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*** 2010年長崎UBF、マタイの福音書、その19 --> [[問題紙>2010Matthew-19q]] [#cec752ef]

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御言葉:マタイの福音書 17章1節~27節&br;
要 節:マタイの福音書、17章20節 「イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」」
今日の御言葉は「信仰」について記録しています。信仰とは何でしょうか。信じることです。何を信じることでしょうか。自分自身を信じることも、人の力や人の可能性を信じること、人々の助けを信じること、キムジョンウンさんのように、親の絶大な権力と力を信じることも、信仰と言えるでしょう。あるテレビで、心理学者により解説がなされた、信じれば体は反応し、病気も治るようになることを説明していました。胃腸薬だと信じ込む「サト」も、信じれば効果がある、とも言われています。

聖書が言っている「信仰」とはこのようなものでしょうか。似ているところがないとは言い切れませんが、確実に間違っているのは、その信仰の対象です。へブル人への手紙を見ると、信仰はこのように定義されます。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」クリスチャンの信仰の対象は、生きておられる神様であり、その神様は近づく者、祈る者、頼るものに、必ずこたえを、報いをおあたえになることを信じることです。人間の心理的に動く不思議な力を信じるものでもなければ、ましてや、自分の力や親の力、隣人の力を信じるものではありません。

今日の御言葉を通して、このような信仰を学びますよう祈ります。

1節の御言葉をご覧ください。「それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。」とあります。ペテロがサタンの行動をしていると、厳しく叱られてから六日たった時でした。イエスはそのペテロとヤコブ、そしてその兄弟ヨハネだけをお連れして、高い山に行かれました。そして2節を見ると、彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなりました。しかも、モーセとエリヤが現われてイエスと話し合っている姿が弟子たちの目の前に広がりました。見たこともない、不思議な光景を目の当たりにしたペテロが口出ししてイエスに言いました。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」マルコの福音書を見ると、その時のペテロの心境は、あわてていました。実のところ、ペテロは言うべきことがわかりませんでした。彼らは恐怖に打たれたの、無我夢中でこのような話をしていたのでした。ペテロは一体、この時、何を言うべきかすら分かりませんでした。恐怖と恐ろしさに包まれていました。それもそのはず、何一つ美しい姿の無かったイエスさまの顔が太陽のように輝き、衣服が光のように真っ白になったからでした。何を言おうかもわからないまま、話をしている間に、また、光り輝く雲が弟子たちを包みました。そして、雲の中から声がしました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」イエス様の輝く姿を見ることも、恐怖でしたが、光り輝く雲の中に包まれて聞こえる、この声を聞いた時、弟子たちはそのままひれ伏し、恐怖時包まれ、非常に怖がったまま固まってしまいました。すると、そこにイエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない。」と言われました。彼らが目を上げて見ると、そこにはだれもいなくて、ただイエスおひとりだけでありました。ペテロ、ヤコブ、ヨハネはイエスさまが神様であり、神の御子であることを体験的に悟るようになりました。

なぜ、イエスさまは弟子たちに、このような幻の姿で現れたのでしょうか。それはイエス様についてきた弟子たちの心が、イエス様の十字架を前にして、混乱していたからでした。イエス様の死は彼らの死につながるものでした。イエス様がいなくなり、イエスさまが弱体化することは、彼らの夢とビジョンの崩壊を意味するものでした。弟子たちは絶対、イエス様の十字架の事件だけは避けようとしていました。しかし、イエスさまは十字架の事件こそ、背負わなければいけない神様からの使命であることと認識しておられました。イエスさまは弟子たちが、十字架の事件を受け入れることができるように、幻を見せることにより力づけられました。弟子たちが少しでも、神様の御業に自発的に参加できるようにするために、幻を見せられました。神様からして、イエスさまからして、十字架の事件は一番大事なものでした。それは弟子たちが受け入れるか否かとは関係ないものでした。受け入れると神の祝福を、受け入れないと神様からの祝福を受けられないものでした。神様からしてみれば、イエス様からしてみれば、わざわざ彼らに説明をして、彼らの理解を深める必要はありませんでした。しかし、イエスさまは三人をお連れして、幻の姿を見せられました。イエスさまは弟子たちが理解できるようにと、手を伸ばしてくださいました。イエスさまは弟子たちが躓かないようにするために、変貌山の幻を見せる計画を実施されました。

私たちは信仰生活の中で、様々な幻に包まれたりします。奇跡を体験したりします。信仰により実施したチャレンジが、驚く結果を生み出すことを目の当たりにすることがあります。まるで、変貌山で弟子たちが体験したような、幻との出会いを経験することがあります。S先生がクリスチャンになった事実に出会ったとき、私は驚きと幻に包まれていました。A兄弟が礼拝を欠かさずに、守り続けることも、幻の一つです。私のような人が、日本の国立大学の教員として働くこと、これ時代幻のような神様の奇跡です。これらすべては、私たちの神様の御業に対しる理解を深めるためのものです。私たちはこれらの経験とともに、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という神様の声を受け入れるべきです。神様の用意した道に対して、脇にお連れして、いさめることをやめて、言うことを聞くこと、これが弟子たちの正しい姿です。神様はそのために、私たちの人生に多くの幻をおつくりになってくださるのです。

14節をご覧ください。イエスさまと三人の弟子たちが群衆のところに来たとき、ひとりの人がイエスのそば近くに来て、御前にひざまずいて言いました。「主よ。私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでおります。何度も何度も火の中に落ちたり、水の中に落ちたりいたします。そこで、その子をお弟子たちのところに連れて来たのですが、直すことができませんでした。」弟子たちは依然、このような症状の人々を治していました。弟子たちには不思議な力がありました。しかし、今回だけは期待外れでした。その弟子たちの力無さを訴えたとき、イエスさまは何と言われましたか。

17節をご覧ください。イエスは答えて言われました。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」そして、イエスがその子をおしかりになると、悪霊は彼から出て行き、その子はその時から直りました。イエスさまは依然として不思議なお力を発揮しておられました。しかし、弟子たちはできませんでした。弟子たちがイエス様にお尋ねしました。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」すると、イエスは言われました。「あなたがたの信仰が薄いからです。」イエスさまははっきりと、その原因を、信仰が薄いから、と指摘されました。そして言われました。「まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」

ここで私たちは、薄い信仰と、からし種のような確実で固い、なおかつ命を秘めた信仰が比較されていることが分かります。信仰には薄い信仰があります。信仰はありますが、何気なく、信仰の力が無い信仰のことを指します。見える形は信仰人のように見えるのですが、その行いは世の人々とあまり変わらない信仰人のことを指します。信仰が薄いために、「本当にそうであると信じますか」といわれると、首を稼ぐような信仰を指します。「本当に信じていますか」と聞かれると、なんとなく疑いが生じるような信仰を指します。薄い信仰は信仰がありますが、確実ではない状態です。混ざり合った信仰です。時には信仰人のように、時には不信仰の人のように見える信仰です。

それでは、からし種のような信仰とはどんなものでしょうか。それは小さい信仰です。小さいがために見えない信仰です。表にはなかなか分からない信仰のことを指します。しかし、確かにある確実なものです。小さいものですが、経験の中から獲得した信仰を疑いなく、心に潜めているものです。どんなことがあっても揺るがない、揺るぎを許せない信仰です。ある人は「神様は愛です」と、これだけは絶対間違いないと確信している人がいます。ある人は「神様は絶対裏切らない方」であることを確信しています。それはどんなことがあろうとも、揺るがない確信を持つ場合、その信仰はからし種のような信仰です。イエスさまは言われます。「まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」神様は私たちが一つ、確実な信仰を保つことを願っておられます。一つ確実な信仰を保つとき、私たちは山を動かす、奇跡を体験します。一つ確実な信仰を保つとき、私たちはどんなことでも自信を持つものとなります。一つ確実な信仰を保つとき、私たちには神様の栄光を表す人生を生きることができます。神様、私たちに一つ、確実な信仰を与えてくださいますよう祈ります。

イエスさまは信仰に加えて、「祈り」と「断食」の必要性を強調しています。信仰に基づく祈り、信仰に基づく断食を求めています。信仰の力は神様により現れます。求める人により実現されます。信仰の力は断食により実現します。断食はやりたい放題の気持ちを抑えることです。謙虚になり、神様の導きを見つめることです。その時に、信仰は答えられます。祈りと断食は信仰が形作られるための、私たちがとるべき具体的な行動の要素です。

24節から28節には、宮の納入金をめぐる話が出ています。カペタウムに訪れた時、イエスさまと弟子たちは宮の納入金を要求されました。具体的にはどんなものかわかりませんが、イエスさまは納入金を支払う必要がないと判断しておられました。しかしながら、イエスさまはペテロを通して支払われました。その理由が何でしょうか。27節を見ると、その理由について「しかし、彼らにつまずきを与えないために、」と説明してあります。これは何を意味するのでしょうか。イエスさまの行動の基準が、彼らが躓くかどうか、にあることです。

つまずきとは、人を罠に陥れることを指します。とくに、ここでのつまずきとは神様への信頼を損なわせることを指します。イエスさまは宮の納入金を納めて、彼らにつまずきを与えないことが、間違いないとされる宮の納入金を納めないで、人々に疑いとつまずきを与えるより、良いと判断されたのです。牧者がタバコをすわない、酒を飲まない、礼拝を守る、ことも同じようなものです。自分に正しいものを主張するより、小さいものがつまずきを起こすかどうかに行動基準を置かれたイエスさまの生き方を、学ぶべきです。コリント人への手紙13章の御言葉が思い浮かびます。「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」私たちが、イエス・キリストのように、愛の牧者になりますよう祈ります。

 ハレルヤ


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