Counter: 1280, today: 1, yesterday: 1

2012年長崎UBF ルカの福音書 第13講 メッセージ --> 問題紙

風と荒波をしかりつけられたイエス様

Messenger:MSN.David

御言葉:ルカの福音書 8:40-56
要 節:ルカの福音書 8:50「これを聞いて、イエスは答えられた。『恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。』」

信仰とは何なのか、不思議な世界であります。特に、自然科学をする人たち、理屈と結果が伴うことを本職としている人々にとっては認めたくない世界に違いありません。自然科学の中でも西洋医学に関わる人々にとって信仰の世界は理解できないところ、偶然に片づけたいところが多い部分です。今日の本文のな今日も、お医者さんのルカが伝える信仰の世界についてのもので、曖昧に片づけられやすいところですが、ルカははっきりと信仰の世界について記録しています。今日の御言葉を通して、お医者さんルカが記録した信仰の世界について学ぶことができますように祈ります。

さて、イエスは群衆喜びでした。みなイエスを待ちわびていたました。イエスを待ちわびていたのは群衆だけではありませんでいsた。ヤイロという人もいました。この人は会堂管理者であった。彼はイエスを見ると、その足もとにひれ伏して自分の家に来ていただきたいとお願いをしました。理由がありました。彼には十二歳ぐらいのひとり娘がいましたが、病気で死にかけていました。ヤイロはイエスが自分の家に来てくださることで、娘の病気や死にかけていた状況が変わることを信じていました。イエスがヤイロの要請を受けて、お出かけになると、群衆がみもとに押し迫って来ました。

さて、ヤイロの家に向かっていたイエスの元に多くの群数が押し迫っていましたが、著者ルカはその中の一人、十二年の間長血をわずらった女について記録しています。彼女はだれにも直してもらえなかった経歴を持っていました。多くの人に治療してもらい、多くの病院に通った経歴を持っている女でした。彼女はもう、自分の病気が治る希望すら持ちませんでした。しかし、この女はイエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわりました。すると、たちどころに出血が止まりました。マルコの福音書を見ると、彼女の長血が止まった理由を次のように記録しています。「『お着物にさわることでもできれば、きっと直る。』と考えていたからである」と。

彼女にはイエスへの信仰がありました。イエスへの信仰があったとは、神様への信仰があったことを指します。お医者さんへの信頼があるだけでも、私たちの体は反応するとの研究結果が発表されています。私たちの信頼や信仰には説明できない不思議な力がありますが、その信仰の対象が神様に向け、イエス・キリストにある人にはその信頼と信仰に裏切りがない実現があることを、著者ルカは記録しています。ルカはお医者さんで、治療された原因やその経緯を見つめている人でした。その彼は多くのお医者さんの努力にも治療できなかった長血が、イエスへの信頼と信仰により十二年間の働きに終止符を打ったことを、報告しています。

それだけではありません。ルカはその十二年間の病気から癒しの力が発揮されたのは漠然とした信頼と信仰があり何気なく治療に結びついたのだと説明していません。45節から非常に具体的な説明をしています。イエスが「わたしにさわったのは、だれですか。」と質問する場面を設定しているところです。病気からの癒しはイエスから流れた確実な神の力であったのです。ペテロは「先生。この大ぜいの人が、ひしめき合って押しているのです。」と言い、多く人がイエスに触っていることを報告しています。しかし、イエスの力は大勢の人々に吸い取られませんでした。多くの人々に一気に働きませんでした。多くの人々がイエスを触りましたが、その中でもイエスの力、神様の力は一人だけに吸い取られたことを記録しています。イエスの力、神様の力は一人に注がれました。一人に引っ張られました。「だれかが、わたしにさわったのです。わたしから力が出て行くのを感じたのだから。」とイエスは言われました。

ここから私たちはイエスの力、神様の力が働いていることを学びます。イエスの力、神様の力は歴然としてあり、働いていることを、お医者のルカは説明しています。その働くところは十二年間長血に患っていた女でした。そのように働きましたか。ルカは補足していませんが、マルコは次のように補足しています。「『お着物にさわることでもできれば、きっと直る。』と考えていたからである」と。この中でも特に、「きっと治る」とイエスの絶大な力、神様の力を信頼した信仰が彼女に神様の力が流れるようになった原因があるとしています。

聖書は神様の力が全能であると教えています。この宇宙を、この地球を、人間を、光を多衆多様な植物をおつくりになったのは神様であると教えています。科学者はその神様のお力の一部を解明しているのですが、そのお力は説明しきれない、不思議に包まれています。私たちに求められているのはそのお力がイエスに、神様に存在することを受け入れることです。更に、長血を患っていた女のように、具体的なところにお行って、イエスの力、神様の力を体験する人になりうることを教えています。イエスは女に言われました。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」

私たちは人生の中、様々な困難にさいなまれます。希望が持てず、山にぶつかることがあります。全く道が見えず、どうすればいいのか、迷う時もあります。しかしながら、聖書は「神様には道があり、イエス・キリストからは解決の糸口がある」ことを、「信仰」するよう教えています。ルカは全くと言っていいほど、絶望的であった女であった人が、全能な神様に対する信頼と信仰、イエス・キリストへの信頼と信仰が絶望的な人生のヤマを越えさせたことを記録しています。聖書はこのような信仰の記録の塊です。私たちの人生に苦しみと悲しみは、神様により糸口が計画されています。イエス・キリストへの願いから解決の道が備えられています。その山に備えがあると確信していたアブラハムが、イサクを通して経験していたあの奇跡が、神様には供えられているのです。

ルカは長血を患っていた女の軌跡を記録したところに泊まりませんでした。それよりはるかに驚く事実を記録しています。

49節をご覧ください。イエスがまだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人が来て言いました。「あなたのお嬢さんはなくなりました。もう、先生を煩わすことはありません。」あの、ヤイロの死にかけていた娘が死んだことへの知らせでした。しかし、これを聞いて、イエスはヤイロに答えられました。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」イエスがヤイロに要求した信仰は死の勢力さえも乗り越える信仰でした。十二年間の長血から治る信仰だけでなく、もう死んでしまったひとが生き返る、復活の信仰を要求しました。死んでしまった人でも、復活が神様にはあることを信頼するよう求めました。そして動き始めました。イエスは家にはいられたが、ペテロとヨハネとヤコブ、それに子どもの父と母のほかは、だれもいっしょにはいることをお許しになりませんでした。人々はみな、娘のために泣き悲しんでいました。しかし、イエスは言われました。「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」死んだ人を前にして、眠っていると言っていました。人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑いました。しかしイエスは、娘の手を取って、叫んで言われました。「子どもよ。起きなさい。」すると、娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がりました。それでイエスは、娘に食事をさせるように言いつけられました。両親がひどく驚いていました。すると、イエスは、この出来事をだれにも話さないように命じられました。

ヨハネの福音書を見ると、イエスはこう言われます。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」私たちの信仰は死までも乗り越える力の持ち主の神への信仰が必要です。復活信仰、死を超える信仰、全能な神様の死の勢力さえも左右するお力を持っていることを信じるべきです。


トップ   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS