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その人は何をしても栄える
御言葉:詩篇1:1―6
要 節:詩篇1:2 
「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」 
** その人は何をしても栄える [#hb040194]
 御言葉:詩篇1:1―6
 要 節:詩篇1:2「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」  
|messanger:Caleb Kim|

詩篇は全部で150篇からなる賛美と感謝の詩集です。ここには、人生の喜び、悲しみ、苦しみなどの様々な状況の中で神様と共にする恵みと感動の物語が記されています。日本も中国も韓国も福という漢字を日常の生活用品にも良く書き記し、祝福されることを好みます。福という言葉を辞書で調べてみると、「豊かな幸運」「幸い」とあります。幸いな人とは、どんな状況の中でも神様と共にし、恵みと喜びを持って生きる人です。今日の詩篇の御言葉を通して幸いな人になる秘訣を学ぶことができますように祈ります。そして、さる1年間共にして下さった神様の恵みを悟り、新年の方向性を掴み取ることができますように祈ります。

1.	幸いな人(1-3)
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1、2節をご覧ください。「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。」ここで、「悪者のはかりごと」とは、神様は存在しないと思う人々の不敬虔な考えを意味しています。詩篇14:1には次のように語っています。「愚かな者は心の中で、『神はいない。』と言っている。彼らは腐っており、いまわしい事を行っている。善を行う者はいない。」神様はいないと思う不信仰と不敬虔さは人間の罪の源です。人間は神様の被造物として、神様を敬い、隣人を愛し、すべての被造物を良く管理する使命を果たすとき、まことの幸せが訪れます。私達の周辺には神様なんかいなくても構わないと思う人々、神様を信じなくても幸せになれると自分なりの人生観をもっている人々がいます。

このような人たちは自身あふれそうな言い方をし、魅力的に見えます。それで、たまには悪者のはかりごとに歩みたくなる場合があります。しかし、悪者のはかりごとに歩む人は必ず罪びとの道に立つことになります。悪者のはかりごとが原因であれば、罪びとの道はその結果を意味しています。私達が立つべき道とはどこにありますか。ヨハネ福音書14章6節には次のように書いてあります。「イエスは彼らに言われた。あたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」神様は私達を罪から救うためにイエス様をこの世に送ってくださり神の国へ至る道を開いてくださいました。ですから私達は道であるイエス様、その口から出る御言葉に従って生きるべきです。

幸いな人はあざける者の座に着きません。悪者のはかりごとに歩む人は、罪人の道に立つことになり、さらにエスカレートしてあざける者の座に着くことになります。あざける者とは自分を高くし、アイドル化する者です。そのような人は神様を否定し、自分の名誉と栄光のために生きます。聖書の御言葉を半信半疑することを超えて、積極的にクリスチャンを批判し、神様のことを呪います。結局彼らは神様の裁きから逃れることができず滅びます。
それでは幸いな人は、どんな人でしょうか。幸いな人は積極的に何をする人でしょうか。
2節をご覧ください。「まことに、その人は主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。」一緒に読んでみましょう。悪者の道に立たない人、その人が主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむことが幸いなことだと言います。ここで主の教えとは神様の御言葉、即ち聖書を言います。幸いな人は神様の御言葉を喜びとします。喜ぶということは「傾ける、気に入る、好む」という意味があります。これは神様の御言葉を苦い薬を飲むようにしようがないから読むことではなく、興味をもって生まれた赤ちゃんがお母さんの乳を求めるように心から探し求める状態を言います。詩篇119編には神様の言葉を求める人の気持ちを良く表現しています。「あなたの言葉は私の上あごに、なんと甘いごとでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。」(119:103)、「私は口を大きく開けて、あえぎました。あなたの仰せを愛したからです。」(119:131)「私は夜明け前に起きて叫び求めます。私はあなたの言葉を待ち望んでいます。私の目は夜明けの見張りよりも先に目覚め、御言葉に思いをひそめます。」(119:147、148)

