** 2008年度クリスマス勉強第1講義(その名はインマヌエル) [#m6eb5741]

御言葉:イザヤ書7章1~14節 [[勉強資料>2008ChristMas01s]] [[問題紙>2008ChristMas01q]]
|''要節14節 :'' それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。|

 今日の御言葉はイスラエルが二つの国に分裂した時代に、イザヤ預言者を通して南ユダの12代目の王、アハズに与えられた神様の御言葉です。イスラエルはアブラハムの子孫でした。誰も神様の存在を認めようとしなかったとき、神様の言葉に従って生きていたアブラハムのように、神様の存在を信じ、神様にしるしを求め、神様の助けや神様の導きを肌で感じて生きる民の子孫でした。アブラハムの子孫たちは、先祖ヨセフのおかげで、エジプトで豊かな生活を送りました。しかしながら、彼らは豊かな生活の中で、霊的にエジプトの奴隷となりました。ついには、エジプトから厳しい目にさらされ、霊的にも肉的にも奴隷となってしまいました。彼らは生きていましたが、死んでいる者たちと同様でした。

 そのような時代、神様は心が神に開いていたモーセをお呼びになりました。神様は奴隷であったイスラエルの民が、エジプトの奴隷として生きるのではなく、自立した民族として、自立した個人として、全能な神様に仕える民として生きることが神様の切なる願いであることをモーセに伝えました。モーセは、神様の導きにより、奴隷根性の染みついたイスラエルの民を、出エジプトさせる偉大な神様の事業をスタートしました。イスラエルの民は40年間の荒野の生活を通して、エジプトで習った奴隷根性を抜き捨てて、神様への信頼と信仰を保ったものとして生き延びた人々により、神様のお約束の地、カナンへと導かれました。ダビデとサウル時代、イスラエルは統一され、黄金時代を迎えました。どこの国も、イスラエルを無視することはできませんでした。イスラエルの強さは、神様の強さを表すものとなりました。世界の国々から、全能な神様、天と地を想像された神様を学ぶために集まりました。ダビデとサウルを見るだけでも、神様の威力が見えてきました。サウルから始まったイスラエルの王国は、ダビデ、ソロモン時代の約100年間、統一王国として、神様のお力を見せ示す国として周辺国の熱望の存在でした。しかし、BC931年、イスラエルが、北イスラエルと南ユダとして分裂されると同時に国は二流国家として転落してしまいました。それから200年が過ぎたBC730年、北イスラエルは周辺国家とともに同盟を組み、南ユダを侵攻しました。しかし、その戦いで北イスラエルは勝てませんでした。力や軍事面からして、間違いなく勝てる戦争でした。しかし、イザヤ書7章1節は、「ウジヤの子のヨタムの子、ユダの王アハズの時のこと、アラムの王レツィンと、イスラエルの王レマルヤの子ペカが、エルサレムに上って来てこれを攻めたが、戦いに勝てなかった。」と記録しているのです。

 今日の御言葉のこのような背景をみると、イスラエルは弱り果てていました。新興国として登場したアッシリヤの力に同盟を組み抵抗せざるを得ない状況でした。しかしながら、国の存続はますます弱くなる一方でした。次から次へと迫ってくるアラムとエフライムの侵略はウジヤ時代に持っていた土地を奪い取られるばかりでした。その上、北イスラエルはアラムとエフライムと同盟を組み、南ユダを侵略し続けました。当時の王・アハズは、歴代志IIの28章1節を見ると、二十歳で王となり、エルサレムで十六年間、王でありました。しかし、彼はその父祖ダビデとは違って、主の目にかなうことを行ないませんでした。彼の心には神様の存在がありませんでした。形は信者でしたが、すべては自分の腕を信じるものでした。彼の行動は主の目に適うことより、人の目に適うものでした。その時、彼は周辺国の動きに心が動揺しました。侵略していたアラムがエフライムにとどまったことを聞いたときに、彼らが同盟を組み、また侵略してくるかもしれないと心配し始めました。7章2節を見ると、「王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した。」とあります。これは当時の緊迫した国の事情を示すものです。非常事態の緊急対策本部がアハズ王の下に設置され、その都度、報告がなされました。また、これらの事情は民にも伝えられました。アハズ王は国の存続に心配し、心が動揺しました。王の動揺を着て、民の心も動揺しました。

