2011年日本UBF新年御言葉第1講 メッセージ --> 問題紙

万軍の主の霊によって

Messanger : MSN David.J.

御言葉:ゼカリヤ 4:1-4:14
要 節:ゼカリヤ 4:6「すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。」

西暦2000年になった時、私たちの周りには様々なことがうわさされていました。世界のコンピュータが2000年問題でおおわれていました。2000年という新しい世紀が開かれる感動もありましたが、私個人的には前の職場で首になり、新しい職場を探すのに必死の年でした。それからもう10年が過ぎ、2011年を迎えるようになりました。私も50の歳を迎え、孫が生まれても不思議でない齢となりました。20年近く前に、アメリカの修養会に参加した時、今はおなくになられましたSamuel宣教師がこう話していたことを記憶しています。「以前はメッセージの中でいろいろとウソのような話もしてましたが、今になってはやっと聖書も、神様も分かっているような気がします。」年をとることは必ずしも悲しいことではなく、熟練した経験と貫録がつくもので、なんとなく安定感が増すような気がします。それと同時に、聖書の意味も深まり、信仰生活の喜びも増し、神様とともに歩むことの大切さも分かってくる時期です。

「万軍の主の霊によって」このメッセージが恵み豊かに述べ伝えられますように祈ります。

さて、今日の御言葉の内容はゼルバベルがスタートさせたイスラエルの神殿建築のお話です。神殿とは教会のことで、信者にとっては美しく作り上げて、神様に捧げたいと思っているものです。私は今の東京UBFが教会としてのビルを買い取った時、喜びがありました。たまに行きますが、いつ行ってもほっとするところです。長崎も神様に美しい教会をささげたいなぁ、と思うようになります。今も、UBFで育った私は大学周辺の売り物件や近くの土地売買の物件が貼り出されると、UBF教会として相応しい場所だなぁ、と思ったりします。教会は信者にとって安息地であり、よりどころです。21年前、大学の研究室から、大きな十字架の建物が見えていました。その夕方、必死にその教会までたどり着いた時、何とも言いようのない喜びと神様への感謝の気持ちがわいてきたことを覚えています。私の子供全員が、その教会が営む小学校でお世話になっており、立派なアメリカ人宣教師の精神が受け継げられています。教会は信者からして欠かせられないものです。信者でない人たちにも神様の恵みを伝える重要なところです。

しかし、今日のメッセージのタイトルにもあるように、神様はこのような重要な神殿建築を計画し、スタートさせたゼルバベルにどうしても言っておきたいものがありました。ゼカリヤの幻の中にまで登場し、こう言われました。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』本当の教会は、権力にって作られてもいけないし、能力によって作られてもいけないのだ、というものです。本当の教会は神様の霊によって作られるべきであると、言うメッセージです。万軍の主の霊によって作られる教会が、神様の切なる願いであり、ゼルバベルに伝えたいメッセージでした。今日の御言葉を通して、神様の切なる願いとメッセージを耳にすることができますよう祈ります。

4章1節の御言葉をご覧ください。「私と話していた御使いが戻って来て、私を呼びさましたので、私は眠りからさまされた人のようであった。」ゼカリヤ書は預言者ゼカリヤにより記録されたもので、ペルシアの王・ダリヨス時代(BC520年頃)、ユダの総督として派遣されたペルシアの官僚・ゼルバベルと当時の大祭司ヨシュアに対して励ましの言葉がつづられています。今日の本文はゼカリヤが見た八つの幻のうち、五つ目の幻が記録されています。

2-3節をご覧ください。「彼は私に言った。『あなたは何を見ているのか。』そこで私は答えた。『私が見ますと、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には、鉢があり、その鉢の上には七つのともしび皿があり、この上部にあるともしび皿には、それぞれ七つの管がついています。また、そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はこの鉢の右に、他の一本はその左にあります。』」ゼカリヤは五つ目に見ていた幻を説明しています。このメッセージを書きながら、頭で想定しながらゼカリヤが見た五つ目の幻を絵で描いてみましたが、いろいろ探してみたら、イスラエルの国章の中に記録されたものが、この幻の黄金の燭台と二本のオリーブの木でした。日本の国章は天皇の紋章を示す「菊」です。TBS系列の有名な時代ドラマ「水戸黄門」の格さんがクライマックスの時に手にして、「この紋どころが目に入らぬか。このお方をどなたと心得る。恐れ多くも先の副将軍、水戸光圀公(みつくにこう)にあらせられるぞ。」と叫びながら、見せている紋章(印籠、いんろう)は徳川将軍の紋章です。

