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//どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。&br;(Eph 3:16)

** COLOR(seagreen){福音に対するパウロの確信}[#o47ede2a]
御言葉:ガラテヤ人への手紙 1章1~10節&br;
要節:ガラテヤ人への手紙 1章7節&br;
CENTER:「ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。」
** COLOR(seagreen){キリストの啓示による福音}[#o47ede2a]
御言葉:ガラテヤ人への手紙 1章11~24節&br;
要節:ガラテヤ人への手紙 1章12節&br;「私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」

「ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。」
パウロは1章の前半部(1-10)で、自分の使徒権について主張しました。「私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです。」パウロの使徒権を認めようとしない人々への弁護でした。当時の人々がパウロの使徒権を認めようとしなかったのは、彼が伝えた福音を否定する狙いがありました。

この部分はガラテヤ人への手紙の序論です。
ガラテヤ人への手紙の勉強を通して、わたしたちは信仰生活の総点検をすることができます。ガラテヤ人への手紙を繰り返し読んでみると、「福音」という言葉が浮かびあがります。ガラテヤ人への手紙を勉強しながら、私たちが受け入れた「福音」についてより詳細に学ぶことができますよう祈ります。
そこで、使徒権を弁護していたパウロは、今日の御言葉でパウロ自信が伝えた福音について弁護しています。パウロが伝えた福音とは何でしょうか。今日の御言葉を通して、パウロの福音について深く学ぶことができますように祈ります。

今日の本文は、1章1節~10節まで、要節は7節を取りました。
11-12節をご覧ください。「兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」パウロはここで、自分が伝えた「福音」がイエス・キリストの啓示によるものであるとしています。啓示とは英語では「revelation」で、神による啓示、黙示、お告げなどを意味します。聖書の黙示録を英語では「The Revelation」と記録しているのはその意味です。パウロは「イエス・キリストの啓示により」福音を受けたのだと説明しています。

ガラテヤ人への手紙がパウロの初めての手紙であることを思い起こしてください。聖書には13冊のパウロの手紙が列挙されていますが、この手紙を筆頭として最後の遺言書に近い記録を残した「テモテ人への手紙II」があります。パウロは当時、この手紙をバイブルとして集めてほしいとか、後世に残したい願いや、計画も無かったのは当たり前です。ただ、ガリラヤにいる信者たちへの切なる願いがあり、どうしよう、どのように彼らを助けよう、どうすれば彼らに正しい「福音」を知らせよう、という切なる願いが結集されたものです。このパウロの願いは「上からの注ぎ」が加わって、2000年間も人々に福音をつたえる手紙として誕生されたのです。その意味で、この手紙は神からの啓示が含まれています。
当時、人々はパウロが伝えた福音が「人によって作り出されたもの」だとするうわさが流れていました。人間の知恵や巧みな話術によって作られたのだとする見方でした。サラに、ある人々は「誰かに教えてもらったもの」だとするうわさもありました。パウロが自分で作り出されたものではなく、彼の師匠やラッピの学校から教わったものだとするうわさでした。しかし、パウロはこのいずれかも該当しない「イエス・キリストの啓示によるもの」であると主張しました。福音の著作権はイエス・キリストにあるとしたのです。

1節をご覧ください。「使徒となったパウロ――私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです――」とあります。とても強い口調で始まっています。なぜかと言うと、当時、パウロは使徒ではないと人々から批判されていたのです。イエスの12名の弟子だけが使徒であり、他は使徒で無いと主張している人々が多く、彼らの説明にはある分、納得がいくものでした。パウロの使徒権を否定している人々、特に、ガラテヤ諸教会の人々の間に広がっているこの考え方に、パウロは強い口調でこの手紙を書いています。
つまり、パウロが宣べ伝えた「福音」つまり「良いお知らせ」の「ユアンゲリオン」は今までの理論を教わり集めたものでもなければ、自分の力で巧みに作り出された理論でもない、イエス・キリストから啓示されたものであるとしています。今まで人々により伝承され、教えられ、守られてきた、特に、ユダヤ人たちが信じてきた律法による救いの概念とも全く違うものであるとしています。これがエルサレムでキリスト教が迫害を受けた原因であり、12名の弟子たちがほとんど、殉教される立場になった原因でもあります。

