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//どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。&br;(Eph 3:16)
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** COLOR(seagreen){キリストの啓示による福音}[#o47ede2a]
御言葉:ガラテヤ人への手紙 1章11~24節&br;
要節:ガラテヤ人への手紙 1章12節&br;「私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」
ユニバーシティ・バイブル・フェローシップ(UBF、日本語では聖書読み宣教会と呼ぶ)は、国際的な福音教会(非団体)であり、キリストとその王国に捧げられた家庭教会のネットワークです。 私たちの主な関心は、聖書を学び、私たちの主と救い主であるイエス・キリストの恵みと知識とに成長し、彼の教えに従って生きることです。 私たちは特に、大学生に注目し、彼らがキリストの弟子として成長できるよう祈っています。 私たちの目標は、お互いを愛し、すべての国に行ってイエス・キリストの弟子を作るという主の戒めに従うことです(ヨハネ13:34、マタイ28:18-20)。 私たちは、神が私たちの中にある平信徒たちを宣教師として呼び、世界に送り続けてくれることを祈っています(使1:8)。

パウロは1章の前半部(1-10)で、自分の使徒権について主張しました。「私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです。」パウロの使徒権を認めようとしない人々への弁護でした。当時の人々がパウロの使徒権を認めようとしなかったのは、彼が伝えた福音を否定する狙いがありました。
University Bible Fellowship (UBF) is an international evangelical church (non-denominational) and network of house churches dedicated to Christ and his kingdom. Our main focus is to study the Bible, grow in the grace and knowledge of our Lord and Savior Jesus Christ, and live according to his teachings. We especially pray to reach college students and help them grow as his lifelong disciples. Our goal is to obey our Lord’s commands to love one another and to go and make disciples of all nations (Jn 13:34; Mt 28:18-20). We pray that God may continue to call and raise lay missionaries through us and send them to the ends of the earth (Ac 1:8).

そこで、使徒権を弁護していたパウロは、今日の御言葉でパウロ自信が伝えた福音について弁護しています。パウロが伝えた福音とは何でしょうか。今日の御言葉を通して、パウロの福音について深く学ぶことができますように祈ります。
お問い合わせ先(contect):yubiefu#gmail.com(Pls change #to@)

11-12節をご覧ください。「兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」パウロはここで、自分が伝えた「福音」がイエス・キリストの啓示によるものであるとしています。啓示とは英語では「revelation」で、神による啓示、黙示、お告げなどを意味します。聖書の黙示録を英語では「The Revelation」と記録しているのはその意味です。パウロは「イエス・キリストの啓示により」福音を受けたのだと説明しています。

当時、人々はパウロが伝えた福音が「人によって作り出されたもの」だとするうわさが流れていました。人間の知恵や巧みな話術によって作られたのだとする見方でした。サラに、ある人々は「誰かに教えてもらったもの」だとするうわさもありました。パウロが自分で作り出されたものではなく、彼の師匠やラッピの学校から教わったものだとするうわさでした。しかし、パウロはこのいずれかも該当しない「イエス・キリストの啓示によるもの」であると主張しました。福音の著作権はイエス・キリストにあるとしたのです。

つまり、パウロが宣べ伝えた「福音」つまり「良いお知らせ」の「ユアンゲリオン」は今までの理論を教わり集めたものでもなければ、自分の力で巧みに作り出された理論でもない、イエス・キリストから啓示されたものであるとしています。今まで人々により伝承され、教えられ、守られてきた、特に、ユダヤ人たちが信じてきた律法による救いの概念とも全く違うものであるとしています。これがエルサレムでキリスト教が迫害を受けた原因であり、12名の弟子たちがほとんど、殉教される立場になった原因でもあります。

このように、ユダヤ教を含むほとんどの宗教の救いの秘密は良い行いの実行にあります。同じように、世の中での成功の秘訣も、宗教の教えとあまり変わりがなく、良い成績の積み重ねによるものです。律法を守れば救われるとするユダヤ教がその代表格です。仏教が善行の積み重ねによる祝福を教えていますし、ヒンズー教がそうです。マホメット教も、イスラム教だって決められた律法をしっかり守り通すことによる祝福を伝えています。生活習慣のお行儀を大事にする日本の伝統的な根強い教えも、先祖を重んじる中国や韓国の儒教だって善行の積み重ねが救いの条件となっています。

