2011年日本UBF新年御言葉第2講 メッセージ --> 問題紙

感謝をもってたゆまなく祈りなさい

Messanger : MSG Abraham N.

御言葉:コロサイ 4:2-18
要 節:コロサイ 4:2「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。」

おはようございます。2010年が去り、2011年新しい10年の始まりを迎えます。一年の計は元旦にありとよく言いますね。思っていても手を出せなかったことや苦手なことにチャレンジ精神を決意する方も多いでしょう。昨日の主題講義を通して、権力によらず、能力によらず、主の霊の働きを学びました。私たちは、主の霊に頼り、神様に任せられた神殿を再建し、新たな年が神様にしかできないみわざを期待します。では主の霊にしたがい、何からスタートすべきか、今日のみことばは2つのことを教えてくれます。一つは祈ることです。もう一つはあかしをすることです。

今日学ぶコロサイ人への手紙はパウロがローマにおける最初の獄中生活、AD61年ごろに執筆されたそうです。ローマ宣教を夢見てきたものの、牢に幽閉され、明日どうなるか分からない不安と恐れのなかにパウロはいました。この手紙を書いた目的はコロサイ教会の問題にありました。異端的な教えや天使崇拝、禁欲主義などのそれた教えがコロサイの信者の中で蔓延していたのです。コロサイの教会の基礎を築いたエパフラスから相談を受けて書いた書信がこのコロサイ人への手紙です。この手紙が語りかけることにこの時間心を傾けながら、私たちの集まりが、祈りとあかしの二つのことにチャレンジしていく年になることを祈ります。

Ⅰ 祈りなさい(2)

2節をご覧下さい「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。」パウロは獄中にいながら顔も知らないコロサイの信者に手紙を綴りました。手紙を通してキリストこそが唯一の、はじめからの創造主であることをパウロはコロサイの信者に強調しました。キリストに根ざして、古い生活を捨て、主に喜ばれることを行うことを勧めました。だましごとの哲学や幼稚な教えに流されず、御使い礼拝や禁欲に縛られないように教えました。ただあなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさいと勧めました。このようにパウロはコロサイの教会が神様の栄光を現すことを祈っていました。ただキリストの道を歩む集まりであることを願いました。哲学や知識におごらず、キリストのように謙遜で愛し合う人々になることを祈りました。コロサイ人への手紙を読むと如何にパウロがキリストに目を向けるようにしているのかを感じます。心にキリストがフォーカスされていてほしい、パウロの思いが熱く伝わります。それこそがパウロが2節で言うところの「目をさまして」なのだと思います。

目を覚まさない祈りは祈りにならないことを聖書は教えてくれます。目をさまさない、眠った祈りは罪と誘惑に負けてしまうからです。ゲツセマネの園にてイエス様は弟子たちに「目をさまして」いるように命じられました。しかし、弟子たちは三度も目をさましていることができず、主を見捨てる失敗をしてしまいました。目を覚ましているということは眠気がない、肉体的な覚醒を意味します。ストレッチをして運動する体の調子を整えるように、祈りにも祈りにふさわしくからだを整えておく必要があります。またそれ以上に、心の調子を整えるということを私は学びました。

パウロは、この手紙の中でキリストだけを説き続けています。それは、キリストの手紙といっても過言でないほど短い文面の中に幾度となくキリストが登場します。それは彼らがいろいろなことに心奪われ、キリストに目をさましていなかったからではないでしょうか。マルコの福音書9章では、子供についた悪霊の記事が出てきます。弟子たちはお互いの昇進競争に心奪われ、キリストに目をさましていないばかりに、彼らなりに頑張っても悪霊を追い出せませんでした。キリストに目をさましていないと、キリストに心の調子を整えられていないと、祈りが祈りでなくなることを教えられます。水槽に大きな石があれば魚は自由に泳げません。同じように心にキリスト以外の思いが去来していては、主の霊が自由に働けなくなってしまうのです。2010年振り返り、私は目をさましていたのか、私は何から目をさましているべきか振り返りたいと思います。会社のこと、家族のこと、将来のこと、お金のこと。一度、キリストのために心を整え、目をさましてみないでしょうか。

