#counter
** 2009年度、星を数える会、メッセージ [#fca3efa0]

&br;
|SIZE(20){あなたは祝福となる}|

御言葉:創世記11章31節から12章4節&br;
要節:創世記12章2節「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」

星を数える会をはじめて、5年目を迎えました。神様に感謝いたします。この会が10年、20年と続けられますように、いやこの日本という国が続く限り、1千年、2千年と続けられますように祈ります。また、その中で信仰のアブラハムがひとりひとりと誕生していきますように祈ります。

今日の御言葉は神様がアブラハムに与えて下さったお約束の言葉です。今日はこのアブラハムに与えられた神様の御言葉の意味について学びたいと思います。今日の本文は、アブラハムが父・テラの子どもとして生きていた時代について、また、信仰人としてスタートした時期について説明しています。今日の御言葉を通して、神様がアブラムに探してこられ、その人生におかれたビジョン、夢を学びますように祈ります。

''I.カランまで来て、そこに住みついたテラ''

聖書には最初の人間・アダムが堕落してその子孫から、つまり、呪われた世界に住み始めた人々について、神様を敬う人とそうでない人の2種類に分類しています。最初の人間アダムから生まれた子孫のうち、神様を敬う人はアベルでした。また、神様を敬わない人としてカインを紹介しています。神様を敬うアベルは神様を敬わない人によって殺されました。神様を敬う人はそうでない人によってからかわれました。いじめられました。捨てられました。ついには殺されました。これが神様を敬いながら生きていた人々のこの世においての結末なのです。

しかしながらも、神様はいつの時代でも、神様を敬う人々を求めておられます。また、用意されます。それはなぜでしょうか。創世記を見ると、アベルが殺された時にも、アダムに子どもの「セツ」を用意されました。このセツが子どもを生み、その子どもに名前を付けられた時から、また、人々は主の御名によって祈ることを始めたと記録しています。時間が経ち、ノアの時代になると、神様を敬う人の数が数えるぐらいでした。ほとんどの人々は神様を認めませんでした。ノアの家族のみが神様の御声に従って生きる少人数の人々となりました。このノアの家族たちも人々からからかわれ、いじめられ、のけものとされました。海でもない、山のてっぺんに船を作るのだと、大声で嘲笑いました。しかしながら、審判が訪れた時に、神様を敬っていたノアは生き残りました。神様を敬っていた人々は神様の審判を乗り越える知恵がありました。しかし、ノアを嘲笑っていた人々はその審判を堪え切ることができませんでした。

聖書はこのノアの子ども、セム・ハム・ヤベテのうち、ノアが祝福したセムの家に、住むことを喜びとされました。アフリカの先祖となったハム、ヨーロッパと東北アジアの先祖となったヤベテよりも、セムの家族は神様を敬う人々だったからでした。しかし、このセムの子孫のうちから、土の代わりにレンガが発見され、様々な技術が発展するにつれて、頑丈な家や建物が作られるようになり、人々は神に挑む街を作り始めました。バベル塔の事件があったのちにも、人々はそれぞれの町で立派な都会を作り上げました。人々は神様に仕えることや神様を敬うより、太陽の神、月の神を敬う人々が増える一方でした。便利な都会で暮しながら、見えない神様よりも見える太陽を神様に仕える、月や石が、水が、神様であると考える人々が増えていきました。それがわかりやすい神様だと考えました。アブラハムの父・テラの時代、テラが住んでいた街はカルデヤのウルでしたが、月の神様に夢中な町でした。人々はこのウルに集まって生活していくのが便利でした。人々はウルに集まり、便利な街を作りました。人々はウルを大都会化していきました。

31節の御言葉をご覧ください。「テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。」とあります。アブラムの父・テラはこの町が好きではなかったようです。本文を見る限り、なぜ、テラが当時の便利な大都会・カルデヤのウルを離れて、自分の長男・アブラム、そしてアブラムの妻・サライ、また孫のロトをつれて、カナンに行こうとしていたのか、詳しいことは書かれていません。しかし、彼は便利な都市・カルデヤのウルから、田舎の町・カナンの地にいくために、カルデヤのウルを出かけました。彼はカルデヤのウルが、自慢の息子アブラムに良くないと考えていたのかもしれません。孫のロトはこの町の雰囲気から違ったところで育てたいと考えていたのかもしれません。31節の後半は「しかし、彼らはカランまで来て、そこに住みついた。」とあります。アブラムの父・テラはカナンを目標として、出かけましたが、カランで住み着いてしまいました。テラの子どもとして生きていたアブラムも、そこに住み着いてしまいました。テラの配下の中にいたアブラムは、カランの町で生きる人となりました。