パウロは自分が経験したユダヤ教を例に説明しています。13節、「以前ユダヤ教徒であったころの私の行動は、あなたがたがすでに聞いているところです。私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。」理由はイエス・キリストが救い主であると教えていたからです。しかも、パウロはユダヤ人の誰よりも人一倍キリスト教徒を迫害をしました。何故でしょうか。14節で、パウロは言っています。「私は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。」パウロはユダヤ教に進んでおり、ユダヤ教の伝承に人一倍熱心だったからでした。パウロはユダヤ教の伝統的な神学校に当たるカマリエル派の門下生でした。パウロは誰よりもユダヤ教には精通していましたし、律法による救いに確信がありました。イエス・キリストが救い主であると教えるキリスト教の人々を捕縛し、牢に入れていました。

15節、「けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたのでした。」何と、キリスト教の人々を捕博し、牢に入れることを人一倍熱心に行っていたパウロを、イエス・キリストを伝える道具として神は選ばれたのでした。その時、パウロは人と相談しませんでした。17節を見ると、先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行きました。つまり、イエス・キリストを述べ伝えていた使徒たちと相談もせず、彼らの教えを教わることもなく、アラビヤに出て行きました。アラビヤは何もない所でした。パウロの衝撃がどれだけ大きかったことか物語りますし、イエス・キリストの啓示を大変真剣に受け止めているパウロの姿勢がうかがえます。

その後、パウロはダマスコに戻りました。最初の啓示があったところでした。パウロはガラテヤの人々に、イエス・キリストの啓示があった時に、先輩たちに会うことやイエス・キリストの12弟子がまだ顕在して活動していたエルサレムに上らなかったことを強調しました。つまり、パウロが伝える福音はエルサレムのものでもなければ、12弟子たちのものでもない、イエス・キリストの啓示によるものであることを強調しているのです。18節をご覧ください。「それから三年後に、私はケパをたずねてエルサレムに上り、彼のもとに十五日間滞在しました。」とあります。パウロは啓示を受けてからアラビヤでどれぐらい過ごしたか分かりませんが、最初の啓示があったダマスコに戻ってから3年間、ダマスコで啓示により受けた福音を宣べ伝える生活をしました。それから3年が過ぎたころ、ケパを訪ねてエルサレムを訪問しました。そして、15日間、ケパのペテロと一緒に親交を深めました。始めて、パウロはイエス・キリストの首弟子、ケパの思想、考え方、福音についての内容を確かめたのでした。その際、主の兄弟ヤコブは別として、ほかの使徒にはだれにも会いませんでした。つまり、パウロが啓示を受けてからアラビアの生活を終え、三年間、ダマスコでの宣教活動をしながら体験した聖霊の動きを、15日間ケパと過ごし、イエス・キリストの啓示を12弟子のひとりとの交流の中で、確かめることができました。

以上をまとめてみると、パウロの福音は12弟子によるものでもなければ、エルサレムでユダヤの人々に広まったキリスト教の教えを伝授されたものでもありませんでした。パウロの福音は完全にイエス・キリストのものであり、イエス・キリストにより教えられたものでした。イエス・キリストの啓示によるもの、パウロがこれだけ啓示を強調しているのには理由がありました。パウロの福音の福音の著作権はイエス・キリストであることを強調するためでした。しかも、パウロは次のように付け加えています。20節「私があなたがたに書いていることには、神の御前で申しますが、偽りはありません。」

21節以降を見ても、パウロはその後も、エルサレム派と議論したり、12弟子たちの教えを体系的に学んだりしませんでした。むしろ、パウロはダマスコからシリヤ、キリキヤ地方に行きました。そのためパウロはユダヤの諸教会にあまり知らされていませんでした。けれども、彼らの中には次のようなうわさが流れていました。23節、「以前私たちを迫害した者が、そのとき滅ぼそうとした信仰を今は宣べ伝えている」と。彼らはパウロのことで神をあがめていました。

12弟子に伝授されたものでもなければ、エルサレムで体系的に教えてもらったものでもない、しかも、イエス・キリストを迫害していたパウロが、だれからも教えられてないのに、その信仰を伝える人となりました。これはあり得ない、全く不思議なものでした。パウロがなぜ、このような事実を記録しているのですか。それはパウロの教えが人からのものでもなければ、人間により教えられたものでもない、先祖たちにより伝授されたものでもない、イエス・キリストの啓示によるものであることを強く強調するためでした。

