、辛い上司は尊いものです。私が、救いの恵みとビジョンを覚え、パウロのように告白します。「私はイスラエルの望みのために、この鎖につながれているのです。」 

''Ⅱ. 借りた家で (21-31)''

21~22節をご覧ください。イスラエルの望みのためにパウロは燃えていましたが、ユダヤ人達は冷静でした。パウロについて報告がないこと、パウロが伝える宗派が非難されていることを話し出しました。そこで、彼らは日を定めて、さらに大勢でパウロの宿にやってきました。パウロはイスラエルの望みについて、朝から晩まで語り続けました。神様の御国のことを証ししました。また、モーセの律法と預言者たちの書によって、イエス様のことについて彼らを説得しようとしました。 

ところが、ある人々はパウロの語ることを信じましたが、ある人々は信じようとしませんでした。彼らの心はまるでコンクリートの道のようでした。御言葉の種を蒔いても、反応がありませんでした。彼らには、メシヤに対する先入観がありました。メシヤが来られると「メシヤ王国」が建設され、イスラエルがダビデ王国のように強くなる、と言う期待感がありました。また、2000年間持って来た、選民としてのプライドがありました。ですので、罪を悔い改めることができませんでした。 

イスラエルの望みを拒んでいるユダヤ人達を見て、パウロの気持ちはどうだったでしょうか。大きなため息が出たことでしょう。パウロはユダヤ人であり、誰よりもユダヤ人たちを愛していました。自身が呪われても良いから、ユダヤ人たちが救われることを、願っていました(ローマ9:3)。しかし、残念ながら、パウロの願いはかないませんでした。パウロの同胞達は、福音を断り、去っていきました。パウロの心は悲しみでいっぱいだったことでしょう。それでは、パウロは悲しみをどのように乗り越えましたか。 

まず、パウロはユダヤ人達にさばきのメッセージを伝えました。25節をご覧ください。パウロは、ユダヤ人たちの鈍い心、遠い耳、つぶっている目を指摘しました。その原因は、彼らの高慢さでもあるし、神様の摂理でもありました。神様は、高慢なユダヤ人たちを裁きにおかれました。そして、ユダヤ人に代わって、異邦人に、救いの恵みを与えようとされました。使徒パウロは、神様の摂理を悟り、それに従って、宣教の方向を異邦人へ変える、と決断しました。これによって、ローマ宣教は、ユダヤ人への宣教から、異邦人への宣教に、ベクトルが変わりました。また、キリスト教はユダヤ教の一部宗派ではなく、民族を超えた宗教に、広がるようになりました。 

次に、パウロは宣教方法を変えました。30、31節をご覧ください。一緒に読んでみましょう。「こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、訪ねて来る人たちをみな迎えて、大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」とあります。パウロは、借りた家で、聖書を教える戦略に変えました。教える対象は、訪ねてくる人たちでした。パウロは囚人ですので、いつも番兵達がパウロの家に訪ねてきました。ある時は、皇帝の親衛隊の隊長が見に来ました。ある時は、釈放された囚人達が会いに来ました。ある時は、ユダヤの文化に興味を持った大学生が寄って来ました。ある時は、ヘブライ語に興味があるお母さんが来ました。ある時は、金に困った旅人が助けを求めにきました。様々な理由で、様々な人がパウロの家を訪ねて来ました。パウロは、訪ねてくる人を、一人も断りませんでした。喜んで、皆を迎えました。「Welcome! Welcome!」 

パウロの教えの特徴は何でしょうか。31節を、もう一度、ご覧ください。「大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」パウロは、神様の御国と主イエス・キリストについて教えました。かつて、パウロはユダヤ人達を説得しようとして、複雑に教えました。残念ながら、その結果は失敗で終わりました。メッセージが複雑になると、聞く人も複雑になるだけでした。そこで、パウロは、説得するメッセージを止めました。聖書を分かりやすく教えました。パウロの教えのポイントは、イエス様の十字架と復活と再臨でした。パウロは、大胆に、教えました。相手がローマの公務員であっても、おばさんであっても、パウロは気にしませんでした。若者であっても、年寄りであっても、気にしませんでした。「イエス様を信じなさい。信じれば、救われます。永遠の命が与えられます。信じなければ、地獄に落ちます。信じますか。この場で決断しなさい。」と大胆に伝えました。 