幸いな人はこのように夜明け前から寝るまで神様の御言葉を黙想します。私達は一生懸命聖書を読むべきです。また深く勉強するべきです。そして、その言葉を日常の生活に適用すべきです。神様の人になるためには、御言葉を堅く掴んで行おうとする意識的な努力が必要です。私達の教会は、「大学生聖書読み宣教会」です。聖書を読むということは、その中にある真理と命を自分の魂の栄養分として吸い取ることを意味します。私達の周りには聞きたい音楽や見たいテレビ番組や読みたいインターネットの新聞記事などがたくさんあります。実際それらのものから喜びを得、楽しもうとする心があります。しかし、それ以上に私達は聖書を読むべきです。なぜでしょうか。昼も夜も神様の言葉を口ずさむ時、どんな人生を送ることができますか。

3節をご覧ください。「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」中東地域は砂漠が多くて、水が足りません。それで、荒野でやっといのちを維持する植物が多いです。しかし水路のそばに植わった木は何の心配がありません。灌漑施設がよく出来ている水路に植わった木やオアシスの周囲にある木は根を地の中に深くおろして、すくすく成長します。どんな状況の中でもその葉は枯れないで、茂ります。絶えず水分と栄養分を供給されるからです。また、季節ごと豊かな実を結びます。イスラエルにある植物は雨期が終わり、乾期が始まるとその状態がはっきり現れます。水路のそばに植わった木は暑い荒野の風にもその葉が枯れることはありません。

一方、そうでない木は荒野の暑い風に耐えることができず、すぐに葉が枯れて枯死してしまします。暑い荒野の風が問題ではなく、根をどこに下ろしているのかが全然違う結果をもたらすのです。私達は人生の中で様々な暑い砂漠の風のような試練に会います。このような風を避けることはできません。重要なのは、私達がどこに根を下ろしているかなのです。
私達は人生の根を水路のそばにおろすべきです。水路のそばとは神様の御言葉です。神様の御言葉に深くしっかり根を下ろした人は、世の中のどんな嵐が来たとしてもびくともしません。このような人は常にその心の底に恵みと喜びと感謝があふれ、生き生きとした人生を過ごします。そして豊かな実を結んで神様の栄光を表し、周りの人々に喜びを与える人生を生きることが出来ます。 

神様は悪者のはかりごとに歩み、罪人の道に立ち、あざける者の座に着いていた私を救い出してくださいました。そして道であり、真理であり、命であるイエス様の中で、迷いのない人生を送るようにしてくださいました。神の国は私の人生の目的地であり、イエス様は私を目的地まで導いてくださる船長であり、聖書は道を迷わないための灯台のようなものです。暗闇の中でどこに進み、何のために生きるべきなのかまったく分からなかった私にとって、イエス様との出会い、聖書勉強は喜びと感動そのものでした。大学4年間そして軍隊の2年間あまり、毎日のように聖書を身につけて読んでいた記憶があります。特に、さびしくてきつい軍隊で休憩中やトイレで読む言葉はまるで蜂蜜のように甘く、疲れた時に飲むリポビタンDのように元気付けられました。しかし、私は今日の御言葉を読みながら、その時のわくわく、ドキドキしていた喜びと感動がだいぶ鈍くなっていることに気づきました。最近はじっくり聖書を読んだ記憶がなく、土曜日の勉強時間と礼拝の時間以外は聖書を手に持ちませんでした。研究室の人たちには聖書を配って読むことを薦めましたが、自分の棚にある聖書にはほこりがついていました。このような私は言葉に渇きを感じていました。言葉の恵みがあるべき空間に来年度のことで心配が満たされるようになりました。悪者であっても世の中で安定した生活をしている人たちをうらやましく思う心がありました。私は今日の御言葉を通して、信者として一番基本的な事が欠けている罪を悟りました。私が、神様の言葉から離れて悪者のはかりごとに歩んでいたことを悔い改めます。神様の言葉から出てくる喜びを味わうことより、宝くじ当選の妄想をしていた罪を悔い改めます。私が初心に戻り、少しでも毎日聖書を読むことを決断します。そして信仰によって心の不安を乗り越え、勝利をくださる神様を体験することができますように祈ります。

水路のそばに植わった木は実がなり、葉が枯れないことのみならず、何をしても栄えると神様は言われます。神様を信じているのに、時には世の中で苦しみを受けたり、失敗したりすることもあります。ところが、その人生を総合してみる時、神様は全てを働かせて益としてベストウェイに導いてくださることがわかります。なぜ、御言葉のとおり生きる人は何をしても栄えますか。それは神様が全ての事で栄えさせてくださるからです。栄えの源は神様にあるからです。私達が聖書を喜びとし、聖書の御言葉を行い、積極的にその御言葉を周りの人々に伝えることができますように祈ります。そして、私達全員、神様の中で何をしても栄える人生を送ることができますように祈ります。