ゼカリヤは神様から紋章を見せられたのです。4節を見ると、ゼカリヤは御使いにこう言っています。「主よ。これらは何ですか。」御使いは「あなたは、これらが何か知らないのか。」と尋ね、「主よ。知りません。」と応えるゼカリヤに、御使いは次のように説明しています。6節「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。」御使いが説明を加えた、この御言葉の意味がなんでしょうか。

第一に、ゼルバベルへの主の言葉です。

ゼカリヤが見た幻は、ゼルバベルに伝えたい主の言葉でした。ゼルバベルは平信徒でした。ゼルバベルは権力を持っていました。ペルシアの王・ダリヨスに信頼され、ユダヤの総督として任命されたものでした。ペルシアの官僚だったゼルバベルは能力がありました。ゼルバベルはダビデ王家の直系の子孫として華やかだった先祖ソロモンの神殿を立て直したい強い願いがありました。

UBFの宣教師たちは平信徒として、ゼルバベルの子孫です。霊的に見ればダビデの王家の直系であり、美しい教会をそれぞれの使命の地で、建てたいと願っているものです。知恵を絞って、私に力がなければ、周りの人々の能力や力を借りてでも、神の教会をたてる目的を達成したいものです。建築献金を計画させ、宣教建築本部を立ち上げて、委員たちを決め、祈り会を開き、毎週のように問題点をチェックしながら、建築行事が終わるまで、力を尽くして建築の御業を成し遂げたいものです。必ずしも、建物でなくても、教会のメンバーを増やし、多くの学生たちが訪れるUBFに仕上げたいと願っています。プリントを用意し、招待状を作り、集まりを設け、勉強会を開きます。

1864年、日本はフランスとの条約締結後、長崎にフランス寺が建てられます。今の、大浦天主堂、日本で唯一の国宝建築物(現在は、重要文化財)です。そして、翌年の1865年、浦上村の隠れて信仰を守っていたキリシタンたちがフランス寺を訪れ、当時のベルナール・プティジャン神父に近づき、「ワレラノムネ(旨)アナタノムネトオナジ」(私たちはキリスト教を信じています)と告白し、信徒発見の歴史が幕を開いたのです。しかし、その2年後の1867年、浦上村の村民たちは江戸幕府の指令により、大量に捕縛されて拷問を受けます。そして江戸幕府のキリスト教禁止政策をひきついだ明治政府の手によって流罪とされ、3394名のほとんどの浦上の村民たちが「津和野、萩、福山」へと強制移住させられことをはじめとして、全国、あらゆる場所に流配されたのです。人々は町を離れる行くとき、この流罪の苦難を「旅」と称し、いつかは戻ってくる夢を持っていたのです。その6年後の1873年、多くの外国の非難を受けた日本政府のキリスト教禁教制の撤廃により、うち662名は旅先で命を落としましたが、生き残った信徒たちは「旅」先で信仰を強くし、長崎の浦上村に戻ったのです。そして、その6年後の1879年、彼らは信仰の故郷・浦上に教会を建てたのです。今の浦上教会です。1945年、原爆により浦上教会は完全に廃墟となってしまいましたが、彼らはまた、その場所に美しい教会を建て、今に至っています。

この浦上教会の再建を2500年ほどさかのぼる、BC520年ごろ、新バビロニア帝国により流罪となり、苦難の旅を強いられていたイスラエルの民たちは、崩された故郷の教会を建てる計画を立てたのです。ユダヤの総督として任命されたゼルバベルは権力をもってでも、能力と力を絞ってでも、この教会再建の夢を、故郷に帰してあげたいと願っていたに違いありません。心が燃えていたゼルバベルはまるで、UBFの宣教師たちのようです。エルサレムに教会再建を目指し、朝は欠かさず日ごとの糧を食べ、祈りをし、神様が与えられた羊たちと聖書勉強に励んでいたことでしょう。その時、預言者ゼカリヤは、幻をもってゼルバベルへの主の言葉を耳にしたのです。