マタイの福音書21章を見ると、イエスが宮で教えていると、ねたみに満ちた祭司長や長老たちが「何の権威だ。誰がその権威を与えたのか」と質問しています。イエスはその彼らに「バプテスマのヨハネの権威はどこからか」と質問しました。バプテスマのヨハネの権威は誰によるものでもありません。神様からの権威でした。
このように、ユダヤ教を含むほとんどの宗教の救いの秘密は良い行いの実行にあります。同じように、世の中での成功の秘訣も、宗教の教えとあまり変わりがなく、良い成績の積み重ねによるものです。律法を守れば救われるとするユダヤ教がその代表格です。仏教が善行の積み重ねによる祝福を教えていますし、ヒンズー教がそうです。マホメット教も、イスラム教だって決められた律法をしっかり守り通すことによる祝福を伝えています。生活習慣のお行儀を大事にする日本の伝統的な根強い教えも、先祖を重んじる中国や韓国の儒教だって善行の積み重ねが救いの条件となっています。

パウロも使徒と認めて下さったのは、人ではないとしています。人間でもなければ、組織でもない、団体でもない、イエス・キリストだとしています。パウロは自分の「使徒権」に対する確かな確信を、イエス・キリストからのものとして認識していたのです。もう一つは、このイエス・キリストを死者の中からよみがえらせた「父なる神」からだとしています。パウロは確信しています。パウロが使徒となったのは「イエス・キリストの十字架の事件」に繋がっていることです。そして、その十字架の事件を計画された「アバ・父・神」につながっていることです。パウロの使徒権はイエス・キリストからであり、アバ・父・神からのものです。ですから、誰が何と言っても、どんなに批判されても、譲れるものではありませんでした。
パウロは自分が経験したユダヤ教を例に説明しています。13節、「以前ユダヤ教徒であったころの私の行動は、あなたがたがすでに聞いているところです。私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。」理由はイエス・キリストが救い主であると教えていたからです。しかも、パウロはユダヤ人の誰よりも人一倍キリスト教徒を迫害をしました。何故でしょうか。14節で、パウロは言っています。「私は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。」パウロはユダヤ教に進んでおり、ユダヤ教の伝承に人一倍熱心だったからでした。パウロはユダヤ教の伝統的な神学校に当たるカマリエル派の門下生でした。パウロは誰よりもユダヤ教には精通していましたし、律法による救いに確信がありました。イエス・キリストが救い主であると教えるキリスト教の人々を捕縛し、牢に入れていました。

2節で、ガラテヤの諸教会へと手紙の相手をはっきりしています。そして、彼らへの願いがつづられています。「どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」この祈りから、パウロの信仰の根本に流れる基礎がうかがえます。パウロの信仰の根拠はまず、神様を父としていることです。信者は平気で、父なる神様を口にしています。父がいるのになぜ、神を父とするのかと反発する人々とは違って、平気で「父なる神様」と告白しています。パウロはこれが神様の関与であり、聖霊の働きによるものであると説明しています。
15節、「けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたのでした。」何と、キリスト教の人々を捕博し、牢に入れることを人一倍熱心に行っていたパウロを、イエス・キリストを伝える道具として神は選ばれたのでした。その時、パウロは人と相談しませんでした。17節を見ると、先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行きました。つまり、イエス・キリストを述べ伝えていた使徒たちと相談もせず、彼らの教えを教わることもなく、アラビヤに出て行きました。アラビヤは何もない所でした。パウロの衝撃がどれだけ大きかったことか物語りますし、イエス・キリストの啓示を大変真剣に受け止めているパウロの姿勢がうかがえます。

「あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」(ガラテヤ4章6節)
その後、パウロはダマスコに戻りました。最初の啓示があったところでした。パウロはガラテヤの人々に、イエス・キリストの啓示があった時に、先輩たちに会うことやイエス・キリストの12弟子がまだ顕在して活動していたエルサレムに上らなかったことを強調しました。つまり、パウロが伝える福音はエルサレムのものでもなければ、12弟子たちのものでもない、イエス・キリストの啓示によるものであることを強調しているのです。18節をご覧ください。「それから三年後に、私はケパをたずねてエルサレムに上り、彼のもとに十五日間滞在しました。」とあります。パウロは啓示を受けてからアラビヤでどれぐらい過ごしたか分かりませんが、最初の啓示があったダマスコに戻ってから3年間、ダマスコで啓示により受けた福音を宣べ伝える生活をしました。それから3年が過ぎたころ、ケパを訪ねてエルサレムを訪問しました。そして、15日間、ケパのペテロと一緒に親交を深めました。始めて、パウロはイエス・キリストの首弟子、ケパの思想、考え方、福音についての内容を確かめたのでした。その際、主の兄弟ヤコブは別として、ほかの使徒にはだれにも会いませんでした。つまり、パウロが啓示を受けてからアラビアの生活を終え、三年間、ダマスコでの宣教活動をしながら体験した聖霊の動きを、15日間ケパと過ごし、イエス・キリストの啓示を12弟子のひとりとの交流の中で、確かめることができました。

口で神様を、アバ・父と呼んでいる私たちには御子の聖霊が働いているのです。御子の聖霊が関与しているのです。御子の聖霊の関与がない人の口から、アバ・父の告白は無いのです。ですから、口で「アバ・父」と呼んでいる人々には既に、御子の御霊が内在しており、既に、私たちの人生に関与している証拠です。
以上をまとめてみると、パウロの福音は12弟子によるものでもなければ、エルサレムでユダヤの人々に広まったキリスト教の教えを伝授されたものでもありませんでした。パウロの福音は完全にイエス・キリストのものであり、イエス・キリストにより教えられたものでした。イエス・キリストの啓示によるもの、パウロがこれだけ啓示を強調しているのには理由がありました。パウロの福音の福音の著作権はイエス・キリストであることを強調するためでした。しかも、パウロは次のように付け加えています。20節「私があなたがたに書いていることには、神の御前で申しますが、偽りはありません。」

もう一つ、パウロの信仰の基礎は「イエス・キリスト」です。パウロは次のように祈っています。「どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」父なる神と主イエス・キリストを同格にしています。同じ位に立たせています。父なる神様とイエス・キリストを同じ位においています。父なる神様と御子・イエス・キリストが同格であることは、不思議です。人間の知識や説明では理解ができない部分です。何故、それなら御子と呼ぶのか、なぜ、それなら父と呼ぶのか、不思議です。
21節以降を見ても、パウロはその後も、エルサレム派と議論したり、12弟子たちの教えを体系的に学んだりしませんでした。むしろ、パウロはダマスコからシリヤ、キリキヤ地方に行きました。そのためパウロはユダヤの諸教会にあまり知らされていませんでした。けれども、彼らの中には次のようなうわさが流れていました。23節、「以前私たちを迫害した者が、そのとき滅ぼそうとした信仰を今は宣べ伝えている」と。彼らはパウロのことで神をあがめていました。

この二位に御霊、または聖霊を加えて、三位と言っています。三位一体という言葉はそこから生まれたのです。神とイエス・キリストと聖霊は三位ですが、一体なのです。それでカトリックでは「父と子と聖霊の御名により祈る」のです。これも説明に困る不思議なものですが、パウロの信仰の基礎におかれていたものです。それが三位一体です。
12弟子に伝授されたものでもなければ、エルサレムで体系的に教えてもらったものでもない、しかも、イエス・キリストを迫害していたパウロが、だれからも教えられてないのに、その信仰を伝える人となりました。これはあり得ない、全く不思議なものでした。パウロがなぜ、このような事実を記録しているのですか。それはパウロの教えが人からのものでもなければ、人間により教えられたものでもない、先祖たちにより伝授されたものでもない、イエス・キリストの啓示によるものであることを強く強調するためでした。

