[[Nagasaki UBF, Japan]]

あなたは祝福となる

御言葉:創世記11章31節から12章4節
要節:創世記12章2節「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」

星を数える会をはじめて、5年目を迎えました。神様に感謝いたします。この会が10年、20年と続けられますように、いやこの日本という国が続く限り、1千年、2千年と続けられますように祈ります。また、その中で信仰のアブラハムがひとりひとりと誕生していきますように祈ります。

今日の御言葉は神様がアブラハムに与えて下さったお約束の言葉です。今日はこのアブラハムに与えられた神様の御言葉の意味について学びたいと思います。今日の本文は、アブラハムが父・テラの子どもとして生きていた時代について、また、信仰人としてスタートした時期について説明しています。今日の御言葉を通して、神様がアブラムに探してこられ、その人生におかれたビジョン、夢を学びますように祈ります。

''I.カランまで来て、そこに住みついたテラ''

聖書には最初の人間・アダムが堕落してその子孫から、つまり、呪われた世界に住み始めた人々について、神様を敬う人とそうでない人の2種類に分類しています。最初の人間アダムから生まれた子孫のうち、神様を敬う人はアベルでした。また、神様を敬わない人としてカインを紹介しています。神様を敬うアベルは神様を敬わない人によって殺されました。神様を敬う人はそうでない人によってからかわれました。いじめられました。捨てられました。ついには殺されました。これが神様を敬いながら生きていた人々のこの世においての結末なのです。

しかしながらも、神様はいつの時代でも、神様を敬う人々を求めておられます。また、用意されます。アベルが殺された時、アダムこども「セツ」を用意されました。このセツが子ども生み、その子どもに名前を付けられた時から、また、人々は主の御名によって祈ることを始めたと記録しています。しかし、ノアの時代になると、神様を敬う人の数が数えるぐらいでした。ほとんどの人々は神様を認めませんでした。ノアの家族が神様の御声に従って生きる人となりました。このノアの家族も人々からからかわれ、いじめられ、のけものとされました。海でもない、山のてっぺんに船を作るのだと、大声で嘲笑いました。しかしながら、審判が訪れた時に、神様を敬っていたノアは生き残りました。神様を敬っていた人々は神様の審判を乗り越える知恵がありました。しかし、ノアを嘲笑っていた人々はその審判を堪え切ることができませんでした。

聖書はこのノアの子ども、セム・ハム・ヤベテのうち、ノアが祝福したセムの家に、住むことを喜びとされました。アフリカの先祖となったハム、ヨーロッパと東北アジアの先祖となったヤベテよりも、セムの家族は神様を敬う人々だったからでした。しかし、このセムの子孫のうちから、土の代わりにレンガが発見され、様々な技術が発展するにつれて、頑丈な家や建物が作られるようになり、人々は神に挑む街を作り始めました。バベル塔の事件があったのちにも、人々はそれぞれの町で立派な都会を作り上げましたが、神様に仕えることや神様を敬うより、太陽の神、月の神を敬う人々が増える一方でした。便利な都会で暮しながら、見えない神様よりも見える太陽を神様に仕える、月や石が、水が、神様であると考える人々が増えていきました。アブラハムの父・テラの時代、寺が住んでいた街はカルデヤのウルでしたが、月の神様に夢中な町でした。人々はこのウルに集まって生活していくのが便利でした。人々はウルに集まっていました。人々はウルを大都会化していきました。便利な街を作り上げていました。

31節の御言葉をご覧ください。「テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。」とあります。アブラムの父・テラはこの町が好きではなかったようです。本文を見る限り、なぜ、テラが当時の便利な大都会・カルデヤのウルを離れて、自分の長男・アブラム、そしてアブラムの妻・サライ、また孫のロトをつれて、カナンに行こうとしていたのか、詳しいことは書かれていません。しかし、彼は便利な都市・カルデヤのウルから、田舎の町・カナンの地にいくために、カルデヤのウルを出かけました。「しかし、彼らはカランまで来て、そこに住みついた。」とあります。アブラムの父・テラはカナンを目標として、出かけましたが、カランで住み着いてしまいました。テラの子どもとして生きていたアブラムも、そこに住み着いてしまいました。テラの配下の中にいたアブラムは、カランの町で生きる人となりました。

カランまで来て、そこに住みついたテラは変わった人でした。時代を逆行する人でした。便利な街、おいしいお酒と食文化があり、遊び文化が発達した大都会を離れて、田舎のカナンが人間の本当の住む場所だと確信していた人でした。また、そのテラの考えに深く同意していたアブラムも、その甥・ロトも変わった人でした。子どもはないが、アブラムの妻となったサライも変わった人でした。しかし、彼らに神様のことばがない時、彼らはカナンの地に行くことができませんでした。考えは時代をリードしていても、彼らはカランで止まりました。カランが彼らが住むことのできる、最大限の努力の到達点でした。テラの考えや思想を尊敬していたアブラムも、カランの町で住み着く人となりました。

