** 2009年日本UBF新年御言葉第1講 メッセージ [#u89aac12]
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御言葉:ヨハネの黙示録2:1-11&br;
要節:ヨハネの黙示録2:5「それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」

Merry Christmas!! and Happy New Year!!

神様が福岡で、2009年の新年、日本全国支部長修養会をお開きくださいまして、誠にありがとうございます。福岡は信仰心の強いバルナバ宣教師により開拓され、今でも生々しく覚えているのは、最初の開拓のメッセージの時に、「神様が私たちに九州大学を与えてくださいました!」と強烈に宣言して、確信していたあの「バルナバ宣教師の信仰告白」です。私はその時、「アーメン」と大きな声で叫んだことを覚えています。その通り、福岡は聖霊の風を西から吹き出す基地として、神様が用いてくださっています。神様が福岡センターを、日本の聖霊の西風を強烈に吹かせるセンターとして、教授牧者を算出するセンターとして、世界に神様の栄光を表すセンターとしてこの時代、用いてくださいますように切に祈ります。、

今日の御言葉は使徒ヨハネが見た幻のメッセージを書き記した「黙示録の2章の内容」です。ヨハネの黙示録第2章は、黙示録に記された七つの教会のうち、エペソ教会に与えられた神様のメッセージです。エペソ教会については使徒の働き18章から20章まで詳細に記録されている。パウロが第二次伝道旅行の時に、コリントで出会ったアクラとブリスキラを連れていき、宣教同労者として立てました。第三次伝道旅行の時に、これまで固執していたユダヤ人の会堂での宣教を止め、ツラノというバイブルハウスを開き、2年間御言葉の勉強を続け、教えた結果、アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞きました。様々な奇跡が現れ、主の言葉はますます盛んに広まり、また力を増し加えていきました。エペソはパウロの伝道旅行にとって特別なところでした。このエペソは、あの有名な哲学者ヘラクリトス(ヘラクレイトス)が生まれ育った町でもあり、ローマ帝国のアジヤ州の首都・商業・政治の中心地でした。今でもその当時の繁栄を示す円形劇場、大理石通、セルシウス図書館、アルテミス神殿跡が残っており、ヨハネ教会やイエス・キリストの母マリアが晩年を過ごしたとされる家、などが保存されているところでもあります。また、ここは使徒ヨハネがパトモス島から釈放されたのち、万年を過ごして死んだところでもあります。このようにエペソ教会は七つの教会の中でも代表格とされている教会です。この教会について、神様はどんなメッセージを伝えたのでしょうか。
今日の御言葉は使徒ヨハネが見た幻のメッセージを書き記した「黙示録の2章の内容」です。ヨハネの黙示録第2章は、黙示録に記された七つの教会のうち、エペソ教会とスミルナ教会に与えられた神様のメッセージです。そのメッセージの内容が何でしょうか。

''第一に、エペソ教会へのメッセージ:あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。''

エペソ教会については使徒の働き18章から20章まで詳細に記録されている。パウロが第二次伝道旅行の時に、コリントで出会ったアクラとブリスキラを連れていき、宣教同労者として立てました。第三次伝道旅行の時に、これまで固執していたユダヤ人の会堂での宣教を止め、ツラノというバイブルハウスを開き、2年間御言葉の勉強を続け、教えた結果、アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞きました。様々な奇跡が現れ、主の言葉はますます盛んに広まり、また力を増し加えていきました。エペソはパウロの伝道旅行にとって特別なところでした。このエペソは、あの有名な哲学者ヘラクリトス(ヘラクレイトス)が生まれ育った町でもあり、ローマ帝国のアジヤ州の首都・商業・政治の中心地でした。今でもその当時の繁栄を示す円形劇場、大理石通、セルシウス図書館、アルテミス神殿跡が残っており、ヨハネ教会やイエス・キリストの母マリアが晩年を過ごしたとされる家、などが保存されているところでもあります。また、ここは使徒ヨハネがパトモス島から釈放されたのち、万年を過ごして死んだところでもあります。このようにエペソ教会は七つの教会の中でも代表格とされている教会です。この教会について、神様はどんなメッセージを伝えたのでしょうか。

1節をご覧ください。「エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。」神様が使徒ヨハネに、エペソにある教会の御使い、つまり霊的指導者に手紙を書いて送るよう指示されました。その神様のことを「右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方」として表現しています。1章20節をみると「七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会」を指します。神様は色が異なる七つの教会、御業に仕えるスタイルが異なる七つの御使いたちを、個性豊かに生かしながら、神様の栄光のために用いられたのです。神様はその第一番目の「エペソ教会」に言われたのです。