パウロは祈りの中で、この三位の特徴について説明しています。それが「恵みと平安」です。惠みとは私たちが何かをして受けるものではなく、何にもしてないのに与えられるプレゼントを指します。神様とイエス・キリストにはこの恵みが満ちています。
それでは、イエス・キリストの啓示によるパウロの福音の中身が何ですか。
第一、パウロの福音はイエス・キリストです。
「キリシタン」とか「クリスチャン」という言葉がありますが、これはイエス・キリストに気が狂った人々のことを指します。その口からイエス・キリストだけが語られている不思議なグループのことを指します。変わった人々です。これはパウロがエペソのツラノという講堂で2年間、集中的にグループ聖書勉強をし、名付けられたものでした。「キリシタン」「クリスチャン」彼らはイエス・キリストに気が狂った人々でした。彼らの生活のすべてに「イエス・キリスト」という言葉が常に行き来していました。人々はそのような彼らのことを「キリシタン」「クリスチャン」「キリストに気が狂った人々」と名付けたのです。それは、パウロが伝えた福音の中身は「イエス・キリスト」だったからです。

本来、私たちは神様と一緒に対面したりお話をしたり、握手をすることができませんでした。あまりにも罪深い様子をしていたためでした。私たちはどんなに努力しても、どんなに犠牲をしても、どんなに断食をしても、どんなに献身をしても、神様とお話しをし、握手ができる立場にない存在でした。しかし、神様は一人子・イエス・キリストを人間の姿にし、私たちと一緒に住まわせ、十字架につけられて、尊い御血を流されることにより、私たちと神様との関係修復を図ったのです。これもまた、聖書が説いている不思議の一つです。神様の人類の救いの計画の壮大なプロジェクトは御子の十字架での犠牲だったのです。その神様の計画を知らされたイエス・キリストは何と、100%の従順により、その関係修復の作業を終わらせたのです。イエスの口から、It is finished.「完了した」(ヨハネ19章30節)と宣言したのです。そして、その十字架と復活を受け入れ、単純に信じる信仰の人々に「義人」の印を付けられたのです。この事実を聞いて受け入れ、信じる人は救われるようになったのです。何と、信じる人々は聖霊と共に暮らす約束が実現されたのです。信じる人々は罪の重荷から自由となり、むしろ聖霊の実を結ぶ人生を生きるようになったのです。神様の最高のお姿、愛の世界に包まれるようになったのです。それが不思議であり「恵みの世界」なのです。
ツラノの講堂で行われた聖書勉強のための問題集があるとすれば、最初の問題は何だったのでしょう。それはこうです。「信じたとき、聖霊を受けましたか(使徒19:2)。」これがツラノの講堂での集中講義が始まったきっかけでした。そして、聖霊について学びはじめました。さらに、彼らが悔い改めのバプテスマを辞めて、主イエスのバプテスマに代えて受けた時、彼らには聖霊が臨みました。また、異言を語り、預言をしました。12名ほどの弟子が熱心に聖書勉強した時に、アジアに満遍なく主の言葉が広まりました。