カランまで来て、そこに住みついたテラは変わった人でした。時代を逆行する人でした。便利な街、おいしいお酒と食文化があり、遊び文化が発達した大都会を離れて、田舎のカナンが人間の本当の住む場所だと確信していた人のようでした。また、そのテラの考えに深く同意していたアブラムも、その甥・ロトも変わった人でした。子どもはないが、アブラムの妻となったサライも変わった人でした。彼らはみんな、変わった人たちでした。しかし、彼らに神様のことばがない時、彼らはカナンの地に行くことができませんでした。考えは時代をリードしていても、彼らはカランで止まりました。カランが彼らが住むことのできる、最大限の努力の到達点でした。テラの考えや思想を尊敬していたアブラムも、カランの町で住み着く人となりました。カランはテラの考えの到達点でした。これは変わった人々の到達点でした。

32節をご覧ください。「テラの一生は二百五年であった。テラはカランで死んだ。」テラはこのカランで死にました。アブラムの最大の父・テラが死にました。アブラムの最大の頼り人、越えられない人間、アブラムにとっては人間国宝・テラが死にました。一度も離れたことがない、尊敬し続けていた父・テラが死んだとき、アブラムは何を考えたのでしょうか。時代の変人、変わっていた人、父・テラが死んだとき、アブラムも死にました。絶望と堪え切れない悲しみに、落胆していた心は死んだ人に違いありません。

しかし、創世記の御言葉はテラの死亡がアブラムの信仰人としての出発点であることを教えています。聖書はこう書いてあります。「テラの一生は二百五年であった。テラはカランで死んだ。その後、主はアブラムに仰せられた。」テラが生きていた時、アブラムは神の声を聞くことがありませんでした。テラが生きていた時、アブラムの主はテラでした。アブラムはテラの考えを超えることができませんでした。しかし、テラが死んだとき、その後、主はアブラムに探して来られました。テラが死んでから、主はアブラムに働き始められました。

これは大きな転換です。これは聖書が教える不思議な知恵であり、新王の出発点の区切りとして示されています。アブラムはテラの子どもから、主のものとなり始めたのです。

''II.祝福となる・アブラム''

12章1節を、一緒に読んでみましょう。「その後、主はアブラムに仰せられた。『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。』」この言葉から私たちはいくつか、信仰の世界について大事なことを学びます。

''第一に、信仰の世界に入るためにはテラが死ぬべきです。''

アブラムにとってテラは自我でした。自分自身でした。テラがなくなった時、彼は自分自身をなくした絶望感にさいなまれていました。自分自身を失った人、死んだ人となりました。しかし、霊的にみると、父・テラが生きている時とは、自我が生きていた時を指します。父・テラがなくなった時、アブラムは自我をなくしました。その時、主はアブラムにおおせられました。

''『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。』''

わたしたちは頼りがいのある父・テラがあります。そして、そこに住み着いて生活しています。私たちの理性は、頼りがいの人・父・テラに住み着いて生きることを望んでいます。信仰生活を始めたいと思う人も、父テラの子どもとして生きることを望みながら、信仰生活を始めたいと思ったりします。今のままを維持しながら、信仰人として生きることを願っています。いまむしろ、今の良い父を長生きさせるために、神様が関与することを願っています。父・テラの子どもとしての姿を維持しながら、父を亡くした絶望感だけを取り除くことを望んでいます。父・テラの住んでいた故郷に戻りながら、父を亡くした悲しみだけを拭い去らせてほしいと願っています。それが信仰生活をする人々の大多数の本性であり、本音です。私たちは過去に住み、頼りがいのある父の家に戻りたいと願っています。それを神様が助けてほしいと祈りしたりします。しかし、神様は言われます。『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。』