2節と3節をご覧ください。「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。」
2節と3節をご覧ください。「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。」神様はエペソ教会のことについて、彼らの行い、彼らの労苦、彼らの忍耐についてよく知っているといわれます。知っているとは彼らの行いや彼らの労苦、彼らの忍耐を深く認めておられることを意味します。エペソの教会は口先の言葉よりも行いを重視した信仰人の集まりでした。哲学者ヘラクレイトスを生んだ街の雰囲気に従い、理論が多く言葉が先走っていた中で、信者たちは言葉より行いを重視した信仰を大事に受け止めていました。しかし、その分彼らの労苦は大きいものでした。ある者たちは心をかたくなにして聞き入れず、会衆の前で、自分たちの論理に従いこの道をののしったりしました。それだけではありませんでした。地元の人々が長い間つかえていたアルテミスの女神を本当の神ではないと教えるキリスト教は、長い間これらの女神と生活を共にしていた人々によって厳しく抵抗されました。女神の人形が売れなくなり、細工人たちの商売が妨害を受けると、「アルテミス女神会」を作り、大規模の集まりを催しました。そして、大きなスピーカを使い叫びました。「偉大なのはエペソ人のアルテミスだ。(使途の働き9章28節)」そのような中で信仰を守ることは危険を伴うことでした。エペソの市民として生きることをあきらめざるを得ないほどでした。しかしながら、彼らは忍耐強く信仰を守り通しました。迫害の中でも、厳しい批判の中でも、信仰を守りました。それだけではありませんでした。彼らは悪いものたち、とくに、使徒と自称しているサクラ達を分別し、異なった教えを退けました。彼らはよく忍耐して、イエス・キリストの名前のために耐え忍びました。しかし彼らはこのような神様の御技のために行ったことに疲れを感じませんでした。当然のことと思っていました。彼らはまるで、戦場の兵士たちのようでした。神様はこのような彼らの行い、労苦、忍耐をよく知っておられました。神様は私たち一人一人の、主の御名のために受ける行いと労苦、忍耐を見逃されることがありません。すべてをじっと見ておられます。すべてを観察しておられます。すべてを見抜いて、誇らしく思っておられます。

右手に七つの星、教会の御使い、教会の指導者、教会のメッセンジャーをお持ちです。また、神様は七つの教会をお持ちです。
このような誇らしいエペソの信者たちに神様は何と言われますか。4節をご覧ください。「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」神様は誇らしいエペソの信者たちがその誇らしさを保たせるために、彼らの問題点を指摘しています。その問題点が何でしょうか。それは、彼らが初めの愛から離れたことです。

エペソ教会の初めの愛とは、行いと労苦、迫害の耐え忍んだところに現れていました。彼らは理論ではなく実践を持って信仰生活をしました。彼らのこのような信仰生活は様々な迫害をもたらしました。エペソの原住民からの迫害と批判は苦しいものでした。アルテミス神殿を商売のタネとしていた細工たちの反発はエペソの市当局を悩ませるほどのものでした。しかしながら、彼らはしっかりと御言葉に根付いていました。ツラノの講堂で学んだ御言葉に根を下ろし、神様への信仰が揺るぎませんでした。しかし、神様は彼らに「初めの愛から離れた」と言われます。離れたとは初めの愛ほど愛しなくなったことを意味します。また、離れたとは距離を置いたことを意味します。初めての愛を客観的に見つめていたことを意味します。英語ではYou have foresaken your first love.とありますので、捨てた、忘れたと記録しています。注釈を見ると、これは偶然ではなく、故意に離れたことを意味すると、しています。かつてエペソ教会は愛のある教会として称賛されていました。パウロはエペソ教会の信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、絶えず神様に感謝をささげていました。しかし、今、彼らにはその初めの愛がなくなっていました。捨てられていました。故意に離れていました。

神様はその指摘とともに解決策を教えています。彼らはどのようにすればいいでしょうか。5節をご覧ください。「それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」神様は彼らに、どこから落ちたのかを思い出すようにされました。思い出すとは顧みることを意味します。思い出すことはいつから愛が冷えたのかを調べることを意味します。どんなことで愛しなくなったのかをチェックすることを意味します。これはUBF式からすれば所感((Life Testimony))を書くことを意味します。所感を書きながらどこから愛する気持ちが落とされたのかを思い出すようにという意味です。そして、それが分かったら「悔い改めて、初めの行いをしなさい」と言われます。初めの行いとは、神様に初めて出会った時の熱情と気持ちを取り戻すことを意味します。

何故、神様はエペソ教会に対して初めの愛を回復するようにと言われますか。5節の後半部をみると、それは教会の燭台を置かれたところから取り外さないためです。エペソの教会を取り外さないためです。エペソの教会が世の光として、塩として立派にその役割を果たせるためです。神様は彼らがニコライ派の人々の行ないを憎んでいることをよいこととし、結論的にこう言われます。「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」これを見ると、エペソ教会に言われた御言葉はエペソ教会だけにとどまらないことを意味します。この警告とお話は私たちの教会にも言われる神様の御言葉であることを指します。