私たちは何もせず、ただ、信じて受け入れただけなのに、私たちには罪の赦しと聖霊の助け船が付き添うようになったのです。人生の様々な場面で御霊の助けを手にした存在となったのです。この一方的な恵み、信仰により得られた全く不思議な重荷からの自由、これがパウロが伝えた「福音」なのです。しかも、そのような人々に包まれる心の特徴は「限りの無い平安」です。心の奥底から湧き出る泉の平安です。しかもその平安の源は止まっているものではなく、湧き出る泉となるのです。(ヨハネ4章14節)それで、パウロはガリラヤの人々のためにこう祈ったのです。「どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」と。
「信じた時に聖霊を受けましたか。」これは今もなお、すべての信者に尋ねるパウロの質問です。大体、バプテスマのヨハネの洗礼を受けている人々は聖霊の体験がありません。律法的な信仰生活をしている人々を指します。主イエスによる洗礼を受ける時、人々は聖霊の体験をします。異言をし、預言をすることになります。異言をし、預言をするとは聖霊の言葉を語り、夢を見ることを指します。別世界を体験するのです。私も同じ体験をしたのでした。約27年前、ある集会で「主はキリスト」と告白していた後、私はまったく想像もしなかった別世界を体験しましたし、新しい夢を見ることになりました。こころがわくわくし、その集会場を離れるバスの中、私はまったく別世界を実体験しました。それ以降、聖霊は私の人生のすべてに同行されるようになりました。その後、私は「キリシタン」「クリスチャン」「キリストに気が狂った人々」と名付けられました。パウロが伝えた福音「イエス・キリスト」を受け入れ、信じたからでした。

「このイエス・キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。」これが4節の言葉ですが、ここで言う「今の悪の世界」とは私たちを誘惑する世界を指します。御霊に導かれて健全で、実りのある人生を生きたいと願う信者の心とは違って、私たち信者を誘惑する勢力が働くこの世界があることを指します。パウロはローマ人への手紙の中に、この世界についてつぎのように記録しています。「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。」(Rom 7:19-20)
第二に、パウロの福音は「信仰」です。
パウロが人生をかけて伝えた福音は「イエス・キリスト」ですが、イエス・キリストの十字架と復活が、私たちの救いの原因であることを「信頼する」「信仰する」ことが救いに至る道具であると説明しています。律法を守るとか、善行をするとか、キャリアを積めることが救いの原因ではないと断言しています。これらの律法や善行、キャリアは積めば積むほど、私たちが罪人であることを悟るのみであると教えています。しかし、イエス・キリストの十字架とその復活を信じる「信仰」があれば、救いが訪れると教えています。パウロはローマ人への手紙10章17節で次の世に言っています。「この信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」と。主イエス・キリストの十字架と復活を聞くことが無ければ、信仰も、救いも無いのです。そこで、パウロは人生をかけて主イエス・キリストの十字架と復活だけを宣べ伝えました。神様は彼を祝福し、信仰による救いを成し遂げられました。

罪の勢力は私たち信者の中にいて、御霊と共存し、私たちを誘惑している悪の世界を作り上げているのです。しかし、私たちが信仰により十字架の事件を受け入れる時、不思議にも私たちはこの悪の世界からの救いを体験するのです。罪の勢力を勝ち得る力が与えられるのです。どんな律法の順守にもないのですが、十字架の信仰にはあり、私たちを悪の世界から救い出してくださるのです。どんな熱心をささげてもできない悪の勢力の力を勝ち得る知恵が十字架を受け入れる信仰にあるのです。「このイエス・キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。」パウロはこの部分で思わず、神様を賛美しています。「どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン。」私たちも思わず叫ぶのです。アーメン。
多くの人々は救いのために、行動が必要だと思ったりします。律法の順守が必要だと思ったりします。律法をしっかり守れば救いが来ると考えたりします。しかし、イエス・キリストによる啓示により受けたパウロの福音は違いものです。律法をいくら守っても、それは救いにはたどり着かない、と。自分が罪人であることを悟るのみである、ということでした。救いは「イエス・キリストの十字架の死を受け入れる時」、またその事実を「信じる時」訪れるGood Newsであることを述べ伝えたのでした。

パウロは、このようなキリストの恵みをもって彼らを召してくださったその方を、急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚きました。しかし、断固たる発言を発しています。「ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。」
この信仰は希望を、希望は究極的に愛を頂くのです。私たちに「イエス・キリスト」を、「信仰と希望と愛」を与えて下さいました神様を感謝賛美いたします。