先日、息子が通う教会でクリスマスの劇があり、劇の前、先生が子供たちに神様のために劇をするように教えていました。キリストのため以外にしてはならないことを強く祈っているのを聞きました。劇の本番、私は子供たちがキリストに目をさましている姿を見ました。練習では直前まで台詞を間違え、忘れていた子供もいたのに、本番は完璧でした。キリストに目をさますと主の働きがあることを感じ、私の不信仰を悔い改めました。この小さな子供たちがキリストのためにすることを果たして理解しているのかと言う疑いを悔い改めました。キリストに目ざめ、心整えられるとき、主の霊が働くのです。キリストに目をさますためには、私たちがまず邪魔をする思いを悔い改めなければなりません。悔い改め、心整えられ、目をさました祈りにこそ、主の霊が働くのです。2011年、私たちが新しい年、新しい主の働きに仕えます。私たち一人一人が主に目をさますことを祈ります。悔い改め、心整えられ、目をさまし、各支部において主の霊の働きが豊かになることを祈ります。

次にパウロは「感謝をもって」と言います。問題や争いが多いほど感謝することが少なくなります。祈りにおいても、祈るべきことが積み重なると感謝が減りやすいです。しかし、パウロは祈りにおいて感謝を持つことを教えています。なぜなら、主は明日の私を約束しておらるからです。大和カルバリー・チャペルの大川牧師のことばに次のようなものがあります。「祈りが聞かれた後は、だれでも感謝ができます。大切なのは、祈りが聞かれる前から、先取りをして、感謝をすることです。」イエス様を見てもそうなのだと実感します。5つのパンと2匹の魚で五千人以上もの人々を食べさせるとき、イエス様は感謝をささげて分け与えられました(ヨハ6:11)。また死んで四日もたったラザロの墓の前で祈る前、イエス様はこのようにも言われました。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。」(ヨハ11:41)

祈りの中での感謝は主に恵まれたことを思い起こす感謝もあります。または自分が神と交わること自体を感謝に思うことも大切なことです。そして、祈りにはこの先取りの感謝があることをパウロは教えてくれます。祈りはツイッターのようにつぶやきで終わりません。祈りの時点で、答えがまだ見えていない時点で、祈りの答えに感謝できるのです。この先取りの感謝こそが恵みだと思います。なぜなら見えない中に歩んでいても、私たちは主にあって、祈りによってすでに明日の約束を受け取っているからです。例えそれが求めることさえ絶望的な中にあったとしても、先取りできる感謝を私たちは主から頂いているのです。この祈りは、戦いの祈りでもあります。不信仰と戦う祈りです。でも、答えが見えないからといって、状況が変わらないとって、不信仰に負けてはいけません。ただ、ただ主にすがり、感謝をもって祈り続けるのです。そうすると、祈りがまだ叶えられていなくても、主の真実にゆだねる信仰が湧き、信仰が私を支える力となるからです。

今年西日本UBFとして最初の年を無事に終え、振り返ると感謝の少なさを実感しました。初めての修養会、それは経験のなさからくる不安と恐れの連続でもありました。しかし修養会は主によって非常に恵まれたものとなりました。祈りの支援、東京や韓国からの支援、協力的な同労者に恵まれたことを主に感謝しています。しかし、このみことばにあるように、先取りした感謝ができていれば、どれだけ周りの同労者たちを安心させ、導けたことかと、当時感謝の祈りができていなかった私の信仰の未熟さを思います。また現在私は転職中です。会社の事情で止めるか岐阜に行くかの選択に迫られました。夏頃からこのことで祈り続け、大阪に残るためにやめることにしました。この時、聖書先生から創世記26章のみことばをくれました。イサクのように主が示す地に滞在し、種を蒔き、百倍の収穫のために祈るように勧められました。最初はこの不景気のご時世で百倍の祝福などありえないと否定的でした。でも、繰り返しこのみことばを抱いて祈り続けていくうちに、この祝福に対する信仰を主が強めてくださいました。今は書類を出しても不採用が続いています。その度に心が揺れることもありますが、主にあって感謝します。百倍の収穫で心を平安にしてくださる神様がおられるからです。主は私たちの思い煩いを知っておられます。私の明日は主が答えを約束しておられます。私の不安や恐れを喜びに変えるのはただ、私たちのためにいのちを捨てられた主以外におられません。この感謝にこそ主のまことの平安が満ちているのです。聖書は言います。「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリ4:6-7)

