** 2010年日本UBF新年御言葉第1講 メッセージ --> [[問題紙>2010NewYear01q]] [#u89aac12]

|SIZE(20){片手で仕事、片手に聖書を}|

御言葉:ネヘミヤ記 4:1-6:19&br;
要 節:ネヘミヤ記 4:17「城壁を築く者たち、荷をかついで運ぶ者たちは、片手で仕事をし、片手に投げ槍を堅く握っていた。」

Happy New Year !!
 
2010年を迎える私たちに、ネヘミヤ記の御言葉を勉強するようにしてくださいました神様に感謝いたします。ネヘミヤ記はネヘミヤが記録したもので、BC.440年代の、イスラエルがペルシア王国によって支配された時代を背景にしています。ネヘミヤはペルシア王国の王室で献酌官として働いていたユダヤ人でした。彼は祭司や祭司長でもなければ、祭司の子孫でもない、ごく普通のユダヤ系の人で、ペルシア王国の公務員でした。献酌官とは王に酒を注ぐ仕事をする人で、王の信任を得ないと働けない職場でしたので、当時のペルシア王国のアルタシャスタ王に信頼された人物でありましたが、今日の御言葉からして彼は唯一の神を信じる信仰の人でした。つまり、ネヘミヤは片手で仕事をし、片手で聖書を握った、信仰の人でした。

1章の御言葉を見ると、王の信任を受け、王には影響力を持っていた彼には多くの陳情が寄せられていたようでした。その中で、同族のユダヤ人たちからの陳情があり、親類を通じて、ユダヤ人の同族たちはペルシア王国の捕虜となり、捕囚として苦しめられていること、また、ユダヤ人の心ともいわれるエルサレムの城壁が火で焼き尽くされ、崩れ去ったままになっていることなどを耳にしました。そのとき彼は、すわって泣きました。数日の間、喪に服し、断食して天の神の前に祈って、悲しみました。その時の彼の祈りについて1章には詳細に記録されています。

「ああ、天の神、主。大いなる、恐るべき神。主を愛し、主の命令を守る者に対しては、契約を守り、いつくしみを賜わる方。どうぞ、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。私は今、あなたのしもべイスラエル人のために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエル人の罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。私たちは、あなたに対して非常に悪いことをして、あなたのしもべモーセにお命じになった命令も、おきても、定めも守りませんでした。しかしどうか、あなたのしもべモーセにお命じになったことばを、思い起こしてください。『あなたがたが不信の罪を犯すなら、わたしはあなたがたを諸国民の間に散らす。あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの命令を守り行なうなら、たとい、あなたがたのうちの散らされた者が天の果てにいても、わたしはそこから彼らを集め、わたしの名を住ませるためにわたしが選んだ場所に、彼らを連れて来る。』と。これらの者たちは、あなたの偉大な力とその力強い御手をもって、あなたが贖われたあなたのしもべ、あなたの民です。ああ、主よ。どうぞ、このしもべの祈りと、あなたの名を喜んで敬うあなたのしもべたちの祈りとに、耳を傾けてください。どうぞ、きょう、このしもべに幸いを見せ、この人の前に、あわれみを受けさせてくださいますように。」

彼の祈りから、私たちは彼の神様への信仰について学びます。

彼が座って泣き、悲しみ、祈ったのは、天の神、大いなる神、恐るべき神を知っていたからでした。何よりも、ネヘミヤは自分が神様の前で罪びとであることを、また自分の先祖も神様の前に立つ悲しみ深い罪びとであることを知っている人間でした。自分自身、どんなに弱く、罪深い人間であるのかを知っている人でした。しかしながら、彼が怖れおののき、大いなる方として信じる神様は、主の命令を守り、契約を守るなら、いつくしみを賜る方であるということでした。ネヘミヤの神様への信仰はいつくしみを賜る神様、祈りを聞いてくださる神様、でした。神様は慈しみ深い方です。罪を告白し、自分の過ちを素直に認め、全能なる神様、大いなる神様の前に立つとき、神様はその人の味方となられます。その人の祈りを聞いてくださる方です。