ここで、ガリラヤの人々がまどわされた他の福音とはなんですか。律法の福音でした。ユダヤ人たちが長く頼ってきた律法の福音でした。行為による救いを根本とする福音でした。仏教が、イスラム教が、ユダヤ教が、その他ほとんどの土着宗教が行為による福音なのです。しかし、キリスト教だけが行為による救いを拒否し、信仰による救いを教えています。それで、ユダヤ教に馴染んでいたユダヤの人々は、信仰により救われましたが、割礼を受けるべきだ、信仰により救われましたが、安息日の律法を守るべきだ、週3回の祈りを、毎日5時の祈りをささげるべきだ、信仰により救われましたが、信仰を深めるために何か、信仰とは別のことをして行う努力をすべきだと教えていました。シカゴで御業に仕えるDr. Mark Y.はこの聖書勉強中で、「わたしも長い間、この気持ちをぬぐい去ることができませんでした」と告白していました。信仰により救われましたが、何か、よりよい信者として成長するためには何か、信仰とは別の努力が必要なのではないか、と思っていたのでした。これは誰もが持つ「パウロの福音」とは別の福音なのです。私も、信者は少なくとも、聖書勉強、祈り、所感発表など、私がいままでの信仰生活で染まってきているある種の律法を要求していたるです。イエス・キリストを信じる信仰は基本で、それ以外の別メニュがないといけない、と考えているのです。これが別の福音です。信仰で救われても、やはり信仰を深めるための別の条件、別の律法が伴うべきだと思うのです。しかし、そうではない。救いは信仰により完成しているのです。別メニュがいらないのです。もう、これ以上律法の要求を求める必要はないのです。すると、私たちは「それじゃ、救われたので勝手に生活してもいいのか」と質問したりします。しかし、救われた人が勝手に罪の世界に足を突っ込み、楽しむことはあり得ない話です。少なくとも、救いの恵みに立っているならば、特にそうです。

先ほども言いましたように、信者は罪の勢力と共存する世界で生きているので誘惑はあるものの、その都度、私たちはイエス・キリストの十字架の事件を信仰によりつかむことが求められるのです。そして、その十字架をつかむことにより得られる恵みの世界、聖霊の導き、平安と喜びに包まれることが求められるのです。常に、謙遜に恵みの世界にいられる人は幸いです。そのためのどのような律法の要求も無用なのです。Dr. Mark Y.は「救いも信仰により、信仰の成長も信仰によりです。信仰から始まっているのに、律法でまとめられる愚かさは無いのです」と断言しています。パウロも言っています。「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」(ガラテヤ3章3節)

誰かが律法の要求をするのは、彼らが信者たちを支配しようとするもので、パウロはそれが別の福音であるとしています。しかし、パウロは律法の要求をする彼らに向かって厳しく警告しています。「ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。」それだけではありません。その口調の厳しさはますます強くなっています。「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。」

信仰により得られた救いをかき乱している人は呪われるべきだと断言しています。信仰だけではダメだ、信仰生活に深みを付けるためには、信仰とは別のもの、別の努力が必要だとする人々はのろわれるべきです。

この言葉は当時の教会の雰囲気からして、殺される可能性のある危険な発言でした。パウロの福音は既存の形、律法を否定するものでした。律法を守り、神様に捧げる真心を積み重ねることで神様の恵みを頂くのだ、とする既存の考え方を拒否するものでした。新しい葡萄酒は新しい革袋に、と言われたイエス様のお言葉と同じく危ない発言でした。パウロの福音は規程概念を否定し、まったく新しい概念に取り換えたものでした。既存の既得権を無視した全く新しい概念でした。しかし、パウロはこの点で妥協を許しませんでした。パウロの福音はこうです。「救いは、イエス・キリストの十字架を受け入れる、信仰により得られる」と。

そして、自信を持って次のように言っています。「いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。」

これがパウロの福音に対する確信でした。 

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