32節をご覧ください。「テラの一生は二百五年であった。テラはカランで死んだ。」テラはこのカランで死にました。アブラムの最大の父・テラが死にました。アブラムの最大の頼り人、越えられない人間、アブラムにとっては人間国宝・テラが死にました。一度も離れたことがない、尊敬し続けていた父・テラが死んだとき、アブラムは何を考えたのでしょうか。時代の変人、変わっていた人、父・テラが死んだとき、アブラムも死にました。絶望と堪え切れない悲しみに、落胆していたに違いありません。

しかし、テラの死亡はアブラムの信仰の出発点です。聖書はこう書いてあります。「テラの一生は二百五年であった。テラはカランで死んだ。その後、主はアブラムに仰せられた。」テラが生きていた時、アブラムは神の声を聞くことがありませんでした。テラが生きていた時、アブラムの主はテラでした。しかし、テラが死んだとき、その後、主はアブラムに探して来られました。


''II.祝福となる・アブラム''

12章1節を、一緒に読んでみましょう。「その後、主はアブラムに仰せられた。『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。』」この言葉から私たちはいくつか、信仰の世界について大事なことを学びます。

''第一に、信仰の世界に入るためにはテラが死ぬべきです。''

アブラムにとってテラは自我でした。自分自身でした。テラがなくなった時、彼は自分自身をなくした絶望感にさいなまれていました。自分自身を失った人、死んだ人となりました。父・テラが生きている時とは、霊的に見ると、自我が生きていた時を指します。父・テラがなくなった時、アブラムは自我をなくしました。その時、主はアブラムにおおせられました。

''『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。』''

わたしたちは頼りがいのある父・テラに住み着きたいと願っています。私たちの理性は、過去の人・父・テラに住み着いて生きることを望んでいます。今のままを維持することを望んでいます。今のままを維持するために、神様が関与することを願っています。父・テラの子どもの姿を維持するために、絶望感だけをなくすことを望んでいます。父・テラの家に住みながら、父を亡くした悲しみだけを拭い去らせてほしいと願っています。いや、むしろ父・テラが長い間生きていた街、アブラムが生まれた故郷に戻ろうとします。それが本性であり、本音です。私たちは過去に戻りたい、頼りがいのある父の家に戻りたいと願っています。しかし、神様は言われます。『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。』父の家を離れなくては、信仰の出発はできません。生まれ故郷を恋していては、神様の世界に入ることができません。信仰は、父の家、生まれ故郷、自分自身の作り上げた感覚と経験を、離れて、主が示す地へ飛び立つことです。

''第二に、信仰の世界は神様が示す地へ行くことです。''

『わたしが示す地へ行きなさい。』神様は「私が示した地」と言っていません。これから示す地へ行くように言われます。示したちが見える地であれば、示す地は見えない地です。示したちが面積も範囲も、土質も、気候も決まっている地であれば、示す地とはこれから予定されている地です。面積も、範囲も、土質も、気候も、アブラムの信仰次第によって変わる地です。いくらでも、アブラムの信仰次第によっては伸び、広げられる地です。逆に、その信仰次第によってはなくなる可能性のある地です。しかも、その地はアブラムのためにきれいに温存された地ではなく、すでに人がカナン人が住んでいる地であり、そこは安全な場所ではなく飢饉のある荒地です。しかし、確かなことはそこが約束の地である、ということです。アブラムが選んだ地ではなく、神様が選んだ地であるということです。アブラムの父・テラは自分の意志と計画をもって、カナンに行こうと出発しましたが、カランでとどまってしまいました。そこで死にました。しかし、神様が示す地、神様の約束の地、アブラムが選んだ地でなく、神様が選んだ地・カナンはそのお約束通り、アブラムの子孫に与えられたのです。アブラムは分かりませんでした。ずっと、本当なのか、疑いました。しかし、アブラムは何度も、信仰告白をしました。信じました。神様に叱られて、信じました。星を数えてみなさい、と言われた時にも、悔い改めて信じました。そして、アブラムは死にました。そののちも、ずっと、カナンはアブラムの子孫の地にはなりませんでした。ヨセフとその兄弟たちが、400年間、エジプトに住み着いて、エジプトの奴隷になった時に、神様のお約束は全滅・全廃されたと思いました。しかし、神様の約束は終わりませんでした。神様のお約束は、神様が選んだ地は、廃止されませんし、なくなることがありません。必ず、成し遂げられる、真実なお約束です。

見えない示す地で、私たちは信仰人として、信仰を学び、信仰をし続け、死ぬべきです。死に至るまで忠実であるべきです。そうすれば、わたしたちには信仰といういのちの冠が与えられます。サマリヤの女が信仰の人に姿を変えた時、イエス様も感動して、こう言われています。「『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る。』ということわざは、ほんとうなのです。」イエス様はサマリヤの女の人に信仰の種をまいた、600年前の預言者たちの信仰とその生き方を、サマリヤの女の変えた姿を見て感謝し賛美をしていたのです。「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」600年前の預言者たちの種は、イエス様の時代に現れたのです。アブラムの信仰はモーセの時代にスタートし、ダビデの時代に実現されたのです。神様が示した地とそのお約束は、神様が実現させられます。私たちの力ではありません。ですから、確実なお約束です。ですから、実現が確実なものです。神様のお約束は、信仰し続ける人々のものです。

それでは、アブラムの信仰のお約束が何でしょうか。2節をご一緒に読んでみましょう。「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」この意味が何でしょうか。

''第一に、神様のお約束は一方的で想像できないものです。''

神様のお約束は想像すらできないものです。ひと坪の土地もなく、天幕生活を強いられているアブラムに、神様は約束されました。「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。」あまりにも一方的すぎて、話になりません。たとえ、それが本当だと仮定しても、信じきれません。信仰の世界が難しいのは、想像できない、実現できそうにないお約束を与えてくださることです。今お家を立てる50坪ぐらいの土地を与える、としたら見え見えで、分かりやすく、信じられるのですが、ひとりの子どももないアブラムに、あなたは大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう、とすると、精神的におかしくない限り、信じられません。しかし、アブラムが信じた時、そのお約束は神様が実現されたのです。信仰生活はアブラムのように悔い改めては信じ、また、悔い改めて信じ続ける生活です。そして、また、疑いの心を悔いあらためて信じ続けるうちに、死んでゆく生活です。しかし、私たちが死に至るまで、アブラムのように信仰し続け、忠実であるとき、その結論は神様が保証されます。実現は神様の御手で行うからです。

日本宣教を私たちの手でしようとするなら、私たちはその重みにつぶれてしまいます。私たちは疑いと戦い、信仰し続けるのみが求められます。信じ続けて、見えない中で死ぬことが求められます。まったく変わらない日本の姿を目のあたりにして、死ぬことが私たちの運命です。しかし、私たちが信仰し続けるとき、神様は日本をキリストの国に変えます。全能の神様がそれを実現します。信者はからかわれ、のけものとされ、嘲笑う対象となり、ついには殺されても、信じ続ける信仰は実現します。それが実現されるのは神様のお約束だからです。


''第二に、アブラムの信仰はイスラエルという信仰の国を作り上げます。''

国はなくなります。あの強かったアッシリアも、ローマも、ペルシアも、今は廃墟だけです。いつか、この日本も姿を消し、アメリカも姿を消すでしょう。しかし、神様はアブラムの信仰の上に、「大いなる国民」を永遠に続けさせられます。その名は大いなるものになります。その名は祝福となります。し、あなたの名を大いなるものとしよう。瞬間的な祝福ではなく、永遠に続く祝福の国になります。アブラムの信仰はイエス・キリストに帰着します。イエス・キリストの中で、私たちは永遠の国を獲得したものです。

アブラムが父・テラを無くした時、この国を得たのです。私たちは自分を捨てるべきです。そして、自分の十字架を負って、毎日、信仰を学ぶべきです。悔い改めて、信じ続けるべきです。その問いに、私たちはこの国を得ます。キリストの国です。永遠に続く国です。わたしたちの子どもたちが父から離れるべきです。私たちは子どもたちを話すべきです。彼らが個人的に、神様の声を聞くためです。その時に、彼らは本当の祝福となります。


主は信者たちに約束しています。「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」この時間、数少ない私たちが一人一人、信仰のアブラムとなりましょう。テラから離れて、生まれ故郷に執着せず、父の家を離れ、神様の示す地へ出かけましょう。そして、大分で信仰し続け、死にましょう。大阪で信仰し続け死にましょう。長崎で信仰し続け死にましょう。福岡で信仰し続け死にましょう。そして、600年後、千年後、いつか、この国をキリストの国に仕上げる神様の大きな力を信じましょう。

信仰し続けるわたしたちはこの時代、祝福、です。わたしたちを祝福する者を神様は祝福し、わたしたちをのろう者を神様はのろいます。地上のすべての民族は、わたしたちによって祝福されることを信じます。


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