その神様についてわかっているネヘミヤは、神様の中での夢を持つことができました。

ネヘミヤがユダヤ人の悲しみと火で焼き尽くされたエルサレムの城壁について聞いた時、ネヘミヤはこの神様を見上げることができました。神様を見上げた時、彼には一つの確実な夢が生まれました。それは神様の力で焼き尽くされたエルサレムの城壁を立て直すことでした。ペルシアの敗北国であり支配されているイスラエルの象徴、エルサレム城壁が復元されることは、ペルシア王国が力を発揮している今、可能性ゼロでした。それはペルシア王国に対しる反逆、反乱とも受け取れかねないことだからでした。ペルシアは世界を征服した国でした。ペルシアの捕虜となったイスラエルと同族であるネヘミヤが人間的な立場を考えると、無謀な夢であり計画でした。いくら考えても、可能性ゼロの夢であり、有名無実として終わりかねないものでした。

しまも、4章1節から6節までの記録を見ると、ネヘミヤは予想通りの反対にぶつかりました。当時、サマリヤの総督であったサヌバラテやアモン人トビヤから強い抵抗にぶつかりました。「この哀れなユダヤ人たちは、いったい何をしているのか。あれを修復して、いけにえをささげようとするのか。一日で仕上げようとするのか。焼けてしまった石をちりあくたの山から生き返らせようとするのか。」「彼らの建て直している城壁なら、一匹の狐が上っても、その石垣をくずしてしまうだろう。」

人間的な立場からしてみれば、ネヘミヤはユダヤの総督として任命された立場でした。しかも、当時のペルシアの王、アルタシャスタ王の側近として深い信頼を受けてユダヤの総督に任命された人でした。どう見ても、ネヘミヤがサマリヤの総督・サヌバラテにあんな批判を受けるわけにはならないし、しかもアモン人トビヤの相手ではありませんでした。ネヘミヤはアルタシャスタ王から譲り受けた権力と軍備により彼らを武力で抑え込むことも十分可能でした。

しかし、ネヘミヤの対応はどうですか。ネヘミヤはこの仕事を、人間的な知恵や策略、社会的な情勢や政治的な力関係からスタートしたわけではありませんでした。ネヘミヤは最初から最後まで、神様に頼り、今回の仕事を全うしようと心に決めました。4節にはその対応について次のように記録されています。「お聞きください、私たちの神。私たちは軽蔑されています。彼らのそしりを彼らの頭に返し、彼らが捕囚の地でかすめ奪われるようにしてください。彼らの咎を赦すことなく、彼らの罪を御前からぬぐい去らないでください。彼らは建て直す者たちを侮辱したからです。」ネヘミヤは人間的に対応することを断念しました。十分に勝算があるにもかかわらず、ネヘミヤは人間的に、武力的に、自分の力と社会情勢の優位を利用しようとしませんでした。彼は最初から最後までのすべての計画の中に神様の関与を求めました。神様に頼り、神様による勝利を夢見ました。これがネヘミヤの夢でした。ネヘミヤの計画であり、ネヘミヤの戦略でした。

7節をご覧ください。ネヘミヤの夢は当然のことながら、世の勢力にぶつかりました。神様の力に抵抗勢力が現れました。ネヘミヤからしてみれば、神様の助け船は起こらない雰囲気でした。サヌバラテ、トビヤ、アラブ人、アモン人、アシュドデ人たちは、エルサレムの城壁の修復がはかどり、割れ目もふさがり始めたことを聞いたとき、非常に怒り、彼らはみな共にエルサレムに攻め入り、混乱を起こそうと陰謀を企てはじめました。その上、ユダの人々の間にも不平不満が起こりました。「荷をになう者の力は衰えているのに、ちりあくたは山をなしている。私たちは城壁を築くことはできない。」ネヘミヤの敵たちはますます力づけて攻めてきました。「彼らの知らないうちに、また見ないうちに、彼らの真中にはいり込んで、彼らを殺し、その工事をやめさせよう。」神様に頼り、神様の方法によりスタートさせて城壁の修復工事の状況は変わることがなく、ネヘミヤの計画は夢だけで終わりかねない状況でした。ユダヤの人々はおそれおののき、彼らを反対する人々の動きを気にしていました。

その時、ネヘミヤはその民たちに言い出しました。14節をご覧ください。「私は彼らが恐れているのを見て立ち上がり、おもだった人々や、代表者たち、およびその他の人々に言った。『彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、息子、娘、妻、また家のために戦いなさい。』」 ネヘミヤのメッセージは一つでした。恐れる方、主を覚える、ことでした。主を思い出すことでした。天地をおつくりになり、その思惑通りに、この歴史を運転されておられる、その方を恐れるように、ということでした。ネヘミヤは戦いの先頭に全能なる神様、天と地を創造されました神様を建てました。また、この主を見上げていました。このネヘミヤには敵たちの動きが気になりましたが、その敵たちと戦う神様への期待が最も強いものでした。しかし、この神様を覚えない人々、恐るべき方は神様であることを知らない人々にとって、敵たちの動きは恐れの対象でした。恐れは神様を恐れるとき、克服できるものです。恐れは恐るべき方を覚えるとき克服できるものです。ネヘミヤは恐るべき方、主を覚えていました。また、ユダヤの人々にもその方を見上げることで、恐れを克服するように助けました。

そのような信仰の戦いにはどのような結果が得られましたか。15節をご覧ください。「私たちの敵が、彼らのたくらみは私たちに悟られ、神がそれを打ちこわされたということを聞いたとき、私たちはみな、城壁に帰り、それぞれ自分の工事に戻った。」とあります。これは神様がしたくし、彼らと戦っておらる事への確信でした。彼らは神様への信仰と神様への信頼を失わないことに力を尽くしていました。霊的な戦いをしていました。神様は自らネヘミヤとその仕事に就く人々の信仰を見届けておられました。神様はその信仰に祝福を与え、敵たちに怖れを与えました。神様が自ら彼らと戦い、彼らを打ち壊しておられました。信仰人は神様が自ら私たちの敵たちと戦うことへの確信を持つべきです。生きておられ、祈る人々の声を聞き、一つも落とされることなく、味方してくださる神様を信頼すべきです。これがネヘミヤの信仰です。

敵たちの揺れと動きを見届けたユダヤ人たちは皆、城壁に帰りました。そして城壁の立て直し工事に戻りました。彼らは自ら戦う神様を見届けました。彼らは祈りし、恐るべき方、神様を見上げて、神様の知恵や神様の力によって戦おうとする計画が神様によって実施されていることを確認することができました。彼らには勝利の確信を心につかむことができました。彼らは人間的な武力や知恵によらず、神様の手法と神様の知恵と神様の方法により、見える仕事、世の仕事、エルサレムの城壁を立て直すことを確信しました。

17節、「城壁を築く者たち、荷をかついで運ぶ者たちは、片手で仕事をし、片手に投げ槍を堅く握っていた。」とあります。これは片手手仕事をし、片手で神様の願いと神様の手法を守っていたことを意味します。片手で仕事をし、片手で聖書を握りしめていたことを意味します。彼らは徹底して、神様の手法により世の仕事でも神様による勝利をおさめようと、計画していた武士になったのです。

Bluderhof運動をしていたアノルドハインリヒはこのように言っています。「近年、人々は内面の問題を牧師や神父に持って行かない。精神科医に相談する。内面が変わるとすべての面に変化があるのは事実である。しかし、そのような変化は人間によるものではない。神様によるものである。 」本当の力は神様にあるのです。本当の変化と本当の意味での勝利は神様により実現されるのです。神様の方法で、神様の導きで、戦う決心をする人に、勝利は保証書です。しかも、完璧な勝利がご用意されています。自分の力で勝利を収めた人々の最後は悲しい場合が多いです。それは本当の意味での勝利ではないからです。ネヘミヤの勝利は短い間隔で見れば失敗のように見えても、神様に完璧にお任せをし、神様の手法を謙遜に取り入れるなら、そこには完ぺきな勝利が用意されているのです。

5章には信仰の道を歩むときにぶつかる内部の問題をネヘミヤはどのように導いたのか、6章には最後まで妨害を続けるサヌバラテとトビヤの策略が描かれています。しかし、最後まで神様の手法と信仰を守る続けるネヘミヤの祈りと信仰は6章15節で次のような最後を飾ります。「こうして、城壁は五十二日かかって、エルルの月の二十五日に完成した。」

ネヘミヤの指導力と、信仰の行動から私たちは何を学びますか。第一に、勝利は神様にある、ということです。第二に、祈りと信仰は勝利の根源であることです。

 ハレルヤ


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