そして最後に「たゆみなく祈りなさい」とあります。明日は元旦です。多くの人が神社に行き初詣をする日です。わたしもイエス様を信じる前までは初詣をしていましたが、それは年に一度しかしない祈りでした。パウロがここで言うたゆみない祈りとはそのような祈りではありません。たゆむと言うのは、緊張がゆるみ、糸が切れてしまうような状態です。たゆみなく祈るということは、いつまでも祈りを切らさないことです。イエス様もルカの福音書11章にてたゆみなく祈ることの大切さを教えています。「だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」これは有名な聖句です。しかしこれは逆に言えば、求めないと受けず、捜さないと見つけられず、たたかないと開かないことをも私たちに示唆しているのではないでしょうか。祈り求めるのであれば答えが与えられるまで祈り続けるべきです。捜し求めているのであれば、たゆみなく祈るべきです。

私の携帯電話は秋頃から調子が悪く相手の声が聞こえなくなっています。電波の良いところでしか聞こえないため、いろいろな人に迷惑をかけています。相手は私の声が聞こえているのですが、電話が鳴るたびに、私は電波の良い場所を探しまわり、電話ひとつに苦労するようになりました。相手の声が聞こえない電話、それは祈りにも似ているのかもしれないと思いました。私たちの声は神様に聞こえていても、私たちが聞こえていないときがあります。逆に主が祈りの答えを語りかけておられるのに、私たちの心が主に一致していないために聞こえてこないときがあります。たゆみなく祈ることは同じことばを繰り返すだけではないと思います。それは主のお心がどこにあるのか、私と主との距離を確認し、縮め、主と思いが同じになるまで続けてゆくことでもあります。ゲツセマネのイエス様は最初、主の願いと距離のある祈りでした。しかし、たゆみなく祈り続けることで、みこころのとおりをなさってくださいという主の思いと一致した祈りになりました。

昨年秋、私の祖父は脳血管が破裂し救急車に運ばれバルナバ宣教師の勤めておられる循環器病センターに搬送されました。家族は手術を望みましたが、医師の話では94歳では10%の確率もないと言われました。幸いにも手術は成功しましたが、右半身は麻痺し意識は戻りませんでした。私とサラ牧者は積極的にあかしできなかったことを悔い改めました。以来、私の家は祖父のために祈り続けました。そして祖父のために祈ってくれるように息子勇久に頼みました。それから勇久は毎晩寝る前に「ひぃじぃじぃ、よくなるように」と呪文を唱えるように祈り続けています。でも主はこの小さなたゆみない祈りをしっかりと聞いて下さいました。神様は恵みをかけてくださり、完全ではないですが意識がもどってきています。調子が良いと少し声も出します。今95歳ですが、ありえないほどの回復で見舞いに来る勇久の顔を見ると微笑み、元気なら手を動かして挨拶します。神様は幼い4歳のたゆみない祈りにもきちんと答えておられることに感謝しました。

ならば私たちの祈りはどうでしょうか。日本のためにもう10年以上も宣教師たちがたゆまず祈ってきたことはどうなるのでしょうか。4歳のたゆまない祈りに答えてくださる主が、答えてくださらないわけがあるでしょうか。この国は主の霊が働くのです。この国はたゆまず祈っておられる方々の祈りの通りに主が働き、救われるのです。この国の学生は、たゆまない涙の祈りのとおりにいのちの救いが豊かにもたらされるのです。私たちはこのことに目をさますべきではないでしょうか。困難、不信、あきらめから目をさますべきではないでしょうか。今もこうして明日を約束される主、祈りを聞いておられる主に感謝をささげるべきではないでしょうか。2011年、各支部においてますますたゆみない祈りが続く一年となるようにお祈りいたします。祈りの通りに神様が働くわざを見る一年となるようにお祈りいたします。主の霊が働き、各支部に信仰の先祖が立てられる一年となるようにお祈りいたします。

Ⅱ あかしをしなさい(3-17)