 神様はその時、アハズに神のしもべ・イザヤを派遣されました。そして言いました。4節、「気をつけて、静かにしていなさい。」彼らは煩くしていました。彼らはいろんな会議を開いていました。彼らはいろんな情報を仕入れ、いろんな判断をしていました。彼らの議論は激しく、時には喧嘩が続きました。彼らはそれが国を救いだす道を見出すものと考えました。しかし、神様は彼らに、「気をつけて、静かにしていなさい。」と言われました。人間的な方策を考えることをやめるようにと指示されました。そして、「恐れてはなりません。あなたは、これら二つの木切れの煙る燃えさし、レツィンすなわちアラムとレマルヤの子との燃える怒りに、心を弱らせてはなりません。」と言われました。彼らは恐れていました。彼らは国の存続が、命につながっていました。彼らは死ぬか生きるかの岐路に立っていました。しかし、神様は南ユダにとってアラムとエフライムは二つ木切れの煙る燃えさしでした。国の存続を脅かし、彼らの命を略奪力がありそうなアラムとエフライムでしたが、神様にはこのような現実を乗り越える勝利の保障があることを、アハズに伝えました。また、7節では、「そのことは起こらないし、ありえない。」と断言しています。二つの木切れによって神様が後ろ立てる国が危うくなることはない、そのようなことは起こらないし、ありえない、としています。

 神様が後ろ立てる人生や国は、失敗がりません。気をつけて、静かにして、恐れず、心を弱らせないとき、神様は神様の栄光を表します。神様の目的を達成し、その栄光は輝きを増します。時が来ると実がなり、その葉は枯れない、その人生や国は何をしても、栄えるのです。神様が緊急事態に恐れ、騒ぎ立てているアハズに、気をつけて静かにする、ことを求めています。恐れず、心を弱らせないことを要求しています。それだけにとどまっていません。神様はもう一つ、アハズ王に願っていることがありました。11節、「あなたの神、主から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから。」主の助けがはっきりと示しているような、しるしを求めるよう、言われました。これは求める人にしるしを与える、神様の約束でもあります。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます(マタイ7章7節)。」これがアハズへの神様の要求であり約束でした。

 アハズはこの神様の要求とお約束にどのように反応していますか。12節、「私は求めません。主を試みません。」これはどんな意味ですか。ひとつは頑固なアハズの様子がうかがえるものです。政治的な状況、周辺国の話を、なぜ、神様に求めるのか、という自己主張です。主を試みることをしない、主のしるしがあるかどうかを試す時間があるなら、軍事訓練を視察する、という意味でもあります。もう一つは、もう彼には求める力もない、気力もない、希望もない、経験もない、という意味でもあります。なにはともあれ、アハズは神様のしるしを求めませんでした。歴史に残るその証拠として、アハズはアッシリヤと同盟を組み、北イスラエルと周辺国に抵抗をくわ立てました。これはしばらく南ユダに勝利を与えました。アハズの知恵とすぐれた判断力が光るかのように見えました。しかし、南ユダはこれを境目に、アッシリヤの属国となり、ついにはアッシリヤに完全に食われ、次に出てきたバビロンに国を譲ってしまう結末を迎えるようになります。

 イザヤはその頑固なアハズの姿に涙ぐむ預言者でした。神に頼らず、自分の腕や知恵袋を頼っている、最後の最後まで、神に立ち返ることをしない、立ち返ろうともしない、いや立ち返られない、アハズのために悲しみ続けた預言者でした。しかし、イザヤは一つの不思議な神様のビジョンに燃え上がりました。それは、アハズが求めなかった「しるし」を、アハズが捨ててしまった「しるし」を、アハズが無視し、蹴っ飛ばしてしまった「しるし」を、神様自ら、お与えになるというビジョンと夢でした。

 13節と14節をご覧ください。「さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」これは驚く神様の恵みと、神様の忍耐と、神様の一方的なしるしなのです。アハズが拒否した、ダビデの家が拒否した、アブラハムの子孫が求めなかったしるしを、神様自らがお与えになる夢とビジョンを、イザヤは見たのです。''「主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」''

 この御言葉から私たちは、主・イエス・キリストの誕生がどんな意味を持っているのか、学ぶことができます。イエス・キリストの誕生は、アハズのようなアブラハムの子孫、ダビデの家に、主自らがご用意されました「神様のしるし」なのです。

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