パウロがこのように大胆に伝えられた理由は何でしょうか。パウロの気が強かったからでしょうか。パウロの声が大きかったからでしょうか。そうではありません。パウロに、確信があったからです。パウロには、福音の力に対する確信がありました。福音を教えると、必ず生まれ変わる、と信じていました。弟子として成長し、信仰のアブラハムとして成長すると信じていました。もちろん、白い目で見られるときもありました。教えに反発し、逃げられるケースもありました。しかし、パウロは、イエス様の十字架と復活に対する確信が、揺れませんでした。その確信は、パウロ自身がダマスコの途上で体験したものです。その確信は、アジアとギリシャの宣教旅行で体験したものです。世界どこに行っても、パウロが伝えた神様の御国とイエス様の十字架には、力がありました。一人を救い、一つの家庭を救う力がありました。その地域を救い、その国を変える力がありました。パウロは告白しました。「福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です(ローマ1:16b)」と告白しました。ですので、それほど大胆に、伝えることができました。 

一方、パウロが行った、借りた家での聖書勉強は、効率が悪く感じられます。訪ねてくる人が少ないからです。しかし、ここには神様の知恵が隠れています。一つは、未来の指導者を育てることが出来ることです。一つの国を動かすのは、10人のリーダーである、と言われています。10人の優れたリーダーさえいれば、その国は正しい方向に動いていきます。逆に、悪い10人のリーダーがいれば、その国は滅びていきます。リーダーを育てる方法は、人格的に教え、訓練することです。神様は、25年間もアブラハムを教え、訓練されました。それによって、アブラハムの内面が変わり、信仰の先祖として成長しました。イエス様は、3年半の間、ペテロを教え、訓練されました。それによって、ペテロの内面が変わり、立派な使徒として成長しました。同様に、パウロも、借りた家で、訪ねて来る人を人格的に教え、訓練しました。パウロは、一人の弟子養成がローマを変える、と信じていました。それで、一人に聖書を深く教え、悟らせました。聖書を信じ、聖書に従うように助けました。キリストのためには、殉教まできるように、教えました。その結果、2年の間、看守達が立派な弟子として育ちました。皇室の貴族達も立派な弟子として育ちました。ここで、育ったリーダー達は、後にローマ宣教に尊く用いられるようになりました。 

もう一つ、借りた家での聖書勉強は、教会のシード(種蒔き)になります。時になると、借りた家で、一人がイエス様を信じ、新しく生まれます。その人がイエス様の弟子として、信仰のアブラハムとして成長します。そこから、信仰の家庭が作られます。信仰の家庭が増えると、借りた家は狭くなります。すると、教会を建てることが出来ます。そういう訳で、借りた家は教会のシード(種蒔き)になります。 

パウロは、このようなビジョンを持ち、一人との聖書勉強を大事にしました。パウロも人間ですから、休みたい、プライバシーを守りたい、という気持ちがあったでしょう。のんびりテレビを見たい、のんびり本を読みたい、のんびり囲碁を打ちたい、という気持ちがあったでしょう。しかし、パウロは自分のプライバシーを捨てて、借りた家を神様に捧げました。24時間、バイブルセンターとして捧げました。なぜならば、パウロには、将来のリーダーを育てる、という大きなビジョンがあったからです。将来に、大きな教会を建てるというビジョンがあったからです。そのビジョンが溢れた時、借りた家はみすぼらしい部屋ではなくなりました。その部屋はユダヤ人たちの会堂よりも、立派な建物になりました。その部屋はツラノ講堂よりも、立派な建物になりました。その部屋は大きな教会よりも、立派な建物になりました。その部屋から、将来の夢が実現されつつあったからです。実際に、パウロのビジョンは250年後に実現されました。キリスト教を迫害していたローマが、キリスト教を国教として認めるようになりました。ヨーロッパ全体に、キリストの春が訪れてきました。そして、全世界に福音が広がるようになりました。 