''第二に、スミルナにある教会へのメッセージ:死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。''

エペソ教会が大都会の聖霊の働きが旺盛なところであれば、スミルナ教会はむしろ何人かのユダヤ教の改宗者によって支えられる、貧しく迫害の苦しみに大変な信仰生活を営んでいる教会のことを意味します。スミルナはアルテミス女神の神殿あるところでもありました。スミルナは女神の影響が強く、女神の雰囲気にあっとされていました。その中でスミルナの信者たちは女神による圧迫感と魂の乱れに苦しみました。また彼らの生活の貧しさは神様もよく知っておられました。彼らはローマの皇帝崇拝が義務付けられていました。アルテミス神殿の女神は彼らの生活の全般にわたって影響していました。このような中で生きていた信者たちは女神を否定し、皇帝崇拝を否定していました。そのために受ける彼らの見えない迫害と白い目で見られる環境は生き苦しく、心を縮ませました。彼らは素直で真面目であったがために、女神や皇帝崇拝に妥協もせず、人間的な手腕も発揮できず、生き方自体、貧しい生活に強いられていました。彼らは多数の中に住む少数のキリスト教集団でした。彼らは信者なのかどうかも普段はわかりませんでした。彼らは隠されていましたし、表に見えない信者たちでした。そのような彼らはユダヤ人だと自称している人々によってからかわれていました。無視されていました。批判されていました。堂々たる信仰人としての姿がないと言われながら、数が少ないと指摘を受けていました。彼らの礼拝は親子、親戚、近所の人々数人が全部でした。何百人、何千人も集まるエペソの教会と違って、しょんぼりとした教会でした。彼らはからかわれ、罵られていました。

しかし、神様は彼らのことを何と言われますか。「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。・・しかしあなたは実際は富んでいる。・・またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。」神様はスミルナの教会のことを、誰よりも知っておられました。よく分かっていました。彼らが貧しく、苦しみに預けられているのでしたが、しかし、実際のところ彼らは富んでいる信者であることも、知っておられました。なぜ、彼らが実際は富んでいる信者でしょうか。10節をご覧ください。「あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。」彼らは苦しみを恐れながら生活をしていました。彼らは牢に投げ入れられる環境に処せられていました。彼らには十日間の苦しみが予定されていました。彼らには死に至るような厳しい環境が迫っていました。しかし、神様は彼らが実際は富んでいるものだと言われました。なぜでしょうか。それはその苦しみと恐れ、牢に入れられる環境と十日間の苦しみなどが、神様によって用意され、神様によって計画され、神様によって守られる、彼らにとっては最適なものだったからでした。彼らにとって苦しみと悲しみ、迫害と牢に入れられる悲しみは、彼らに対する神様の用意された愛の表現でした。神様が特別に用意し、彼らだけしか体験できない神様の愛の表現でした。

その彼らに神様は何を要求されていますか。10節の後半部をご覧ください。「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」どのような環境であっても、神様への忠実をささげるようにと要求しておられます。むしろ、死に至ることを望み、御言葉に充実するようにと言われます。環境や状況を恨まず、エペソ教会と比較せず、現在、実際は富んでいることを感謝し、死に至るまで忠実であるよう、努力することを、神様はスミルナの教会の人々に求めています。その時、どうなりますか。「そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」スミルナの教会の人々には命の冠が用意されていたのです。彼らは迫害が待っていましたし、ユダヤ人だと自称している人々によってからかわれたり、無視されていました。食べ物がないほど貧しく、アルテミス神殿のことで、皇帝崇拝のことで葛藤していました。しかし、彼らが死に至るまで忠実であるとき、彼らにはいのちの冠が待っているのです。いのちの冠の主幹は神様です。私たちの現在の様子や努力の度合い、処せられている状況からいのちの冠が与えられるのではなく、一方的な神様の恵みにより、選ばれた人々に与えられる神様のプレゼントなのです。

鄭ダニエル宣教師から電話があり、今回のメッセージを準備するようにと言われました。御言葉は何でしょうか、と聞くと、「あなたは初めの愛から離れてしまった。」と言われました。聖書の御言葉を探して読むと、「あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。」という言葉が大きく聞こえました。結局、所感を書いて、悔い改めるメッセージを準備しなさいと言われた気がしました。メッセージの準備の前に久しぶりにLife Testimonyを書きました。そして書きながら、ひとつどこから落ちたかが思い出されました。それは自分のことだけを常に考える自己中のことから落ちたのだと、思うようになりました。


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