3節をご覧下さい。「同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。」パウロはあかしをする前に、とりなしの祈りをコロサイの信者に求めています。パウロがローマで開拓することとコロサイの信者には何かつながりがあるわけでもありません。でも、パウロは自分のしようとすることについて、ひとりでも多くのとりなしを必要にしていました。パウロはまず御言葉をあかしする機会、門が開けるように祈りを頼んでいます。次に、キリストの奥義を語れるように祈りの支援を求めています。パウロほどの信者なら主をあかしするメッセージのストックはいっぱいあるように思えます。でも、パウロはキリストをあかしできるように祈って欲しいと頼んでいます。なぜならそれは奥義だからです。福音は神様の奥義です。会社の秘密はそれを知れば話すことができるでしょう。しかし、神様の奥義と言う秘密は私たち人がいくら努力しても理解できるところにあるものではありません。キリストご自身とその栄光を語るのは、多くの祈りと知恵を必要とすることをパウロは知っていました。人にはできないことだとパウロは認めていました。だらこそ祈りを頼んだのです。私はここにパウロの主を恐れ、謙遜に仕える姿勢を感じます。

4節をご覧下さい。「また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください。」私たちが愛していると伝えるとき、感情もなく言うのと、感情を込めて言うのでは伝わり方がぜんぜん違うことになります。神様をあかしする語り方も、みことばも伝え方があることを学びます。みことばという素材を活かす話し方です。料理人が材料の素材を最高に引き出すように、私たちは聖書の言葉の味を最大に活かす方法で話す知恵を求めることをパウロは教えてくれます。またはっきり語れるとは、何によっても邪魔されず、最後まで伝えきることです。

パウロを通してあかしをするにおいてもとりなしの祈りの大切さを学びます。私たちの誰かが主をあかしするとき、私たちは神様に多くを祈ります。また同労者にとりなしの祈りをもらうことを学びます。主に生きる道をともにささえあう同労者こそ、最高のサポーターだからです。サラ牧者は姉妹と大事な時間を持つとき、御言葉を伝えるときは私たち全員に携帯メールでとりなしの祈りを良く頼みます。ラクビーを見るとトライする人は一人ですが、そこまでにはDFが相手を抑え、MFがともに走り、ほかのすべての味方がひとりを援護しています。One for All, All for Oneと言うことばはそのことを良く表しています。私はこの、All for Oneという姿勢を学びました。姉妹に何か問題や相談ごとがあるとき、私たちは全員が集まるようにしています。話し合うとき、祈りあうとき、遊びに行くとき、食べに行くとき、ひとりを助けるために全員が動くようにして助けたとき、兄弟姉妹の心が開いてゆくのを見ることができました。今年祈りによってとりなす働き日本中で飛び交う一年にしてゆきましょう。

5-6節をご覧下さい。「外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。」私たちは福音をあかしするセールスマンのような働きを主にゆだねられています。いくら素晴らしい福音でも、機会を十分に活かさないと相手にとってはただのやかましいどらの音になりかねません。セールスマンが相手の状況を察知し、ベストな提案をするように、私たちがあかしすることばも主によって整えられることが大事です。塩は食べ物が腐らないようにする役割があります。そのように私たちの言葉が相手のいのちを罪で腐らないように防腐するものとなるように祈ります。私たちは相手の気分を害し、腐らせることばを発するのではなく、相手のいのちを活かすものであるべきだと思います。

7-9節でパウロはこの手紙をテキコとオネシモに託していることが分かります。パウロに相談に来たエパウラスも、ローマで捕らえられていたためです。

10-17節は挨拶です。パウロのどの手紙にも例外なく、最後はいろいろな人からの挨拶が最後にあります。この部分を見るとコロサイの教会のためにいろいろな方がとりなしていることが分かります。私たちの集まりも同じだと思います。どれほどの方々が私の集まりのために祈っていてくれ、主にとりなしているか、そういった方々を一人一人書いてゆけば、この本文のように多くの方々がでてくることでしょう。パウロは彼らからの安否を伝え、この手紙をラオデキヤ人の教会にも回すように、主にあって受けた務めを、注意してよく果たすことを願いこの手紙を閉じています。

最後にパウロから祈りを学びました。あかしにも祈りが大事なことを学びます。祈りを通して今年主の霊の働きを体験する一年となるように祈ります。祈り、主の霊に満たされて、与える人になりましょう。あかしをし福音の種を蒔きましょう。今年の祈りの生活を主が豊かに深めてくださるようにお祈りいたします。


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