それでは、イエス・キリストの啓示によるパウロの福音の中身が何ですか。
第一、パウロの福音はイエス・キリストです。
「キリシタン」とか「クリスチャン」という言葉がありますが、これはイエス・キリストに気が狂った人々のことを指します。その口からイエス・キリストだけが語られている不思議なグループのことを指します。変わった人々です。これはパウロがエペソのツラノという講堂で2年間、集中的にグループ聖書勉強をし、名付けられたものでした。「キリシタン」「クリスチャン」彼らはイエス・キリストに気が狂った人々でした。彼らの生活のすべてに「イエス・キリスト」という言葉が常に行き来していました。人々はそのような彼らのことを「キリシタン」「クリスチャン」「キリストに気が狂った人々」と名付けたのです。それは、パウロが伝えた福音の中身は「イエス・キリスト」だったからです。

ツラノの講堂で行われた聖書勉強のための問題集があるとすれば、最初の問題は何だったのでしょう。それはこうです。「信じたとき、聖霊を受けましたか(使徒19:2)。」これがツラノの講堂での集中講義が始まったきっかけでした。そして、聖霊について学びはじめました。さらに、彼らが悔い改めのバプテスマを辞めて、主イエスのバプテスマに代えて受けた時、彼らには聖霊が臨みました。また、異言を語り、預言をしました。12名ほどの弟子が熱心に聖書勉強した時に、アジアに満遍なく主の言葉が広まりました。

「信じた時に聖霊を受けましたか。」これは今もなお、すべての信者に尋ねるパウロの質問です。大体、バプテスマのヨハネの洗礼を受けている人々は聖霊の体験がありません。律法的な信仰生活をしている人々を指します。主イエスによる洗礼を受ける時、人々は聖霊の体験をします。異言をし、預言をすることになります。異言をし、預言をするとは聖霊の言葉を語り、夢を見ることを指します。別世界を体験するのです。私も同じ体験をしたのでした。約27年前、ある集会で「主はキリスト」と告白していた後、私はまったく想像もしなかった別世界を体験しましたし、新しい夢を見ることになりました。こころがわくわくし、その集会場を離れるバスの中、私はまったく別世界を実体験しました。それ以降、聖霊は私の人生のすべてに同行されるようになりました。その後、私は「キリシタン」「クリスチャン」「キリストに気が狂った人々」と名付けられました。パウロが伝えた福音「イエス・キリスト」を受け入れ、信じたからでした。

第二に、パウロの福音は「信仰」です。
パウロが人生をかけて伝えた福音は「イエス・キリスト」ですが、イエス・キリストの十字架と復活が、私たちの救いの原因であることを「信頼する」「信仰する」ことが救いに至る道具であると説明しています。律法を守るとか、善行をするとか、キャリアを積めることが救いの原因ではないと断言しています。これらの律法や善行、キャリアは積めば積むほど、私たちが罪人であることを悟るのみであると教えています。しかし、イエス・キリストの十字架とその復活を信じる「信仰」があれば、救いが訪れると教えています。パウロはローマ人への手紙10章17節で次の世に言っています。「この信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」と。主イエス・キリストの十字架と復活を聞くことが無ければ、信仰も、救いも無いのです。そこで、パウロは人生をかけて主イエス・キリストの十字架と復活だけを宣べ伝えました。神様は彼を祝福し、信仰による救いを成し遂げられました。

多くの人々は救いのために、行動が必要だと思ったりします。律法の順守が必要だと思ったりします。律法をしっかり守れば救いが来ると考えたりします。しかし、イエス・キリストによる啓示により受けたパウロの福音は違いものです。律法をいくら守っても、それは救いにはたどり着かない、と。自分が罪人であることを悟るのみである、ということでした。救いは「イエス・キリストの十字架の死を受け入れる時」、またその事実を「信じる時」訪れるGood Newsであることを述べ伝えたのでした。

この信仰は希望を、希望は究極的に愛を頂くのです。私たちに「イエス・キリスト」を、「信仰と希望と愛」を与えて下さいました神様を感謝賛美いたします。


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