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 序論

安息日は教会史の中でも深刻な論争の対象となってきた。特に、旧約・ユダヤ教の安息日がキリスト教の主日とどのように関連しているのかがそれです*1。安息日はイエスの時代にも論争されていましたが、初期・キリスト教との間でも同じく論争の対象でした。例えば、コロサイ2章16-17節、ローマ14章5-6節、ヘブル4章1-11節がその一例である。しかし、本論文ではこのような論争について考えることではなく、安息日の正しい聖書的な概念を理解するとともに、安息と宣教の関係について調べ、これを宣教地に適用することにより、宣教師たちのまことの安息をもたらすことに焦点を当てようとしています。

宣教師たちの安息について問題意識を持つことになったのは筆者が20年余り、宣教地を訪問しながら宣教師たちの安息の必要性を切実に感じたためです。平信徒の専門家によるミッションは今日、新しい宣教のパラダイムとして注目されています。私たちの集まり(UBF)は1961年から現在に至るまで平信徒の専門家によるミッションを担ってきているが、現在は大学生たちに福音を伝え、弟子養成によりその国の霊的な指導者として育てる歴史が世界各国で活発に行われいてます。一般的に、今までの宣教師の概念は教団からの支援を受け派遣された宣教師たちが地域によっては異なるが、4年ないしは7年に一度の安息年を持ち、再充電の機会を持っています。しかし、私たちの集まりは平信徒の専門家集団によるミッションであるがために安息年を持つのは厳しいのです。職場を持っていたり、ビジネスをしているので長期間休暇を取るのは不可能に近いし、職場生活をしながらの休暇はほとんどを聖書学校や修養会などに使うため、個人的な安息の機会は無いに等しいのです。また、安息の概念がないので安息をすることについて何かと悪いことをしているような思いがあることも問題の一つです。この地において熱心に働き、神の国に言って安息をすればいい、という認識が支配的です。アフリカや中央アジアのように宣教の奥地で平信徒でありながらフルタイム使役者以上に、心を尽くして神の御業に仕えているので実は少ないものの安息さえないので様々な問題が発生するのです。宣教の最前線で過度がストレスのため、病気を持ち本国に戻ってこなければいけない場合が生じたりします。アフリカのある宣教師は乳房癌に掛かっていることも知らず、本国に訪問中に献身を受ける中で発見され、治療を受けたこともあります。あるドイツの宣教師は相当の精神異常を起こし、本国に戻ってこなければなりませんでした。イギリスのある宣教師も過度なストレスのため精神異常の症状を訴え、本国に戻るしかありませんでした。安息の必要性を切実に感じながらも平信徒の使役者であるがために、持てられない安息年をどのように代替えすることができるのか、という問題意識をもってこの論文を主題としました。ですから、本論文では定期的に安息年を持てない平信徒の専門使役者、宣教師たちの安息に対しる聖書的な正しい概念、及び安息と宣教のの関係を知り、実生活の中に適用することで、宣教生活の中からくるストレスを克服し、更には、宣教活動をもっと新しく活力あるものとして担当することができるようにしたいのが目的であります。このために、旧約聖書に現れた安息、新約聖書に現れた安息を調べ、それを基盤として「安息と神の宣教との関係」を確立したいと思います。それから安息についての実質的な提案をし、終わりにしたいのです。

本論

第1章 旧約聖書に現れる安息

創世記2章1-3節に現れる安息

* 安息の起源


*1 ヤン・ヨンイ、イエスと安息日、それから主日、ソウル・イレ書院、2000、p.15

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