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*** 2009年長崎UBF、マルコの福音書、その20 --> [[問題紙>2009MarkGospel20q]] [#f59c3783]
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Messenger:MSN.David

御言葉:マルコ10:32-52&br;
要 節:マルコ10:45「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

今日の御言葉は、イエス様が教える弟子たちの生き方についてです。弟子たちはイエス様についていく生活をしながらも、弟子らしい姿を取るより、この世の権力者や偉い人の立場を習う姿を持っていました。イエス様は彼らに言われました。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

今日の御言葉を通して、主の弟子たちが持つべき生き方、価値観について学びますように祈ります。
''I. 弟子たちが求めていること(32-41)''

32節をご覧ください。さて、イエスの一行は、エルサレムに上る途中にありました。登る途中の様子について、マルコは、「イエスは先頭に立って歩いて行かれた。」と記録しています。また、弟子たちの様子については、「弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。」と記録しています。今度のエルサレムで、イエス様は十字架につけられるのです。死を覚悟したイエス様の姿は厳しいものがあったのだと推察されます。その姿に弟子たちは驚き、恐れを覚えるほどでした。何かが違う様子と雰囲気を感じ取ったに違いありません。

すると、イエスは再び十二弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められました。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」イエス様は何度も繰り返して、十字架を予告されました。それは十字架のために、弟子たちの祈りを求めていたのでした。神の助けを背負って、この十字架の道を歩むことができるようにと、弟子たちからの祈りを求めていました。

さて、35節の御言葉をご覧ください。ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て求めて言いました。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」それを聞いたイエスは彼らに「何をしてほしいのですか。」と尋ねられました。すると彼らは言いました。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」十字架の道の厳しいお話を聞いて、彼らが求めたのは、イエス様の栄光の座での右と左の座でした。イエス様が栄光を浴びるときには重要なポストを、二人に与えてほしいとの願いでした。

イエス様が彼らに求めていたのは十字架を背負うための力でした。厳しい十字架の道を背負うための力、神様が願う道を歩むための力でした。しかし彼らが求めたのは栄光の座の右と左の席でした。これを指して、「的外れの祈り」と言います。彼らは的外れの願いことを、イエス様に頼んでいました。イエス様は彼らに言われました。38節、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」イエス様は彼らがまず求めるべきことについて、右と左の座ではなく、右と左に座る人が飲む杯や受けるべきバプテスマを見つめることと、それを飲める、受ける力を求めることでした。

私たちは的外れの祈りの課題をもってはいないのか、右と左の座を下さるように、強引に求めてはないのか、点検すべきです。私には長崎に、12弟子が生きる美しい教会を求む心があります。互いに愛し合いをし、聖書のことばに喜び、生きている道で十字架を背負う、キリストの人々を求む心があります。しかし、そのような教会、12弟子を手にするための杯、受けるべきバプテスマについては一度も真剣に考えたことがありません。聖書勉強の十字架の杯を、迷う人々のキリストへの誘う杯を飲むことができるよう、神様に求めたことがあまりありません。

また、私には世に認められ、美しい人として成長したい願いがあります。しかし、一度も、そのためにはどんな杯があるのか、どんなバプテスマが用意されているのか、それのための具体的な祈りの課題、神様に求める力は何なのか、真剣に考えたことがありません。ただ、強い人間になれるように、認められる人間になれるように、だけを祈ってきたような気がします。

しかし、そもそも、イエス様が求めているのは、神様が与えて下さった十字架、神様が与えて下さった私たち一人一人の生きる道において、それを乗り切るための力を求む祈り、それを軽く負うための力を求む祈りであり、結果として見える、「右の座や左の座」は求めるべきではないことを教えています。それは神様の恵みにより与えられるものだからです。熱心に人一倍求めたから受けるものではないからです。私たちは、今現在の十字架を、軽く背負える力を求めるべきです。飲みたくない盃を飲めるように祈るべきです。受けたくないバプテスマを受ける力を求めるべきです。的外れの祈りから離れるべきです。

私たちは栄光のためには何でもできると、信じています。「あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」と質問すると、「できます。」と自信持って答えます。自分の体を信じる証拠です。イエス様は言われます。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」