父の家を離れなくては、信仰の出発はできません。生まれ故郷を恋していては、神様の世界に入ることができません。信仰は、父の家、生まれ故郷、自分自身の作り上げた感覚と経験を、離れて、初めて、主が示す地へ飛び立つ資格を得ることができるのです。

''第二に、信仰の世界は神様が示す地へ行くことです。''

『わたしが示す地へ行きなさい。』神様は「私が示した地」と言っていません。これから示す地へ行くように、と言われます。示した地が見える地であれば、示す地は見えない地です。示した地が面積も範囲も、土質も、気候も決まっている地であれば、示す地とはこれから予定されている地です。面積も、範囲も、土質も、気候も、アブラムの信仰次第によって変わる地です。いくらでも、アブラムの信仰次第によっては伸び、広げられる地です。逆に、その信仰次第によってはなくなる可能性もある地です。しかも、その地はアブラムのためにきれいに温存された地ではなく、すでにカナン人が住んでいる地であり、そこは安全な場所ではなく飢饉のある荒地だったのです。しかし、確かなことはそこが神様のお約束の地である、ということだけです。アブラムが選んだ地ではなく、神様が選んだ地であるということです。

アブラムの父・テラは自分の意志と計画をもって、カナンに行こうと出発しましたが、カランでとどまってしまいました。そこで死にました。そこが、父・テラの精いっぱいの開拓地でした。精一杯の到達点でした。しかし、神様が示す地、神様の約束の地、アブラムが選んだ地でなく、神様が選んだ地・カナンはそのお約束通り、アブラムの子孫に与えられました。アブラムは分かりませんでした。ずっと、本当なのか、疑いました。しかし、アブラムは何度も、信仰告白をしました。信じました。神様に叱られて、信じました。星を数えてみなさい、と言われた時にも、星を数えながら、海の砂を数えながら、全能な神様を思い出し悔い改めて信じました。そして、そうするうちにアブラムは死にました。その後も、ずっと、カナンはアブラムの子孫の地にはなりませんでした。ヨセフとその兄弟たちが、430年間、エジプトに住み着いて、エジプトの奴隷になった時に、神様のお約束は全滅・全廃されたように思いました。どこにもその実現の兆候は見えませんでした。しかし、神様の約束は神様のお約束だから、終わりませんでした。神様のお約束は、神様が選んだ地は、廃止されませんでしたし、なくなることがありませんでした。必ず、成し遂げられる、真実なお約束であることを、聖書は証言しています。神様のお約束は見事に実現し、イエス・キリストの時代に、立派にしかも、完璧に完成されたのです。

見えない示す地に行く私たち信仰人は、その地で信仰を学び、不信仰を悔い改め信仰し続け、そして、そこでアブラムのように死ぬべきです。死に至るまで、信仰人として忠実であるべきです。そうすれば、わたしたちにはアブラムが得た、あの「信仰」といういのちの冠が与えられます。

ヨハネの福音書を見ると、サマリヤの女が信仰の人に姿を変えた時、イエス様も感動して、こう言われています。「『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る。』ということわざは、ほんとうなのです。」イエス様はサマリヤの女の人に信仰の種をまいた、700年も前の預言者たちの信仰とその生き方を、サマリヤの女の変わった姿を見て感謝し賛美をしていたのです。700年前の預言者たちの種が、今、イエスの時代に現れたのだと感謝しておられたのです。アブラムの信仰はモーセの時代にスタートし、ダビデの時代に実現されたのです。その期間に比べると、人間の齢はほんのわずかです。神様が示した地とそのお約束は、神様が実現させられます。私たちの力ではありません。ですからこそ、神様のお約束は確実なお約束です。神様のお約束は、信仰し続ける人々のものです。それで、へブル人への手紙は次のように言っています。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」

それでは、アブラムの信仰のお約束が何でしょうか。2節をご一緒に読んでみましょう。「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」この意味が何でしょうか。

''第一に、神様のお約束は一方的で想像できないものです。''