ゼルバベルへの主の言葉とは、ゼルバベルが必ず守るべき命令のことです。ゼルバベルがもし、これを守らないのなら、それは死を意味します。ゼルバベルの死であり、教会の死であり、イスラエルの死を意味するものです。それは主、神様を逆らう行為なのです。ゼカリヤはゼルバベルが必ず守るべき大事な主のお言葉を頂いたのです。それでは、そのお言葉がなんでしょうか。

第二に、権力によらず、能力によらず、です。

主の言葉は、『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』教会を再建しなさい、という意味でした。これを見ると、神様はゼルバベルの過ちを見ていました。それは、ゼルバベルが総督としての権力を利用して、教会再建を計画していたことでした。総督の権力とは総督という肩書が与える力のことを指します。私たちはこの世の中を生きている間、いくつかの肩書を持ちます。主任、係長、課長、部長などその肩書は様々です。その肩書は力があります。その肩書の力のことを、権力と言っています。肩書が偉いものほど、権力は強くなります。総理大臣の肩書は国の方針を決める権力が与えられています。その力は誰が総理大臣であろうと関係なく、総理大臣という肩書についてくる力のことを、権力と言っています。ゼルバベルはまさしく、ユダヤの総理大臣として、その国を動かす権力が与えられていたのです。ゼルバベルはこの力で、教会再建をと、考えていたのです。しかし、主は仰せになりました。『権力によらず』これは、権力を教会再建に用いるな、という意味です。 もうひとつは『能力によらず』とも言われています。能力とは英語ではPowerと書いてあります。英語の辞典を探してみると、Powerは「知力、体力、精神力、才能、才覚」と説明されいます。これは渾身の力を振り絞って、教会再建に取り組んでいるゼルバベルの様子を描いたいものです。ゼルバベルの総督としての使命は、教会再建でした。彼は総督としての権力はもちろん、自分が持っているすべての知力、体力、精神力、才能、才覚を振りぼって、教会再建を夢見ていました。絶対成し遂げると、確信しながら一日一日を過ごしていました。このゼルバベルに主は仰せになりました。『権力によらず、能力によらず』知力、体力、精神力、才能、才覚を使って、教会再建には取り組むな、と言われたのです。

私はたまに、今通っている職場が国立ではありますが、キリスト教の色をくっきりしていくべきだと思う時があります。力を振り絞って、私のいるところに立派な教会を建築したい気持ちもあります。問題はそのような夢と気持ちにそぐわない力の無さと、努力の足りなさ、体の誘惑に負けて途中、あやふやに止めてしまう悪い癖が情けないだけです。忍耐力が続けることなら、意思が揺るがないのなら、私の力、知恵、権力などなどを使って、教会再建を実現したいところです。しかし、今日の御言葉はこのような私の基本的な考え方に水を差しているような気がします。『権力によらず、能力によらず』すべてを否定しています。しかし、主は否定だけにとどまっておりません。正しい道を案内しています。主が伝えたいゼルバベルへの言葉が何でしょうか。

第三に、『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』です。

私の霊によって、「by my spirit!!」。神様の霊によって教会再建を計画するよう勧めています。それでは、「私の霊によって教会再建を進める」とはどんな意味でしょうか。一切、権力の力を加えず、一切、能力に頼らず、ただ神の霊を信頼することです。権力はだめでも、能力はダメでも、力がなく、忍耐力も、意志が足りなくても、神の霊は成功することを確信することです。一言でいえば、神様を信頼することです。神様を信頼するとは、神様は生きておられて、信頼するすべての人々とともにしておられる方であることを信じることです。また、このように神様に近づく者には必ず、神様からの報いが与えられることを信頼することです。教会の建築は、まず、私の心の中に生きておられる神様への信仰と信頼を回復することです。私たちに権力がなくても、能力がなくても、神様への信頼と信仰があるところに教会が建てられます。イエスさまは言われたのです。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。(マタイ18章20節)」教会はまず、私の心に再建すべきです。教会はまず、私の隣人と作り上げるべきです。私の家族と教会再建を心懸けるべきです。神様はゼルバベルに、権力を信頼せず、能力を信頼せず、神様の前で一人、罪びととしての自分を認め、救い主である神様を信頼することによって、教会再建を計画するよう、勧めています。

出身センターで多くの宣教師希望者がいました。私のサポートも足りなかったのですが、神様が開かない強引な道開きを、私は基本的に拒んでいました。そのためか、今はすっかり希望者もいなくなりました。20年たった長い歴史があるにもかかわらず、礼拝には常にうちの家族のみが守ることが多くなりました。幸い、神様からの子だくさんの御恵みに包まれていて、礼拝者の数はそこそこいるのです。これこそ神様の御恵みです。今年度のクリスマス礼拝を準備するときに、次男坊がこう言いました。「お父さん、今回のクリスマス礼拝はさびしいね。家族のみでしょう?」その話を聞くと、なんだかさびしくなりました。20年間、何をしたのだろうと、自虐する声が聞こえてきました。同労者は最近、センターの家賃が心配になり、建物の大家さんに家賃の交渉をしたそうです。いくらか安くしてもらったようです。更には、センターに来る郵便物は戻ることが多く、電話はインターネットの申請をしたせいか、信号は行くのですがセンターの電話は無言のままです。教会再建どころか、つぶれる恐れに覆われています。しかし、神様はあわれみ深い方です。こんなに厳しい状況の中でも、私たちの信仰の喜びをつぶしていないのです。いやむしろ、厳しい環境にもかかわらず、信仰の喜び、信じることの素晴らしさは増している気がします。見える形はさびしいのですが、人々に勧める信仰の世界への招待の声は以前より自信がついています。なんだか心が強くなった気がします。聖書勉強をし、成長しているかのように見えた人々が、足を洗おうとする様子を見ると、以前は何とか止めようと工夫したり、心のもみ合いが始まったのですが、最近は「信仰の宝を捨てようとする人を無理にとどめる必要はない、私の力でできるわけでもないし、神様が用意した別のものがいるはず。」と思うようになったのです。歳のせいでしょうね。しかし、確かなことは一つあります。神様は生きておられ、近づく者に報いを用意していることです。また、信仰は宝であり、この信仰の世界に、日本の多くの人々が招待されているということです。数からすれば日本は確か、少ないのですが、私たちの神様はえこひいきする方ではありません。ユダヤ人もギリシャ人も、アメリカ人も、日本人も、のろわれるべき異邦人からも、神様はお選びの人々をご用意されているのです。私たちにはそのような人々を見つけ出し、一緒に喜ぶ幸せな恵みの使命が与えられているのです。

このような信者探し、宝探しは、『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』完成するものです。神様の教会再建も、『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』出来上がる神様の御業です。12弟子養成をお約束として頂いた人は、そのお約束を必ず成し遂げる神様を信頼すべきです。権力や能力によって成し遂げようとする傲慢を悔い改めるべきです。ひとりのアブラハム、サラをお約束として頂いた人は、そのお約束を必ず実現する神様を確信し感謝すべきです。私たちがいる場所が祝福の場所であり、祝福となるとお約束してくださった神様の言葉が、必ず実現する時が来ることを確信し、涙をもって感謝すべきです。私たちの貧弱な権力は邪魔ものです。能力も邪魔ものです。万軍の主の霊が働くだけで、十分なのです。私たちに求められるものは、万軍の主の霊への信頼と信仰です。感謝と賛美です。その時、神様の祝福が訪れます。教会が成立します。真の教会再建が完成します。詩篇の記者は万軍の主の霊にたよる人のことを指して、次のように歌っています。「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」

私たちが信じるとき、どうなりますか。7節、「大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。」山も平地となります。人々は『恵みあれ。これに恵みあれ。』と叫びながら、かしら石を運び出します。ゼルバベルが権力によらず、能力によらず、万軍の主の霊に頼れば、神様の祝福は増します。神様は言われます。「ゼルバベルの手が、この宮の礎を据えた。彼の手が、それを完成する。このとき、あなたは、万軍の主が私をあなたがたに遣わされたことを知ろう。だれが、その日を小さな事としてさげすんだのか。これらは、ゼルバベルの手にある下げ振りを見て喜ぼう。これらの七つは、全地を行き巡る主の目である。」

幻の二本の木について尋ねるゼカリヤに御使いは言われます。「これらは、全地の主のそばに立つ、ふたりの油そそがれた者だ。」教会再建を支えるのは、ベルセブルと大祭司ヨシュアなのです。を指しているといわれていますが、


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