十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てましたたが、これは12弟子が皆、同じことを考えていたからでした。同じこととは、一番になりたがる心でした。一番になりたがるために、偉い人になりたがるために、支配者になりたがるために、右と左の座を求めていました。しかし、イエス様はその弟子たちの正しい生き方について教えました。

''II. イエス様が求めていること、バルテマイが求めていること(42-52)''

42節をご覧ください。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われました。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」

支配者たちは人々を支配する技術を知っています。権力者はその権力を使って生きる知恵を知っています。支配とは上から命じることであり、権力をふるまうとは権力の力を持って人々を操作することを意味します。同じ人間が自分のことばにより操作される時、喜びがあります。与えられた権力をもって人々を動かすとき、権力の力に対する魅力を感じます。異邦人たちはそれが偉い人の象徴だと理解しています。それが人の先に立つ人の姿だと理解しています。この世に生きている私たちも同じく、感じますし、弟子たちも同じように感じ取っていたのです。人の先に立ち、偉い人になり、権力をふるまう人になることを求めています。しかし、イエス様は弟子たちの価値観について、次のように言われます。「しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」

UBFの牧者が私が軍の生活をした船に乗り込んだのは、24歳のごろでした。UBFの牧者を見たものそれが初めてでした。軍の階級社会において型破れの行動をしていた姿に驚きました。部下に敬語を使うその言葉づかいは新鮮でした。しかし、その姿は忍耐強さを求められます。UBFの牧者はついに切れて、本性があらわにされましたが、考えてみれば、どれだけこの人間社会、この世において生きるとき、信者としての姿を守り通すことが難しいのかを思い知らせてくれるのです。私たちはこの世の雰囲気や価値観に沿って生きることを、弟子としても通用すると思ったりします。しかし、イエス様の弟子たちに求める要求は厳しいものです。「しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」

私たちは自分の体を信じるとき、自分の思いを信じるとき、弟子としての姿を維持することはできません。イエス様もそれをよく知っておられました。そこで、イエス様は弟子たちに言われます。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

イエス様は世の法則や人間社会のルールに従わず、天の法則に従って生き抜いて、神の右に着座されました。誠に偉い方、神の御子、神様ご自身ですが、仕えられるためにではなく、仕えるためにこられ、ご自分の命を与えるために、その人生を生き抜かれたのです。私たちの力ではできませんが、イエス・キリストの力をお借りすれば、私たちも弟子としての道を歩むことができるのです。私たちにはできる力がありませんが、神様にはその力があるのです。神様はそのイエス・キリストを非常に喜ばれたように、天の法則にしたがって生きる人々を非常に喜びますし、真の偉い人の姿を明かしされます。私たちに弟子としての姿を守り通すことのできる力を下さいますよう、祈ります。

46節をご覧ください。イエスと弟子たちがエリコに来たとき、多くの群衆といっしょにエリコで、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきにであったことを、マルコは記録しています。マルコはなぜ、弟子たちの姿とイエス様の教えのすぐ後ろに、バルテマイのお話を記録したのでしょうか。それは弟子たちと比較的な行動を、彼は取っていたからでした。

バルテマイは「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫びました。しかも、止めることができないほど、叫び続けました。「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」弟子たちは右と左を求めましたが、バルテマイは憐れみを求めました。弟子たちは当然のことく、右と左の席を求めましたが、バルテマイはイエス様の憐れみを求めました。また、「わたしに何をしてほしいのか。」と具体的な祈りの課題を聞くと、「先生。目が見えるようになることです。」と答えました。目が見えるようになること、これは彼の切実な問題でした。バルテマイは自分の姿を知っており、自分の切実な問題を知っていました。イエス様は弟子たちも、目が覚めることを願いました。右と左の席ではなく、生き切るための切実な問題のために祈る人になることを願いました。与えられた十字架を背負うための切実な問題のために祈る人になることを願いました。

52節、するとイエスは、彼に言われました。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行きました。信仰は「できます」と答える、弟子たちのように、自分の体を新いる人ではなく、イエス様の能力を信じ見上げることです。そのような人は見えるようになります。イエス様は弟子たちが、バルテマイのように、心の謙遜と低さをもって、力あるイエス様に求める人になることを願っておられます。

 ハレルヤ

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