2.	悪者たち(4,5)
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幸いな人たちと悪者たちは対照的です。悪者たちはどのような生き方をしていますか。4a節をご覧ください。「悪者はそれとは違い」悪者は幸いな人とは違う生活をしています。ここで、悪者とは「殺人・強盗」などの罪を犯した特定の容疑者を指すものではありません。神様はいないと思って生きているすべての不信仰の人々、不敬虔な人々を指しています。彼らは悪者のはかりごとに歩み、罪びとの道に立ち、あざける者の座に着きます。彼らは神様を信じず、彼らの心には神様の言葉がありません。このような人の心は体の快楽や自分を高くする自尊心、自分の栄光を求める心で満ちています。4bでは彼らを指して、「まさしく風が吹き飛ばすもみがらのような」人として表現しています。もみがらは稲の実を包んだ外皮です。中身が抜けた皮ですから、形も色も通常の稲のように見えますが、中身がありません。ですから、とても軽くて少しの風にもあちこち吹き飛ばされやすいです。悪者の中にも世の中で尊敬される人、金持ちの人、政治家など成功した人が大勢います。彼らはそれで自己満足をし、神様がいなくてもすばらしい人生を送ることができると言います。しかし、神様の目から見ると彼らは何も得たもののない空しい人生です。世の中のすべてのものを得たとしてもこの世を去る時には、1円玉も持っていけません。悪者の人生を風が吹き飛ばすもみがらのようであると言われたのは恐ろしい裁きを意味しています。

5、6節をご覧ください。「それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪びとは、正しい者のつどいに立てない。まことに、主は正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。」この世の終わりに、すべての人は各々の行いによって清算の日を迎えます。その時、彼らは厳しい神様の裁きを避けることができません。神様を信じて救われた人は永遠の命を得、罪のために失われたパラダイスに導かれ、愛するイエス様と過ごすことになります。しかし、悪者はそのつどいに立つことができません。彼らのために用意されたのは火の燃える地獄です。神様は愛です。神様はだれ一人地獄に陥ることなく、救われ、永遠の命を得ることを切に願っておられます。その証として一人子イエス様をこの世に送られ、信じる者は誰でも救われる道を開いてくださいました。しかし、最後まで神様の愛を受け入れず、拒む人は滅びます。

結局、人生は、幸いな人が歩む道と悪者が歩む道に分かれます。そしてその終末は正反対の結果となります。2008年もあっという間に過ぎて、後残り3日です。世の中は世界的な金融危機で寒い冬の天気以上に冷え込んでいます。あのトヨタが揺れ動くほど、人々の心も不安を感じています。理想社会をユートピアと言います。ところが、ユートピアは2重の意味を持っています。通常「理想的」という意味で使われていますが、一方「どこにもない場所、妄想」という意味をも持っています。人々はこの世でユートピアを作ろうとしています。しかし、この世で理想的な社会を作り上げるのは不可能です。人もいくらまじめそうに見えても理想的な人は一人もいません。希望をこの世に置き、人にすべてを頼る人は必ず失望し、失敗します。私達が信じる対象は神様お一人であり、頼りの対象は神様の御言葉である聖書のみです。神様の愛を信じてその言葉を口ずさむ時、私達は何をしても栄えます。神様が私達を栄えさせてくださるからです。年末年始、私達が現実と自分の世界から目をあげ、良くしてくださった神様の恵みに感謝し、希望とビジョンのあふれる2009年を迎えることができますように祈ります。新年には昼も夜も主の言葉と共に歩み、水路のそばに植わった木のようなみずみずしい生活を送ることができますように祈ります。


結論的に、時代がいくら変わっても聖書を喜びとし、昼も夜も口ずさむ人は幸いです。ですから、私たちははっきりとした信念を持って聖書を喜びとし愛読するべきです。また、この聖書を周りの人に伝え、聖書勉強を行うべきです。残りの3日間、聖書の読みながら感謝題目を見つけ、新年の要節の言葉と祈りの課題を掴み取ることができますように祈ります。


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