パウロは、その未来を夢見ながら、鎖につながっている看守に、心を込めて聖書を教えました。遊びに来る一人を歓迎し、厚くもてなしました。そして、心を込めて聖書を教えました。パウロは、環境を言い訳にしませんでした。パウロは、どんな状況の中でも、1:1聖書勉強さえ出来れば、感謝しました。逆に、1:1聖書勉強が出来るように、環境を作っていきました。ですので、刑務所での2年間は辛い期間ではなく、感謝と喜びに満たされた期間でした。 

我々UBFは、「借りた家での聖書勉強」を真似しています。日本UBFを見てもそうです。東京センターは立派な教会になっていますが、残りの14センターは借りた家です。私達は忙しくて、多くのことは出来ません。しかし、家に訪ねて来る人と聖書勉強することは出来ます。パウロと比べると、私たちには、より多くの自由があります。自由に会社にいけます。自由にキャンパスにいけます。自由に、人々を招くことができます。いくら忙しくても、毎週、一人を家に招くことは出来ます。そして、遊びに来る人と親しくなることが出来ます。時になると聖書を教えることもできます。それが積み重なると、弟子を育て、リーダーを育てることが出来ます。そして、使徒の働き29章に一行を書き残すことができます。 

「借りた家での聖書勉強」は、三島センターが追及しているモデルでもあります。日大には、韓国語に興味を持っている学生が多くいます。サラ宣教師が韓国語を教えているからです。自然に、家に遊びに来る学生も増えています。その中で、大木と福田兄弟は、韓国語で子供聖書を少し勉強しました。すると、神様の導きがあり、12月20日には聖誕礼拝に参加しました。サラ宣教師と私は嬉しくて、仰天しました。この出来事は、神様が私達に与えてくださった、サインだと感じられました。これまでは、一つの家庭には限界があり、羊に仕えることが難しい、と思っていました。環境を言い訳しながら、弟子養成の御業から離れていました。「忙しいから。同労者がいないから。羊達が無関心だから。」と思っていました。しかし、二人の小さな変化を見ながら、ビジョンを持つようになりました。「借りた家」でも、十分可能性がある、と信じるようになりました。パウロは58歳の年なのに、借りた家で聖書を教え、ローマ宣教に仕えました。私はわずか43歳に過ぎません。これから、25年は「借りた家で」聖書を教えることが出来ます。私の家庭が、使徒パウロを見習い、家庭をオープンし、遊びに来る学生達に仕えることが出来るように祈ります。そして、1:1聖書勉強に励むことにより、日本宣教に貢献できるように祈ります。 

日本全国の「借りた家でも」、同様な御業が起こるように祈ります。訪ねて来る羊達が宣教師達と親しくなり、聖書を勉強し、リーダーとして成長できるように祈ります。それで、「借りた家での聖書勉強」が、使徒の働き29章に、いっぱいに書かれるように祈ります。 

結論です。パウロは58歳の老人で鎖につながれている囚人でした。しかし、パウロは環境を言い訳にしたり、くじけたりしませんでした。イエス様から頂いた恵みと使命を覚え、情熱に燃えていました。「私はイスラエルの望みのために、この鎖につながれているのです。」と告白しました。また、「借りた家」で一人一人に聖書を教え続けました。その結果、立派な信仰のリーダー達を育て、ローマ宣教、世界宣教に貢献することができました。私達も、パウロのように、救いの恵みと使命を覚え、情熱に燃えることができるように祈ります。「借りた家」で、こつこつ一人に聖書を教えることにより、教会のシードを蒔くことができるように祈ります。それで、日本47都道府県に、立派な教会が建てられるように祈ります。また、アジア47ヵ国に宣教師を遣わすことができるように祈ります。


トップ   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS