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* 序論 [#j237f961]
安息日は教会史の中でも深刻な論争の対象となってきた。特に、旧約・ユダヤ教の安息日がキリスト教の主日とどのように関連しているのかがそれです((ヤン・ヨンイ:イエスと安息日・それから主日、ソウル・イレ書院、2000、p.15.))。安息日はイエスの時代にも論争されていましたが、初期・キリスト教との間でも同じく論争の対象でした。例えば、コロサイ2章16-17節、ローマ14章5-6節、ヘブル4章1-11節がその一例である。しかし、本論文ではこのような論争について考えることではなく、安息日の正しい聖書的な概念を理解するとともに、安息と宣教の関係について調べ、これを宣教地に適用することにより、宣教師たちのまことの安息をもたらすことに焦点を当てようとしています。

宣教師たちの安息について問題意識を持つことになったのは筆者が20年余り、宣教地を訪問しながら宣教師たちの安息の必要性を切実に感じたためです。平信徒の専門家によるミッションは今日、新しい宣教のパラダイムとして注目されています。私たちの集まり(UBF)は1961年から現在に至るまで平信徒の専門家によるミッションを担ってきているが、現在は大学生たちに福音を伝え、弟子養成によりその国の霊的な指導者として育てる歴史が世界各国で活発に行われいてます。一般的に、今までの宣教師の概念は教団からの支援を受け派遣された宣教師たちが地域によっては異なるが、4年ないしは7年に一度の安息年を持ち、再充電の機会を持っています。しかし、私たちの集まりは平信徒の専門家集団によるミッションであるがために安息年を持つのは厳しいのです。職場を持っていたり、ビジネスをしているので長期間休暇を取るのは不可能に近いし、職場生活をしながらの休暇はほとんどを聖書学校や修養会などに使うため、個人的な安息の機会は無いに等しいのです。また、安息の概念がないので安息をすることについて何かと悪いことをしているような思いがあることも問題の一つです。この地において熱心に働き、神の国に言って安息をすればいい、という認識が支配的です。アフリカや中央アジアのように宣教の奥地で平信徒でありながらフルタイム使役者以上に、心を尽くして神の御業に仕えているので実は少ないものの安息さえないので様々な問題が発生するのです。宣教の最前線で過度がストレスのため、病気を持ち本国に戻ってこなければいけない場合が生じたりします。アフリカのある宣教師は乳房癌に掛かっていることも知らず、本国に訪問中に献身を受ける中で発見され、治療を受けたこともあります。あるドイツの宣教師は相当の精神異常を起こし、本国に戻ってこなければなりませんでした。イギリスのある宣教師も過度なストレスのため精神異常の症状を訴え、本国に戻るしかありませんでした。安息の必要性を切実に感じながらも平信徒の使役者であるがために、持てられない安息年をどのように代替えすることができるのか、という問題意識をもってこの論文を主題としました。ですから、本論文では定期的に安息年を持てない平信徒の専門使役者、宣教師たちの安息に対しる聖書的な正しい概念、及び安息と宣教のの関係を知り、実生活の中に適用することで、宣教生活の中からくるストレスを克服し、更には、宣教活動をもっと新しく活力あるものとして担当することができるようにしたいのが目的であります。このために、旧約聖書に現れた安息、新約聖書に現れた安息を調べ、それを基盤として「安息と神の宣教との関係」を確立したいと思います。それから安息についての実質的な提案をし、終わりにしたいのです。
宣教師たちの安息について問題意識を持つことになったのは筆者が20年余り、宣教地を訪問しながら宣教師たちの安息の必要性を切実に感じたためです。平信徒の専門家によるミッションは今日、新しい宣教のパラダイムとして注目されています。私が所属している教会の集まり(UBF)は1961年から現在に至るまで平信徒の専門家によるミッションを担ってきているが、現在は大学生たちに福音を伝え、弟子養成によりその国の霊的な指導者として育てる歴史が世界各国で活発に行われいてます。一般的に、今までの宣教師の概念は教団からの支援を受け派遣された宣教師たちが地域によっては異なるが、4年ないしは7年に一度の安息年を持ち、再充電の機会を持っています。しかし、私たちの集まりは平信徒の専門家集団によるミッションであるがために安息年を持つのは厳しいのです。職場を持っていたり、ビジネスをしているので長期間休暇を取るのは不可能に近いし、職場生活をしながらの休暇はほとんどを聖書学校や修養会などに使うため、個人的な安息の機会は無いに等しいのです。また、安息の概念がないので安息をすることについて何かと悪いことをしているような思いがあることも問題の一つです。この地において熱心に働き、神の国に言って安息をすればいい、という認識が支配的です。アフリカや中央アジアのように宣教の奥地での、平信徒としての働きはフルタイム使役者以上に心を尽くして神の御業に仕えているのですが、実はほんの少しの安息さえもないので様々な問題が発生するのです。宣教の最前線で過度がストレスのため、病気に掛かり本国に戻ってこなければいけない場合が生じたりします。アフリカのある宣教師は乳房癌に掛かっていることも知らず、本国の訪問中に検診を受ける中で発見され、治療を受けたこともあります。あるドイツの宣教師は相当の精神異常を起こし、本国に戻ってこなければなりませんでした。イギリスのある宣教師も過度なストレスのため精神異常の症状を訴え、本国に戻るしかありませんでした。安息の必要性を切実に感じながらも平信徒の使役者であるがために、予定に入れられない安息年をどのように代替えすることができるのか、という問題意識をもってこの論文を構想しました。ですから、本論文では定期的に安息年を持てない平信徒の専門使役者、宣教師たちの安息に対しる聖書的な正しい概念、及び安息と宣教のの関係を知り、実生活の中に適用することで、宣教生活の中からくるストレスを克服し、更には、宣教活動をもっと新しく活力あるものとして担当することができるようにしたいのが目的であります。このために、旧約聖書に現れた安息、新約聖書に現れた安息を調べ、それを基盤として「安息と神の宣教との関係」を確立したいと思います。それから安息についての実質的な提案をし、終わりにしたいのです。

* 本論 [#m63c048a]
** 第1章 旧約聖書に現れる安息 [#i6febf36]
*** 創世記2章1-3節に現れる安息 [#x5b87416]
''1.安息の起源''&br;&br;
創世記2章1-3節には神の創造の御業においての、七日目について描写した創造の物語の結論です。神様は天地万物をお造りになってから七日目に休まれました。それからその七日目を祝福し、聖であるとされましたがこれは創造のすべての御業が終わったことを意味します。神様がお休みになられたのはお疲れであったためではなく、想像の御業が終わったことを喜んだことを意味します。「休まれた」とは「スァバト」という言葉ですがこれは「休憩する」「終わらせる」という意味があります。創造の御業の中、神様の安息は単純に創造の業が終わったことを意味する消極的なものではありません。むしろ、世界がこれからも想像の過程にあることではなく、神様により完成されたことを意味します。それでは、この七日目は創造の御業の目標である全創造が完成を意味することと考えられます((ヤン・ヨンイ、op. cit., p.31.))。

''2.安息日に守るべき対象''&br;&br;
安息日は人が利便性を考えたのでもなく、あるとき偶然に人々の知恵が集められ創られたのでもありません。神様の特別な志があり制定されたものです((チェ・ナクジェ:永遠な安息と主日(コヤン市:クリスチャンダイジェスト、2000)、p.130.))。安息日はアダムの無原罪の状態で制定されたのです。つまり、これは罪を解決する方法であったり、キリストの救いと関連性を持つ意識法とは直接的な関連性はありません。ですから安息日は人類に与えたものであり、キリストの恵みの中で守るものではなく、万民が守るべき普遍的で道徳的な法律なのです((キム・ホンマン、アドピンク:改革主義と終日聖守と十分の一(ソウル:図書出版・イェッチョッギル、2002)、pp.27-28.))。七日目に神が休まれたのはその休みの中、被造物も休むようにされたことを意味します。創造の御業の中での神の安息は安息日の根源としての役割を果たします。

''3.安息日を制定した目的''&br;&br;
神様が安息を制定されたときその目的はご自分のためにではなく、ご自分の形通りにお造りになられた人間が神の安息に参加し、その神の中でのまことの安息を味わわせようとするところにあります。言い換えれば、人間の幸せのための安息日の制定なのです。人間はこの日を手段として神を礼拝し、その方の行われたことを黙想し、その方に栄光を帰すことが必要です。その理由で、神様が安息日を制定され、その日を祝福し、聖であるとされたのです((Ibid., p.31.))。神様が六日間、熱心に創造の御業に仕え、七日目には特別な意味を持ち、その日を特別な日として区別され、神に属する人して制定されたように、人間も同じく神を見習い、六日間一生懸命働き、七日目には聖なる費として区別し、安息するようにとされたのです。

七日目の特異性は「神が七日目を祝福し、その日を聖であるとされた」という宣言をもって絶頂に達します。祝福の対象は七日目、そのものというよりはむしろ、被造物(人間)との関係においてその日の役割であると言えます。ここで焦点が人間なら神に移ったように見えます。七日目を聖であるとされ、神様はその日を他の六日と区別されたのです。創造の御業の目標である七日目は他の平凡な六日「仕事の日(days of work)」に属さないだけでなく、むしろ神聖な「安息の日(a day of rest)」としており、その日の主人は神ご自身であることです。しかし、このような聖なる日は人間のための独特な目的を持っていたように見えるが、その目的は安息日制度に良く反映されている(参照:出エジプト20:8,11; 31:14,17)。しかし、その目的が安息日制度だけに限らせてはいけません。七日目は「終末的、予言的」な側面を持っているように見え、そうならば七日目の祝福と聖であることは「神の民のための究極的な安息の概念」で理解できるだろう((ヤン・ヨンイ、op. cit., pp.32-33.))。六日間働き七日目には休むこの七日間の周期で生き、最後には永遠の安息が待っていることを暗示している。いうならば、六日間熱心に働き七日目には神の所に近づき、神の安息に参加するようにされたのは、この世の終わりには永遠な安息が待っていることを見せ示すためでした((チェ・ナクジェ、op. cit., p.63.))。これを見れば、安息日は私たちが神の永遠な安息を見て、また、そこに入るために信仰を守り従順するように助ける手段になります。ヘブル人への手紙4章はこれを意味します((キム・ホンマン:op. cit., p.31.))。しかし、この安息は神様に従順するときのみ享受するものでした。神に不従順するときにはこの安息がなくなりました。創世記3章16-17節で、女が身ごもる苦痛、子どもを産む、そして育てる苦しみを与えており、男には一生苦しんで職を得なければいけないようにされ、安息はなくなったのです。創世記4章12節ではカインが罪のない弟を殺害しながらも悔い改めず、神の温かいカウンセリングを受け入れなかったときに呪いが与えられましたが、そのためカインは休みの無い放浪者(a restless wanderer)となったのです。しかしながら、イエス・キリストに従順する人にまた安息を享受するようにされたのです。

*** 出エジプト記20:8-11に現れた安息 [#o7c1e164]


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