神様のお約束は想像すらできないものです。ひと坪の土地もなく、天幕生活を強いられているアブラムに、神様は約束されました。「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。」あまりにも一方的すぎて、話になりません。たとえ、それが本当だと仮定しても、信じきれません。信仰の世界が難しいのは、想像できない、実現できそうにないお約束を与えてくださることです。今お家を立てる50坪ぐらいの土地を与える、としたら見え見えで、分かりやすく、信じられるのですが、ひとりの子どももいないアブラムに、あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう、とすると、精神的におかしくない限り、信じられません。しかし、不思議なことにアブラムが信じました。そしてその信仰が続いた時、そのお約束は神様によって実現されたのです。信仰生活とはアブラムのように悔い改めては信じ、また、悔い改めて信じ続ける生活の繰り返しです。そして、また、疑いの心が生じては悔いあらためて、また信じ続けることです。そのうちに、死んでゆく生活です。しかし、私たちが死に至るまで、アブラムのように信仰し続け、忠実であるとき、その結論は神様が保証されます。実現は神様の御手よって行われるからです。

日本宣教を私たちの手でしようとするなら、私たちはその重みにつぶれてしまいそうです。しかし、今日の御言葉を見ると、私たちは疑いと戦い、信仰し続けるのみが求められます。信じ続けて、信仰人として死ぬことが求められます。まったく変わらない日本の姿を目のあたりにしていても、確信を持ち、死ぬことが私たちの運命です。しかし、私たちが信仰し続けるとき、神様は日本をキリストの国に変えます。全能の神様がそれを実現します。神様の手は短くありません。信者はからかわれ、のけものとされ、嘲笑う対象となり、ついには殺されても、でも、信じ続ける信仰は実現します。それが実現されるのは神様のお約束だからです。

''第二に、アブラムの信仰はイスラエルという信仰の国を作り上げます。''

国はなくなります。あの強かったアッシリアも、昔の物語として紹介されるローマも、ペルシアも、今は廃墟だけです。いつか、この日本も姿を消し、アメリカも姿を消すでしょう。しかし、神様はアブラムの信仰の上に、「大いなる国民」を永遠に続けさせられます。その名は大いなるもの「イエス・キリスト」です。その名は「祝福」となります。「あなたの名を大いなるものとしよう。」瞬間的な祝福ではなく、永遠に続く祝福の国になります。アブラムの信仰はイエス・キリストに帰着します。イエス・キリストの中で、私たちは永遠の国を獲得したものです。

アブラムが父・テラを無くした時、アブラムはこの国を得たのです。私たちは自分を捨てるべきです。そして、自分の十字架を負って、毎日、信仰を学ぶべきです。悔い改めて、信じ続けるべきです。その問いに、私たちはこの国を得るべきです。体験すべきです。所有すべきです。キリストの国です。永遠に続く国です。わたしたちの子どもたちも、星たちも、私たちの父から離れるべきです。私たち父・母は子どもたちを切り離すべきです。彼らが個人的に、神様の声を聞くためです。その時に、彼らも本当の祝福となります。

信仰生活はイエス・キリストを得るための「旅人の旅行」です。神様は私たちが信仰人として生きることを決心するとき、父の家を離れ、生まれ故郷を離れる時、旅立ちを迎えられます。そして、祝福となる道・イエス・キリストを教えてくださいます。そして、聖霊に満たされます。ついには主の国に招かれます。しかも、私たちのこの世に置いて頂いた御言葉は、主の時期になると実現します。わたしたちはキリストを得る喜びに讃美し、主の国で喜ぶ「祝福」となるのです。

主は信者たちに約束しています。「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」この時間、数少ない私たちが一人一人、信仰のアブラムとなりましょう。テラから離れて、生まれ故郷に執着せず、父の家を離れ、神様の示す地へ出かけましょう。そして、大分で信仰し続け、死にましょう。大阪で信仰し続け死にましょう。長崎で信仰し続け死にましょう。福岡で信仰し続け死にましょう。そして、わたしたちの友・私たちの主・イエス・キリストを得ましょう。700年後、一千年後、または主の時に、この国をキリストの国に仕上げる神様の大きな力を信じましょう。

信仰し続けるわたしたちはこの時代「祝福」そのものです。わたしたちを祝福する者を神様は祝福し、わたしたちをのろう者を神様はのろいます。地上のすべての民族は、このわたしたちによって祝福されます。

 ハレルヤ


トップ   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS